EX23
リリーは黒峰の屋敷に残っていた。
コーイチには事務所へ戻ってもらった。留守番と後処理と報告書の整理が必要であり、人間界側の窓口として待機する者も必要であり、なにより彼がいると実験が途中で止まる。最後の理由は口に出さなかったが、リリーの中ではかなり大きな比重を占めていた。
黒峰の一室には、畳の上に低い机が置かれている。
その上には、リリーが持ち込んだ簡易観測具、魔力反応を見るための小型水晶、魔導具ではない紙の記録帳、黒峰側が用意した古い巻物が並んでいた。魔界の研究室とは違い、配線も大型装置もない。だが、そういうものがないからこそ、ここで起きていることの異様さが際立つ。
「魔力波形なし。魔術式なし。体内から発して一点へ集まり、空間に圧を作る。さっきの観測結果を前提にすると、気は魔法を消しているわけではないわね」
リリーが記録帳に書き込むと、理沙が柔らかく笑った。
「押し返している、という表現の方が近いかもしれませんね。もっとも、私たちは昔からそういうものとして扱っているので、言葉にすると少し妙な感じがします」
「その妙な感じが大事なの。既存の言葉で雑に包むと、未知の部分が見えなくなるから」
リリーは小型水晶に指を乗せ、低出力の魔力を流した。水晶の中に淡い光が灯る。徹心はその向かいに座り、片手を膝の上に置いたまま動かない。
年老いた男の所作は静かだった。
静かすぎて、何かが起きる前の刃に見える。
「では、まず接触しない距離での反応から」
「承知した」
徹心が息を吐いた。
水晶の光がわずかに歪む。触れていない。魔法でもない。だが、水晶の中に満ちていた魔力が、内側から押されたように偏った。
リリーは目を輝かせた。
「そう、それ! もう一回! 今度は角度を変えて!」
「リリーさん」
理沙が穏やかに呼んだ。
「畳を焦がさない範囲でお願いします」
「もちろん。私は研究者よ。研究環境を破壊するような雑な真似はしないわ」
言いながら、リリーは別の観測具を取り出した。
「それは?」
「低出力の魔力膜を作る道具。これに気を当てた時、膜が消えるのか、歪むのか、裂けるのかを見る」
「壊れるのでは?」
「壊れたら、それはそれで分かることがある」
「研究者の方は便利な言い方をしますね」
「あなたたち黒峰に言われたくないわ」
理沙はにこりとした。
否定はしないらしい。
魔力膜は、机の上に薄い硝子板のように展開された。光は弱く、触れれば指先で破れそうに見える。理沙が手をかざし、ゆっくりと気を練る。
リリーには魔術式が見えない。
魔力の流れもない。
それなのに、空気の厚みだけが変わった。
魔力膜の表面がへこむ。水面に指を押し込んだ時のように、中央から外へ波紋が広がった。消えていない。打ち消されてもいない。形を保ったまま、成立する場所そのものを押し退けられている。
「アンチ・マジックとは違う」
リリーは呟いた。
魔法無効化装置は魔術式の構築を阻害し、発動済みの魔法すら巻き込んで消す。忌々しいが、理屈としては分かる。どれほど嫌悪すべき代物でも、観測できる枠内にある。
だが、これは違う。
消すのではない。
魔法がそこに在るための場を、別の理屈で押し返している。
「なるほど。つまり、魔法と気が同時に体内で暴れた場合、内側で似たような押し合いが起こる可能性があるわけね」
「生身で試すと内臓が壊れますよ」
理沙が言った。
「でしょうね」
「経験がおありで?」
「推測よ。推測だけど、かなり嫌な精度で当たると思う」
リリーは記録を続けた。
その横で、徹心が魔力膜を見下ろしている。
「次は、刃を作れるか」
「刃?」
「押し返すだけではなく、裂く」
「いいわね」
「いいんですか?」
理沙の問いに、リリーは胸を張った。
「治療可能な範囲なら、観測価値の方が上よ」
「先ほど現地協力者との距離管理について、厳しいお話をされていた方の言葉とは思えませんね」
「それとこれとは別。行政手続きと研究倫理は別々に守るものなの」
「研究倫理は守れているのでしょうか」
「守る努力はしている」
理沙はまた否定しなかった。
徹心が人差し指を立てる。
魔力膜の一部が、音もなく裂けた。
破れた、というより、そこだけ存在する場所を奪われたように見えた。リリーが身を乗り出す。観測具の針が振れ、記録帳の上に置いていた紙片がふわりと浮いた。
次の瞬間、膜の裂け目から弾けた魔力が理沙の手首を浅く切った。
血が滲む。
リリーは動きを止めた。
理沙は傷口を見て、少し首を傾げる。
「浅いですね」
「浅いけど、負傷よ」
「治療できます」
「そういう問題ではない、と言うべき場面なのは分かっているわ」
リリーは手早く魔力膜を解除した。理沙は懐から布を出し、慣れた手つきで手首を押さえる。慌ててはいない。痛みを無視しているというより、痛みを情報として扱っている目だった。
それがまずい。
非常にまずい。
リリーは自分を棚に上げて、黒峰という家の危うさを少し理解した。
「出血量、痛み、切断面の具合から見て、魔法由来の損傷ではありません。刃物で切られた時に近いですね」
「あなた、傷の報告をしながら嬉しそうにしないで」
「リリーさんも嬉しそうですよ」
「私は研究者だから」
「私も黒峰ですので」
会話が成立しているようで、成立していない。
徹心は裂けた膜の残滓を眺め、静かに頷いた。
「なるほど。もう少し細くできる」
「待って」
リリーは片手を上げた。
自分が止める側に回るとは思わなかった。コーイチがここにいたら、たぶん額を押さえていたはずだ。
「本日はここまで」
「まだ余地がある」
「余地があるから止めるの。これ以上は観測具が足りない。あと、あなたたちが負傷を成果扱いするから危ない」
「リリーさんに言われるのは少し不思議ですね」
「私もそう思う」
リリーは記録帳を閉じた。
理沙の手首には布が巻かれている。徹心は無傷。部屋の畳は少しだけ焦げ、魔力膜用の観測具には細い亀裂が入っていた。
被害は軽微。
成果は大きい。
そして、危険性は成果と同じくらい大きい。
「正式な観測計画を立て直すわ。次は第3班の設備、記録員、治療担当、あなたたち黒峰側の協力範囲を明文化してから」
「明文化すると、できることが減りませんか」
「減らすために明文化するの」
理沙は残念そうに微笑んだ。
徹心は不満を表に出さない。ただ、その沈黙が、まだ試したいことがあると言っている。
リリーは二人を見て、深く息を吐いた。
神に関する伝承を追うために来たはずだった。
それが今は、魔術式を介さない力の観測に足を取られている。
横道だ。
だが、横道の先にしか見えないものもある。
リリーはひびの入った観測具を箱に戻し、記録帳を胸に抱えた。
「帰ったら会議ね」
その声は、反省よりも期待に近かった。
自覚はある。
だからこそ、リリーは自分の足取りが少し軽くなっていることを、誰にも指摘されないようにした。




