表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
いずれ空へと続く道  作者: 白銀スーニャ
第2章:東の死と不死と未来
62/63

第41話

 黒峰真希は、道場の床板の下に走る細い配線まで見えていた。

 見ようとしたわけではない。目を開ければ、視界は正面だけに留まらない。壁の向こう、天井の梁、床下の空洞、背後に置かれた木刀の並びまで、情報が勝手に流れ込んでくる。

 病室で目覚めた時ほどの吐き気はない。

 それは、目が弱まったからではなかった。

 真希の側が、少しずつ慣れてきただけだ。

 腹の傷はまだ完治していない。医師からは段階的な復帰を言い渡されている。普通の家なら安静にさせるのだろう。黒峰では、動けるなら使い方を覚えろ、という話になる。

 真希自身も、それに異論はなかった。

 道場の中央に立ち、目の前の的を見る。実際には、正面の的だけではない。左右の壁際に置かれた小さな札、背後で父が持つ竹刀、床に転がされた球、天井から吊るされた細い布。すべてが視界に入っている。

「息が乱れている」

 父の声がした。

「傷のせい」

「言い訳としては三点だな」

「腹に穴が開いた娘に厳しすぎるでしょ」

「穴が塞がり始めた娘だから言っている」

 真希は舌打ちした。

 父は笑わない。道場ではいつもそうだ。娘が生きて戻ったことに安堵しているのは分かる。病院で一度だけ、扉の外で肩の力を抜いた姿も見えた。今の目なら、見ようとしなくてもそういうものまで拾ってしまう。

 だが、道場に立てば親子ではなく、稽古をつける者と受ける者になる。

 それでいい。

 そうでなければ、真希はここへ戻ってきた意味がない。

「始めるぞ」

 父が言う。

 次の瞬間、背後から竹刀が振られた。

 真希は振り向かなかった。

 身体を半歩ずらし、竹刀の先を肩の横で通す。正面の的へ向けて拳を出すと同時に、左足で床の球を蹴る。球は壁際の札へ向かい、父は追撃の角度を変えた。

 見える。

 背後も、横も、床も、天井も。

 問題は、見えたものに身体が追いつくかどうかだった。

 父の二撃目を避ける時、腹に痛みが走った。

 呼吸が詰まる。

 動きが遅れ、竹刀が脇腹をかすめた。痛みそのものは大したことがない。だが、傷の奥が熱を持つ。

「止めるか」

「止めない」

「なら、余計な視界を捨てろ」

 真希は歯を食いしばった。

「捨てられるなら苦労しない」

「見えるもの全部に反応するな。必要なものだけ拾え」

「簡単に言う」

「簡単ではないから稽古している」

 正論が嫌いになる瞬間だった。

 真希は呼吸を整えた。見えるものを消すことはできない。目を閉じても、物の輪郭は残る。光の向き、遮蔽物の裏、視界の外側にある動き。まるで全天に配置されたカメラが、同時に映像を送り込んでくるようだった。

 なら、消すのではなく、優先順位をつける。

 父の足。竹刀の角度。床の球。正面の的。吊るされた布の揺れ。

 それ以外は、背景に落とす。

 完全にはできない。だが、少しはましになる。

「もう一度」

 真希が言う。

 父は頷き、構え直した。

 今度は正面から来た。

 竹刀が低く走る。真希は踏み込まず、受けず、足を引いて軌道を外した。次の瞬間、父の肩が動く。二撃目が右から来る。

 見える。

 けれど、体が遅い。

 腹の傷が動きを制限する。以前なら踏み込めた距離で、今は半歩届かない。苛立ちが湧く。

 真希はそれを噛み潰した。

 焦れば崩れる。

 崩れれば追いつけない。

 桐子に。

 その名前を思い浮かべた瞬間、視界の端が鋭くなった。

 畳の感触が蘇る。外部大会の会場、衆人環視の中で向かい合った桐子の顔。銀の光。腹を貫いた槍。救急搬送の気配。病院で聞かされた失踪。

 白銀桐子は、死んだとは聞いていない。

 だが、生きているとも言われていない。

 警察は捜索した。記録上は失踪。警察署から帰宅するまでの間に消えたと見られている。そんな説明で、納得できるはずがなかった。

 桐子が逃げるわけがない。

 真希を刺したことから逃げるような相手ではない。

 なら、何かが起きた。

 自分の知らない場所で、桐子は何かに巻き込まれた。あるいは、自分の知らない力でどこかへ連れていかれた。

 腹の奥が熱くなる。

 痛みではない。

 怒りに近い。

「集中が乱れた」

 父の声が飛ぶ。

 竹刀が真希の手首を打った。

 乾いた音が鳴る。

 真希は顔をしかめた。

「今のは分かってた」

「分かっていて食らうなら、分かっていないのと同じだ」

「うるさい」

「口が悪い」

「生きてる証拠なんでしょ」

 父は少しだけ目を細めた。

 病室で自分が言われた言葉を返したことに気づいたのだろう。だが、何も言わなかった。

 稽古は続く。

 何度も打たれた。

 何度も避けた。

 避けられるものが増えるほど、身体の遅れが目立った。目は先に答えを拾う。腕はその答えに追いつかない。足は傷をかばう。呼吸は乱れる。見えることは強みであり、同時に、自分の未熟さを誤魔化せなくする呪いでもあった。

 真希は膝をつきそうになり、踏みとどまった。

 床板の木目が見える。

 その下の釘の位置も、配線の曲がりも、床下に溜まった埃も見える。

 そんなものは今いらない。

 いるのは、次の一手だけだ。

「父さん」

「何だ」

「この目、使えるようになったら、私は強くなる?」

 父はすぐには答えなかった。

 竹刀を下ろし、真希を見る。

 その沈黙の間にも、真希には父の呼吸や指先の力の抜け方が見えている。嘘をつく気はない。慰める気もない。そういうことまで分かってしまう。

「なる」

 父は言った。

「ただし、目に頼るなら弱くなる」

「分かってる」

「分かっていないから言っている」

「分かってるって」

「真希」

 父の声が少し低くなる。

「桐子を追うためだけに鍛えるな」

 真希は黙った。

 言い返せなかったわけではない。言い返す言葉はいくらでもあった。桐子のためではない。自分のためだ。黒峰のためだ。次の勝負のためだ。

 だが、どれも半分だけ嘘だった。

 桐子に会いたい。

 桐子ともう一度向かい合いたい。

 あの日の続きを終わらせたい。

 それが真希の中心にある。

「桐子を追うためだけじゃない」

 真希は言った。

「桐子に会った時、置いていかれたままじゃ嫌なだけ」

 父は竹刀を構え直した。

「なら、立て」

「立ってる」

「構えが甘い」

 真希は息を吐き、構えを直した。

 腹の傷は痛む。

 目はまだ制御できない。

 桐子はどこにもいない。

 それでも、訓練だけはできる。今の自分にできることは、それしかない。

 父が動く。

 今度は、真希の身体が先に反応した。

 視界の全てを追うのではなく、必要な流れだけを掴む。竹刀の角度、足の荷重、肩の動き。余計な情報は奥へ沈める。

 一撃を避けた。

 二撃目を受け流した。

 三撃目で、腹の痛みが邪魔をする。

 それでも、真希は倒れなかった。

 父の竹刀の内側へ踏み込み、手首を取る。力では足りない。だが、角度は合っていた。

 父の動きが、一瞬止まる。

「今のは」

 真希は荒い息のまま言った。

「五点くらい?」

「六点だ」

「甘いじゃん」

「腹に穴が開いた娘だからな」

 今度は、真希が少しだけ笑った。

 すぐに痛みで顔をしかめる。

 笑うのもまだ早い。

 だが、前へ進んだ感覚はあった。

 桐子。

 真希はその名を胸の中で呼ぶ。

 どこにいるのか分からない。生きているのかも分からない。それでも、死んだとは思わない。思ってやらない。

 次に会った時、この目で見る。

 壁の向こうも、死角の裏も、相手の癖も、全部見た上で、それでも真正面から戦う。

 あの日の続きをするために。

 真希はもう一度構えた。

 道場の床下も、壁の向こうも、天井裏も見えている。

 だが、今は正面だけを選んだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ