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いずれ空へと続く道  作者: 白銀スーニャ
第2章:東の死と不死と未来
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第42話

 リリー・セヴァライドは、コーイチの事務所に入った瞬間、生活の匂いと仕事の匂いが混ざっていることに気づいた。

 東京近郊の雑居ビル二階。表向きは輸入雑貨と調査業務を扱う小さな事務所。実態は、人間界へ派遣された魔界側の治安維持要員が使う拠点の一つ。

 机には書類が積まれている。魔界側の報告書、人間界の新聞の切り抜き、民間伝承をまとめた資料、指定魔導具の点検記録。仕事場としては雑だが、破綻してはいない。

 その奥に、小さな子ども用の椅子があった。

 さらに棚の上には絵本とぬいぐるみが置かれている。

 生活空間を兼ねている、という報告は読んでいた。だが、実際に目にすると、魔界側の管理文書よりずっと生々しい。任務と家庭が同じ床の上に並んでいる。

 悪くない。

 悪くないが、今日の本題はそこではなかった。

「さて」

 リリーは事務机の前に立ち、椅子に座る二人を見た。

 コーイチは苦い顔をしている。サーシャ・クローディアは背筋を伸ばし、落ち着いた表情でこちらを見ていた。艶のある雰囲気はあるが、媚びるようなところはない。妻であり、母であり、クローディア家の女として場にいる顔だった。

 だからこそ、リリーは遠慮しなかった。

「サーシャ。何をしているのかな」

「ご報告の件でしたら、私の判断です」

「うん。そこまでは分かっている。君が自分の判断で、現地協力者側の黒峰と関係を持ったことも、コーイチがそれを報告したことも、書面にはきちんと残っている」

 コーイチが目を逸らした。

 リリーは彼を一瞥する。

「コーイチ。君は報告した。そこは評価する。監督責任の部分は後で軽く叩くけど、今日の主な説教相手は君じゃない」

「軽くでお願いします」

「態度次第」

「俺の態度で量が変わるんですか」

「人生はそういうものだよ」

 サーシャが小さく笑った。

 リリーはその笑みを見逃さなかった。

「笑っている場合じゃないよ、サーシャ」

「はい」

 サーシャは素直に頷く。

 その素直さが、余計に厄介だった。反省していないわけではない。自分が何をしたか理解している。理解した上で、必要だったと判断している。

 こういう相手には、感情的に怒鳴っても意味がない。

「現地協力者との関係構築は必要だ。黒峰一族が地域有力者側の協力者であることも、コーイチの目に対して強い関心を向けていることも、こちらは把握している。けれど、だからといって、魔界側の派遣員とその家族が、独断で深い関係を作りに行っていいわけではない」

「関係を持つことで、黒峰側の関心をこちらへ引き寄せられると考えました」

「考えたんだろうね」

 リリーは頷いた。

「サキュバスとしても、クローディア家の者としても、君の判断基準は理解できる。相手の欲望や関心を読んで、利用できる形へ整える。君たちはそういうことに長けている」

 サーシャの表情は変わらない。

 コーイチの胃が痛そうな顔だけが深まる。

「でも、ここは人間界だ。魔界側の秘匿、偽装身分、現地協力者との距離、全部に管理上の意味がある。黒峰はかなり特殊な一族だよ。こちらが関係を作ったと思っている間に、向こうもこちらを取り込もうとしている」

「それも承知しています」

「承知して、なお踏み込んだ」

「はい」

 リリーは少しだけ目を細めた。

 この落ち着きは嫌いではない。だが、危うい。

 研究者が未知の現象に手を伸ばす時の感覚に似ている。触れるべきではないと理解していても、触れなければ分からないことがある。そう思ってしまうところが、リリー自身にもある。

 だからこそ、叱る必要があった。

「君の行動は、魔界側の立場から見ると、報告義務と事前承認を軽く扱っている。黒峰側に対しても、コーイチに対しても、サーシャ個人の判断が先に立ちすぎている。家庭内の同意や種族的な倫理は、行政上の免罪符にはならない」

 サーシャは目を伏せた。

「申し訳ありません」

「謝罪は受け取る。でも、今後同じことをするなら、最低限、事前に相談しなさい」

「相談すれば、止められたのでは」

「止めるか、条件をつけるか、記録を残すかを判断する」

「止められた場合は」

「止める理由を説明する」

「納得できなければ?」

「そこで食い下がるのが大人の手続きだよ」

 サーシャはしばらく黙り、それから小さく頷いた。

「分かりました」

 その言葉が本当に届いたかどうかは、今すぐには分からない。

 だが、少なくとも彼女は聞いている。

 リリーは次にコーイチを見た。

「で、君」

「はい」

「報告は早かった。そこは良い。けど、家庭内の妙な倫理観に流されすぎ」

「俺、被害者側では」

「被害者面するには、君も現地協力者との距離管理が甘い」

「それは、まあ」

 コーイチは反論しきれず、肩を落とした。

 彼は根が善良だ。面倒見もいい。その上で、目の性質が特殊すぎる。黒峰から見れば、取り込みたい対象になるのは当然だった。

 その価値を最初に見出したのがサーシャで、今も彼女が妻として隣にいる。状況だけ並べると、だいぶひどい。

 本人がそれなりに幸せそうなのが、余計に扱いを難しくしている。

「黒峰側とは、これから改めて話をする」

 リリーは言った。

「謝罪も必要だし、こちらの立場も伝える。ついでに、以前から気になっていたことも確認する」

「気になっていたこと?」

 コーイチが嫌そうに顔を上げる。

「黒峰流の気」

 その言葉で、コーイチの表情がわずかに変わった。

 サーシャも目を細める。

「魔術式を介さない力。魔力とは違う内側の流れ。桐子の件で、私はそれを無視できなくなった。君の報告にも何度か出ている。黒峰側が古い文書を持っているなら、直接聞いた方が早い」

「説教ついでに研究ですか」

「順番としては、説教、謝罪、確認、観測」

「最後が一番楽しそうに聞こえます」

「そうかもしれない」

 リリーは正直に答えた。

 未知の現象を前にして、興味を持たない研究者などいない。しかも今回は、魔法ではない力の可能性がある。魔力と反発し、魔術式を介さず、桐子の破綻と神威らしき現象にも繋がるかもしれないもの。

 触れずに済ませる方が不誠実だった。

「黒峰の屋敷へは、今日向かう」

 リリーは言った。

「急ですね」

「こういう話は、冷める前に処理した方がいい」

「研究の熱も?」

「もちろん」

 コーイチは深く息を吐いた。

「同行します」

「当然。君は報告者で、現地との橋渡しでもある」

「サーシャは」

 サーシャが自分から立ち上がりかけた。

 リリーは手で制した。

「今日は来なくていい。君は留守番」

「私も謝罪を」

「君の謝罪は、まずこちら側の手続きを整理してから。黒峰側へ一気に全員で押しかけると、話が変に膨らむ」

 サーシャは少し残念そうにした。

 この人、本当に反省しているのだろうか。

 リリーは一瞬だけそう思ったが、口には出さなかった。サキュバスの倫理観は、人間種や人間界の常識とは少し違う。違うからこそ、線引きをこちらが明確にする必要がある。

 奥の部屋から、小さな物音がした。

 リリーはそちらへ目を向ける。

「ルチアちゃんは?」

「昼寝中です」

 コーイチが答える。

「なら、起こさないように出よう」

「その配慮はあるんですね」

「私は子どもには優しいよ」

「大人にも少し優しくしてほしい」

「大人は書面を読めるから、自衛して」

 コーイチはまた胃が痛そうな顔をした。

 事務所を出る前に、リリーは端末へ短い報告を残した。サーシャへの口頭注意、コーイチへの監督責任確認、黒峰側との接触予定。魔界行政側に回すには、もう少し整った文面が必要だが、速報としてはこれで十分だ。

 人間界の廊下は、魔界の建物より魔力が薄い。

 空気が軽く、乾いている。魔石を持つ者にとっては、長くいると物足りなさを感じる環境だ。だが、その薄さの中に、魔法とは違うものが息づいている。

 黒峰流の気。

 桐子の事故の根。

 神威へ至るかもしれない、内なる力。

 リリーは階段を下りながら、指先を軽く動かした。頭の中では、すでに質問項目が組み上がり始めている。

「リリーさん」

 コーイチが横から言う。

「何?」

「黒峰で、あまり楽しそうにしすぎないでくださいね」

「努力する」

「それ、できない人の返事ですよ」

「できる範囲で努力する」

「もっと悪い」

 リリーは笑った。

 叱責は終わった。

 謝罪はこれから。

 そして、その先には未知がある。

 人間界の曇った空の下、リリーは黒峰の屋敷へ向かった。


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