第42話
リリー・セヴァライドは、コーイチの事務所に入った瞬間、生活の匂いと仕事の匂いが混ざっていることに気づいた。
東京近郊の雑居ビル二階。表向きは輸入雑貨と調査業務を扱う小さな事務所。実態は、人間界へ派遣された魔界側の治安維持要員が使う拠点の一つ。
机には書類が積まれている。魔界側の報告書、人間界の新聞の切り抜き、民間伝承をまとめた資料、指定魔導具の点検記録。仕事場としては雑だが、破綻してはいない。
その奥に、小さな子ども用の椅子があった。
さらに棚の上には絵本とぬいぐるみが置かれている。
生活空間を兼ねている、という報告は読んでいた。だが、実際に目にすると、魔界側の管理文書よりずっと生々しい。任務と家庭が同じ床の上に並んでいる。
悪くない。
悪くないが、今日の本題はそこではなかった。
「さて」
リリーは事務机の前に立ち、椅子に座る二人を見た。
コーイチは苦い顔をしている。サーシャ・クローディアは背筋を伸ばし、落ち着いた表情でこちらを見ていた。艶のある雰囲気はあるが、媚びるようなところはない。妻であり、母であり、クローディア家の女として場にいる顔だった。
だからこそ、リリーは遠慮しなかった。
「サーシャ。何をしているのかな」
「ご報告の件でしたら、私の判断です」
「うん。そこまでは分かっている。君が自分の判断で、現地協力者側の黒峰と関係を持ったことも、コーイチがそれを報告したことも、書面にはきちんと残っている」
コーイチが目を逸らした。
リリーは彼を一瞥する。
「コーイチ。君は報告した。そこは評価する。監督責任の部分は後で軽く叩くけど、今日の主な説教相手は君じゃない」
「軽くでお願いします」
「態度次第」
「俺の態度で量が変わるんですか」
「人生はそういうものだよ」
サーシャが小さく笑った。
リリーはその笑みを見逃さなかった。
「笑っている場合じゃないよ、サーシャ」
「はい」
サーシャは素直に頷く。
その素直さが、余計に厄介だった。反省していないわけではない。自分が何をしたか理解している。理解した上で、必要だったと判断している。
こういう相手には、感情的に怒鳴っても意味がない。
「現地協力者との関係構築は必要だ。黒峰一族が地域有力者側の協力者であることも、コーイチの目に対して強い関心を向けていることも、こちらは把握している。けれど、だからといって、魔界側の派遣員とその家族が、独断で深い関係を作りに行っていいわけではない」
「関係を持つことで、黒峰側の関心をこちらへ引き寄せられると考えました」
「考えたんだろうね」
リリーは頷いた。
「サキュバスとしても、クローディア家の者としても、君の判断基準は理解できる。相手の欲望や関心を読んで、利用できる形へ整える。君たちはそういうことに長けている」
サーシャの表情は変わらない。
コーイチの胃が痛そうな顔だけが深まる。
「でも、ここは人間界だ。魔界側の秘匿、偽装身分、現地協力者との距離、全部に管理上の意味がある。黒峰はかなり特殊な一族だよ。こちらが関係を作ったと思っている間に、向こうもこちらを取り込もうとしている」
「それも承知しています」
「承知して、なお踏み込んだ」
「はい」
リリーは少しだけ目を細めた。
この落ち着きは嫌いではない。だが、危うい。
研究者が未知の現象に手を伸ばす時の感覚に似ている。触れるべきではないと理解していても、触れなければ分からないことがある。そう思ってしまうところが、リリー自身にもある。
だからこそ、叱る必要があった。
「君の行動は、魔界側の立場から見ると、報告義務と事前承認を軽く扱っている。黒峰側に対しても、コーイチに対しても、サーシャ個人の判断が先に立ちすぎている。家庭内の同意や種族的な倫理は、行政上の免罪符にはならない」
サーシャは目を伏せた。
「申し訳ありません」
「謝罪は受け取る。でも、今後同じことをするなら、最低限、事前に相談しなさい」
「相談すれば、止められたのでは」
「止めるか、条件をつけるか、記録を残すかを判断する」
「止められた場合は」
「止める理由を説明する」
「納得できなければ?」
「そこで食い下がるのが大人の手続きだよ」
サーシャはしばらく黙り、それから小さく頷いた。
「分かりました」
その言葉が本当に届いたかどうかは、今すぐには分からない。
だが、少なくとも彼女は聞いている。
リリーは次にコーイチを見た。
「で、君」
「はい」
「報告は早かった。そこは良い。けど、家庭内の妙な倫理観に流されすぎ」
「俺、被害者側では」
「被害者面するには、君も現地協力者との距離管理が甘い」
「それは、まあ」
コーイチは反論しきれず、肩を落とした。
彼は根が善良だ。面倒見もいい。その上で、目の性質が特殊すぎる。黒峰から見れば、取り込みたい対象になるのは当然だった。
その価値を最初に見出したのがサーシャで、今も彼女が妻として隣にいる。状況だけ並べると、だいぶひどい。
本人がそれなりに幸せそうなのが、余計に扱いを難しくしている。
「黒峰側とは、これから改めて話をする」
リリーは言った。
「謝罪も必要だし、こちらの立場も伝える。ついでに、以前から気になっていたことも確認する」
「気になっていたこと?」
コーイチが嫌そうに顔を上げる。
「黒峰流の気」
その言葉で、コーイチの表情がわずかに変わった。
サーシャも目を細める。
「魔術式を介さない力。魔力とは違う内側の流れ。桐子の件で、私はそれを無視できなくなった。君の報告にも何度か出ている。黒峰側が古い文書を持っているなら、直接聞いた方が早い」
「説教ついでに研究ですか」
「順番としては、説教、謝罪、確認、観測」
「最後が一番楽しそうに聞こえます」
「そうかもしれない」
リリーは正直に答えた。
未知の現象を前にして、興味を持たない研究者などいない。しかも今回は、魔法ではない力の可能性がある。魔力と反発し、魔術式を介さず、桐子の破綻と神威らしき現象にも繋がるかもしれないもの。
触れずに済ませる方が不誠実だった。
「黒峰の屋敷へは、今日向かう」
リリーは言った。
「急ですね」
「こういう話は、冷める前に処理した方がいい」
「研究の熱も?」
「もちろん」
コーイチは深く息を吐いた。
「同行します」
「当然。君は報告者で、現地との橋渡しでもある」
「サーシャは」
サーシャが自分から立ち上がりかけた。
リリーは手で制した。
「今日は来なくていい。君は留守番」
「私も謝罪を」
「君の謝罪は、まずこちら側の手続きを整理してから。黒峰側へ一気に全員で押しかけると、話が変に膨らむ」
サーシャは少し残念そうにした。
この人、本当に反省しているのだろうか。
リリーは一瞬だけそう思ったが、口には出さなかった。サキュバスの倫理観は、人間種や人間界の常識とは少し違う。違うからこそ、線引きをこちらが明確にする必要がある。
奥の部屋から、小さな物音がした。
リリーはそちらへ目を向ける。
「ルチアちゃんは?」
「昼寝中です」
コーイチが答える。
「なら、起こさないように出よう」
「その配慮はあるんですね」
「私は子どもには優しいよ」
「大人にも少し優しくしてほしい」
「大人は書面を読めるから、自衛して」
コーイチはまた胃が痛そうな顔をした。
事務所を出る前に、リリーは端末へ短い報告を残した。サーシャへの口頭注意、コーイチへの監督責任確認、黒峰側との接触予定。魔界行政側に回すには、もう少し整った文面が必要だが、速報としてはこれで十分だ。
人間界の廊下は、魔界の建物より魔力が薄い。
空気が軽く、乾いている。魔石を持つ者にとっては、長くいると物足りなさを感じる環境だ。だが、その薄さの中に、魔法とは違うものが息づいている。
黒峰流の気。
桐子の事故の根。
神威へ至るかもしれない、内なる力。
リリーは階段を下りながら、指先を軽く動かした。頭の中では、すでに質問項目が組み上がり始めている。
「リリーさん」
コーイチが横から言う。
「何?」
「黒峰で、あまり楽しそうにしすぎないでくださいね」
「努力する」
「それ、できない人の返事ですよ」
「できる範囲で努力する」
「もっと悪い」
リリーは笑った。
叱責は終わった。
謝罪はこれから。
そして、その先には未知がある。
人間界の曇った空の下、リリーは黒峰の屋敷へ向かった。




