第43話
黒峰の屋敷に入った時、リリーはそこが道場ではなく、家の内側に隠された稽古場なのだとすぐに理解した。
表の看板はない。門下生が出入りする気配もない。外から見れば古い屋敷の一つで、武術の名門が公に人を集めているようには見えなかった。
しかし、奥へ進むほど空気が変わる。
床板の沈み方、壁に染み込んだ汗と木の匂い、廊下の曲がり角に残る足運びの癖。ここは人を鍛える場所だ。しかも、ただ健康のために身体を動かすような場所ではない。
生き残るための技術が、長く磨かれてきた場所だった。
「こちらです」
理沙が案内する。
柔らかな声、整った所作、そして底にある油断ならない気配。リリーは彼女を見ながら、魔界側の軍学校にも似た種類の人間がいたことを思い出した。笑顔で相手を安心させながら、必要ならその笑顔のまま急所を潰せる人間。
コーイチが隣で妙に大人しいのも、理解できる。
この屋敷では、彼は完全な部外者ではない。だが、主導権を握れてもいない。
稽古場には、黒峰徹心が待っていた。
年齢を重ねた男だった。派手さはない。けれど、立っているだけで場の中心がそこへ寄る。魔力の圧ではない。体格の威圧でもない。もっと内側から整えられた、動き出す前の刃のような気配。
「リリー・セヴァライドです」
リリーは礼を取った。
「魔界側として、先日の件についてお詫び申し上げます。サーシャの行動については、こちらでも手続き上の問題として扱います」
徹心は静かに頷いた。
「謝罪は受け取る。こちらも、踏み込んだ」
「その点についても、改めて確認させてください。コーイチの目の性質を、黒峰側が強く求めていることは把握しています」
「求めている」
徹心は隠さなかった。
「見えぬものを見る目は、武にとって価値がある」
その言い方に、リリーは少しだけ興味を引かれた。
魔術式を視認する目。
コーイチの能力は、魔界側の研究者から見ても価値がある。だが黒峰は、それを魔法技術ではなく武の文脈で見ている。視点が違う。
違うから面白い。
コーイチが横でこちらを見た。
楽しそうにしすぎるな、という目だった。
リリーは表情を整えた。
「謝罪と確認は以上です。ここから先は、可能であれば技術的な話を」
「気か」
徹心が言った。
リリーの指先が止まる。
「話が早いですね」
「コーイチから聞いた。お前たちは、魔法の外側を探している」
「外側というより、魔術式を介さない力の分類を確認したい。黒峰流の気は、魔力と別の体系に見えます」
徹心はわずかに笑った。
笑ったと言っても、口元が少し動いた程度だ。
「見せた方が早い」
理沙が一歩下がる。
コーイチも壁際へ移動した。
リリーは息を整えた。
徹心は構えなかった。
ただ立っている。
次の瞬間、稽古場の空気が細く絞られた。
魔力ではない。
リリーはすぐにそう判断した。
魔界の大気には魔力が満ちている。人間界では薄いが、それでも魔石を持つ者なら魔力の有無や流れを感じ取れる。だが、徹心の周囲で動いたものは、魔力の波形を持っていなかった。
体内から外へ押し出される何か。
筋力でも、熱でも、呼吸でもない。身体の内側にある流れが、一点へ集まり、空間に圧を作る。
徹心が足元の板へ軽く触れた。
音はほとんどしない。
だが、離れた場所に置かれていた薄い木片が弾けた。
「……なるほど」
リリーは思わず呟いた。
術式はない。
魔力変換もない。
少なくとも、リリーの知る汎用魔法の構造では説明できない。
「今のは?」
「気を通しただけだ」
徹心が言う。
理沙が補足する。
「黒峰では、身体の内側にある流れをそう呼んでいます。古い文書には、魔法や妖術に対する記述もありますが、用語はかなり揺れています。世界観が違えば呼び方も変わるのでしょう」
「妖術と魔法は、こちらから見るとほぼ同じものとして扱っていいかな」
「ええ。少なくとも古文書の文脈では、外側の力を借りて現象を起こすもの、という扱いです」
リリーは頭の中で分類表を組み替えた。
魔力は外にある。
魔石を介して魔法へ変換される。
気は内にある。
身体を基点に流れ、魔力とは別の性質で現象へ干渉する。
桐子が事故を起こした理由が、少しずつ形を取っていく。魔石を持った身体で、気の修練を行った。外なる力と内なる力がぶつかり、身体の中で噛み合わなかった。
「試しても?」
リリーは言った。
コーイチの肩が少しだけ落ちた。
理沙の目が輝いた。
徹心も断らなかった。
最初は安全な範囲から始めた。
リリーが手のひらにごく薄い魔力を集める。魔法として発動させる前の、ただの魔力の流れ。徹心が気を近づけると、互いに押し返すような感覚が生じた。
「反発している」
リリーは言った。
「混ざらない。いや、混ぜようとすると、接触面で乱れる」
「魔石を持つ者が気を扱うと、内側でそれが起きるのでしょう」
理沙が穏やかに言う。
「かなり危険だね」
「危険です」
「君、危険ですって言い方が軽い」
「黒峰ですので」
何の説明にもなっていない。
だが、コーイチ以外はそれで納得しかけていた。
次に、リリーは小さな光を作った。
魔法として成立した現象に対し、気がどう触れるか。徹心は指先で空間をなぞるように動かした。光は揺れ、形を崩し、術式の維持が不安定になる。
「魔法そのものを消すわけではない」
リリーは観察結果を口にした。
「でも、式に干渉するというより、現象の成立する場を押し返している。アンチ・マジックとはまるで違う。これは阻害ではなく、別の力の接触だ」
「照明で試しますか」
理沙が言った。
稽古場の隅に置かれた小型の照明魔導具を示す。通信端末ではない。壊れても仕事に支障のない、古い予備品だった。
「いいね」
リリーは即答した。
コーイチが顔をしかめる。
「いいね、じゃないんですよ」
「仕事用の端末ではないから大丈夫」
「そこじゃない」
照明魔導具は、魔力を通すと柔らかい光を放った。徹心が気を近づけると、光が瞬き、内部の術式が乱れる。完全に止まるわけではない。だが、出力は明らかに落ちた。
リリーは紙に記録を取る。
人間界へ持ち込んだ端末もあるが、この場では紙の方が早い。指先が勝手に式の形を追い、観測結果を分類していく。
「面白い」
呟いた瞬間、コーイチが警戒するのが分かった。
リリーは咳払いした。
「興味深い」
「言い換えても同じです」
だが、もう少しだけ試したい。
魔力、発動済みの魔法、魔導具。
では、攻撃性を持つ魔法はどうなるのか。
「低出力で一発だけ」
リリーは言った。
「リリーさん」
コーイチの声が低くなる。
「一発だけ。衝撃を伴う光弾系。物理的な干渉が難しいから、気でどう受けるかが見やすい」
「聞けば聞くほど止めたくなる」
「低出力」
「そういう問題じゃ」
「私が受けよう」
徹心が言った。
その声は落ち着いていた。
理沙も止めない。むしろ、少しだけ楽しそうに見える。
コーイチだけが頭を抱えた。
リリーは出力を絞った。
光弾を作る。明るさは控えめだが、衝撃を伴う。人に当たれば痛む。鍛えていない者なら転ぶ程度の力はある。危険すぎず、観測には足りる。
「行くよ」
徹心が頷く。
リリーは光弾を放った。
まっすぐ徹心の胸元へ向かう。
次の瞬間、徹心の手が動いた。
触れていない。
少なくとも、物理的には触れていない。だが、光弾の進行方向がわずかに逸れた。力の向きを変えられたように、光が横へ流れる。
光弾は徹心の身体をかすめもせず、稽古場の壁際へ着弾した。
鈍い音が鳴る。
壁面の一部が焦げ、床板の端が砕けた。
徹心は無傷だった。
「……今の」
リリーは目を見開いた。
理沙も壁の損傷を見て、静かに頷く。
「受け流しましたね」
「ああ」
徹心は手を下ろした。
「強い魔法なら、こう簡単にはいかない」
「でも、干渉はできる」
リリーの声が少しだけ早くなる。
「物理的に触れにくい光弾の軌道を、気で逸らした。式を壊したわけじゃない。現象の向きへ干渉した。いや、衝撃の芯をずらした? 魔力との反発を利用して、接触面を作ったのか」
「近いかもしれません」
理沙が言う。
「ただ、黒峰では理屈より先に身体で覚えるものなので」
「理屈にしよう」
「できますか」
「する」
徹心の口元がわずかに動いた。
「面白い女だ」
「あなたも十分面白い」
リリーは返した。
理沙が紙を覗き込み、徹心が壁の損傷を確認し、リリーは次の実験項目を頭の中で組み始める。
魔力との反発。
術式外干渉。
魔導具への出力阻害。
攻撃魔法の軌道変更。
桐子の身体で起きた衝突。神威らしき力への接続可能性。黒峰流の歴史。古文書の表記揺れ。
情報がつながる。
つながりかけている。
「よし、次は」
「やめましょう」
コーイチの声が稽古場に落ちた。
リリーは振り向いた。
コーイチは腕を組み、かなり真面目な顔をしていた。
「過度な接触を控えるよう注意しに来たんじゃないのか?」
その言葉で、リリーは口を閉じた。
理沙も瞬きをした。
徹心も、少しだけ視線を外した。
稽古場の壁は損傷している。
低出力とはいえ、魔法を一発撃った。
黒峰側の二人は明らかに乗り気で、リリーも完全に前のめりだった。
コーイチが正しい。
非常に不本意だが、正しい。
「……そうだね」
リリーは紙を畳んだ。
「今日はここまでにしよう」
「賢明です」
理沙が柔らかく言う。
「理沙さん、あなたも止める側ですよね?」
「今回は観測側でしたので」
「役割分担が便利すぎる」
コーイチの疲れた声に、リリーは少しだけ笑った。
黒峰流の気。
それは魔法ではない。
魔力とは反発し、魔術式を介さず、身体の内側から現象へ干渉する力。
今日分かったことは多い。
そして、分からないことはもっと増えた。
研究者としては、これ以上なく良い日だった。
魔界側の管理者としては、胃の痛い日だったかもしれない。
リリーは損傷した壁面を見た。
逸れた光弾の痕が、木と壁材に残っている。
そこには、魔法ではない力が魔法へ触れた証拠があった。
桐子の中で起きていることも、きっとここから少しずつ見えてくる。
だが、焦って壊してはいけない。
桐子本人にも、黒峰にも、コーイチにも、まだ守るべき線がある。
「次は、正式な手順で」
リリーは言った。
「観測計画を作るよ」
「やっぱり次はあるんですね」
コーイチが呻く。
「当然」
リリーは紙を鞄へしまった。
魔法ではない力を見つけた。
神に関する伝承を追うはずの調査は、黒峰流という横道へ逸れたように見える。だがリリーには、その横道がいつか本来の目的地へつながる予感があった。




