EX22
桐子は客室の卓に置かれた茶器を見て、まだ西部領の城にいるのだという実感を少し遅れて受け取っていた。
王都の寮とも、サニーの家とも違う。調度品は古く、壁紙の模様は細かく、窓の外には海からの風が運んでくる湿った匂いがある。事件の夜には、同じ城の廊下を武器を奪いながら走った。照明が消え、月明かりだけが残り、敵の息遣いを聞き分けていた。
今は、茶菓子がある。
その差が大きすぎて、桐子はしばらく茶菓子を見つめていた。
「桐子」
隣で椅子に腰かけていたアイギスが、声を落とした。
「それは食べていいものだと思う」
「分かってる。分かってるんだけど、ちょっと警戒してた」
「毒味が必要なら私が先に食べるが」
「そこまでじゃない」
桐子が慌てて手を振ると、扉が控えめに叩かれた。
入ってきたのはクロエだった。いつものように背筋を伸ばし、乱れのない足取りで部屋へ入ってくる。けれど、いつもより少しだけ口元が硬い。貴族らしい微笑みを作ろうとして、まだ作り切れていない感じがあった。
「二人とも、少し時間をいただけるかしら」
「うん。大丈夫」
「問題ない」
桐子とアイギスが頷くと、クロエは扉を閉め、少しだけ間を置いてから椅子に座った。
その沈黙だけで、軽い話ではないのだろうと分かる。
ただ、クロエの顔には深刻さと同じくらい、言い出しづらさが混ざっていた。
「先に言っておくけれど、これは家の話よ」
「うん」
「そして、私も今日知ったばかりの話」
「うん?」
桐子は首を傾げた。
クロエは視線を一度だけ茶器へ落とし、すぐに戻した。
「執事のことよ」
アイギスの目が細くなる。
「あの方に何かあったのか」
「何かあった、というより……何かあったのは私の認識ね」
クロエはそこで、めずらしく言葉を探した。
桐子は茶菓子に伸ばしかけた手を止める。食べるタイミングを失った。
「彼は、私の祖父だったの」
「……そっか」
桐子は頷いた。
一拍遅れて、言葉の意味が頭の中で組み上がった。
「え、祖父?」
「そう。祖父」
「ローザさんのお父さん?」
「そうよ」
「え、あの執事さんが?」
「そうよ」
「クロエ、知らなかったの?」
「知らなかったわ」
「なんで?」
「私が聞きたいわ」
クロエの返事が、いつもより少し速かった。
アイギスは真面目な顔で顎に手を当てている。桐子よりも驚いていないように見えるが、たぶん驚き方の種類が違うだけだ。
「つまり、ローザ殿の父であり、クロエの祖父であり、十一年間は執事としてクロエを保護していたということか」
「そうなるわね」
「ややこしい」
「分かる」
桐子が即答すると、クロエは少しだけ肩の力を抜いた。
「シュヴァリエ家には、当代から三世代離れた者は名を捨てるという慣習があるの」
「三世代」
桐子は指を折った。
「クロエが当代で、次がクロエの子どもで、その次が孫?」
「そう。私の次の代がシュヴァリエを継いだ時点で、彼はシュヴァリエではなくなる」
「家族なのに?」
「家の仕組みとしては、そう」
クロエの声は平静だった。
平静に聞こえるように、整えられていた。
桐子はもう一度、頭の中で家系図を描こうとした。だが、途中でやめた。紙が必要だ。いや、紙があっても線が多くなりすぎて、たぶん途中で嫌になる。
「それで、名を捨てる前段階として執事をしているらしいわ」
「前段階が重い」
「私もそう思う」
クロエは小さく息を吐いた。
「母は、うっかり父と呼んだの」
「ローザさんが」
「そう。それで私が固まって、母も固まって、彼も少しだけ固まった」
「あの執事さんも固まるんだ」
「ほんの少しよ。こちらが見逃せない程度には」
桐子はその場面を想像した。
飲み物を持ってくる執事。さらりと父に感謝するローザ。固まるクロエ。固まるローザ。ほとんど固まっていないが、確かに固まっている執事。
深刻な事情なのに、絵面が少し強かった。
「それで、クロエは大丈夫なの?」
桐子が聞くと、クロエの表情から笑いの気配が消えた。
「大丈夫かどうかで言えば、まだ分からないわ」
「うん」
「怒っていないわけではない。どうして言わなかったのかとも思うし、祖父なら祖父として何か言うことがあったでしょうとも思う。ただ、彼が執事として側にいたから、私はここまで生きてこられた」
クロエは膝の上で指を組んだ。
その仕草は、いつもの優雅なものではなく、感情を逃がさないためのものに見えた。
「それを否定する気にはなれないの」
「面倒だね」
桐子が言うと、クロエは眉を上げた。
「ずいぶん率直ね」
「ごめん。でも、面倒だと思った。クロエも、あの人も」
「……そうね」
クロエは意外にも、怒らなかった。
「面倒なのよ。私の家は」
「家というものは、多かれ少なかれ面倒なものだ」
アイギスが言った。
「だが、役目のために家族であることを伏せ続けるのは、かなり特殊だと思う」
「アイギスの家でも?」
「私の家は、母と伯母上の時点で相当特殊だ。だから比較対象としては役に立たない」
「それはそう」
桐子は思わず頷いた。
サニーを基準にしたら、たいていの家は比較にならない。
クロエも同じことを思ったのか、唇の端が少しだけ緩んだ。
「それで、私たちはどうすればいい?」
アイギスが真面目に聞いた。
「今まで通りでいいわ。彼は執事として振る舞う。私も、当面はそう扱う」
「おじいちゃんって呼ばないの?」
桐子が何気なく言った瞬間、クロエの目が鋭くなった。
「呼ばないわ」
「ごめん」
「本人の前で言ったら、たぶん私より先に彼が困る」
「困るんだ」
「困るでしょうね。困っても、顔にはほとんど出さないでしょうけど」
桐子は少し想像した。
完璧な姿勢の執事が、クロエにおじいちゃんと呼ばれる。
困る。
確かに困る。
「じゃあ、本人の前では言わない」
「本人のいないところでも、なるべく言わないで」
「今言ってるな」
アイギスが静かに指摘した。
「今は説明中だから」
桐子は小声で返した。
クロエは額に指を当てたが、その仕草には先ほどまでの硬さがなかった。
「あなたたちに話しておきたかったの。後から誰かの口で聞くより、私から言った方がいいでしょう」
「話してくれてよかった」
桐子は今度は迷わず言った。
「びっくりしたけど」
「でしょうね」
「でも、クロエが一人で抱え込むよりはいいと思う。私とアイギスで何かできるかは分からないけど、聞くくらいならできる」
クロエはすぐには答えなかった。
窓の外で、海風が硝子をかすかに鳴らす。夜の城は静かで、事件の時とは違う種類の暗さに包まれている。
「なら、聞いていなさい」
クロエは顔を上げた。
「私はたぶん、これからもしばらく面倒な話を持ち込むわ」
「うん」
「面倒な家の話も、面倒な領地の話も、面倒な私の話も」
「うん」
「それでも、逃げないでいてくれるなら助かる」
桐子はアイギスを見た。
アイギスは当然のように頷いた。
「友人だからな」
「そういうこと」
桐子も頷いた。
「友だちの面倒な話くらい、聞くよ」
クロエは一瞬だけ目を伏せた。
それから、いつものように背筋を伸ばす。
「では、まず最初のお願い」
「何?」
「この話をサニー隊長に面白がらせないこと」
桐子とアイギスは同時に黙った。
サニーの顔が頭に浮かぶ。
たぶん、面白がる。
ものすごく面白がる。
「それは」
桐子は慎重に言葉を選んだ。
「もう手遅れかもしれない」
「なぜ」
「あの人、知らないわけがない気がする」
クロエはしばらく沈黙した。
その沈黙は優雅でも威圧でもなく、ただ純粋に嫌な予感を噛み締めている沈黙だった。
「……桐子」
「うん」
「今の発言は、非常に不愉快だけれど、たぶん正しいわ」
「ごめん」
「謝らなくていい。悪いのは、だいたい大人たちよ」
クロエがそう言うと、アイギスがわずかに目を逸らした。
その大人たちの中には、自分の伯母も含まれている。
桐子はようやく茶菓子を一つ摘まんだ。甘さは控えめで、少しだけ葡萄の香りがした。
面倒な家の話を聞いた後でも、茶菓子はおいしい。
それが少し不思議で、少し救いだった。




