第41話
黒峰真希は、道場の床板の下に走る細い配線まで見えていた。
見ようとしたわけではない。目を開ければ、視界は正面だけに留まらない。壁の向こう、天井の梁、床下の空洞、背後に置かれた木刀の並びまで、情報が勝手に流れ込んでくる。
病室で目覚めた時ほどの吐き気はない。
それは、目が弱まったからではなかった。
真希の側が、少しずつ慣れてきただけだ。
腹の傷はまだ完治していない。医師からは段階的な復帰を言い渡されている。普通の家なら安静にさせるのだろう。黒峰では、動けるなら使い方を覚えろ、という話になる。
真希自身も、それに異論はなかった。
道場の中央に立ち、目の前の的を見る。実際には、正面の的だけではない。左右の壁際に置かれた小さな札、背後で父が持つ竹刀、床に転がされた球、天井から吊るされた細い布。すべてが視界に入っている。
「息が乱れている」
父の声がした。
「傷のせい」
「言い訳としては三点だな」
「腹に穴が開いた娘に厳しすぎるでしょ」
「穴が塞がり始めた娘だから言っている」
真希は舌打ちした。
父は笑わない。道場ではいつもそうだ。娘が生きて戻ったことに安堵しているのは分かる。病院で一度だけ、扉の外で肩の力を抜いた姿も見えた。今の目なら、見ようとしなくてもそういうものまで拾ってしまう。
だが、道場に立てば親子ではなく、稽古をつける者と受ける者になる。
それでいい。
そうでなければ、真希はここへ戻ってきた意味がない。
「始めるぞ」
父が言う。
次の瞬間、背後から竹刀が振られた。
真希は振り向かなかった。
身体を半歩ずらし、竹刀の先を肩の横で通す。正面の的へ向けて拳を出すと同時に、左足で床の球を蹴る。球は壁際の札へ向かい、父は追撃の角度を変えた。
見える。
背後も、横も、床も、天井も。
問題は、見えたものに身体が追いつくかどうかだった。
父の二撃目を避ける時、腹に痛みが走った。
呼吸が詰まる。
動きが遅れ、竹刀が脇腹をかすめた。痛みそのものは大したことがない。だが、傷の奥が熱を持つ。
「止めるか」
「止めない」
「なら、余計な視界を捨てろ」
真希は歯を食いしばった。
「捨てられるなら苦労しない」
「見えるもの全部に反応するな。必要なものだけ拾え」
「簡単に言う」
「簡単ではないから稽古している」
正論が嫌いになる瞬間だった。
真希は呼吸を整えた。見えるものを消すことはできない。目を閉じても、物の輪郭は残る。光の向き、遮蔽物の裏、視界の外側にある動き。まるで全天に配置されたカメラが、同時に映像を送り込んでくるようだった。
なら、消すのではなく、優先順位をつける。
父の足。竹刀の角度。床の球。正面の的。吊るされた布の揺れ。
それ以外は、背景に落とす。
完全にはできない。だが、少しはましになる。
「もう一度」
真希が言う。
父は頷き、構え直した。
今度は正面から来た。
竹刀が低く走る。真希は踏み込まず、受けず、足を引いて軌道を外した。次の瞬間、父の肩が動く。二撃目が右から来る。
見える。
けれど、体が遅い。
腹の傷が動きを制限する。以前なら踏み込めた距離で、今は半歩届かない。苛立ちが湧く。
真希はそれを噛み潰した。
焦れば崩れる。
崩れれば追いつけない。
桐子に。
その名前を思い浮かべた瞬間、視界の端が鋭くなった。
畳の感触が蘇る。外部大会の会場、衆人環視の中で向かい合った桐子の顔。銀の光。腹を貫いた槍。救急搬送の気配。病院で聞かされた失踪。
白銀桐子は、死んだとは聞いていない。
だが、生きているとも言われていない。
警察は捜索した。記録上は失踪。警察署から帰宅するまでの間に消えたと見られている。そんな説明で、納得できるはずがなかった。
桐子が逃げるわけがない。
真希を刺したことから逃げるような相手ではない。
なら、何かが起きた。
自分の知らない場所で、桐子は何かに巻き込まれた。あるいは、自分の知らない力でどこかへ連れていかれた。
腹の奥が熱くなる。
痛みではない。
怒りに近い。
「集中が乱れた」
父の声が飛ぶ。
竹刀が真希の手首を打った。
乾いた音が鳴る。
真希は顔をしかめた。
「今のは分かってた」
「分かっていて食らうなら、分かっていないのと同じだ」
「うるさい」
「口が悪い」
「生きてる証拠なんでしょ」
父は少しだけ目を細めた。
病室で自分が言われた言葉を返したことに気づいたのだろう。だが、何も言わなかった。
稽古は続く。
何度も打たれた。
何度も避けた。
避けられるものが増えるほど、身体の遅れが目立った。目は先に答えを拾う。腕はその答えに追いつかない。足は傷をかばう。呼吸は乱れる。見えることは強みであり、同時に、自分の未熟さを誤魔化せなくする呪いでもあった。
真希は膝をつきそうになり、踏みとどまった。
床板の木目が見える。
その下の釘の位置も、配線の曲がりも、床下に溜まった埃も見える。
そんなものは今いらない。
いるのは、次の一手だけだ。
「父さん」
「何だ」
「この目、使えるようになったら、私は強くなる?」
父はすぐには答えなかった。
竹刀を下ろし、真希を見る。
その沈黙の間にも、真希には父の呼吸や指先の力の抜け方が見えている。嘘をつく気はない。慰める気もない。そういうことまで分かってしまう。
「なる」
父は言った。
「ただし、目に頼るなら弱くなる」
「分かってる」
「分かっていないから言っている」
「分かってるって」
「真希」
父の声が少し低くなる。
「桐子を追うためだけに鍛えるな」
真希は黙った。
言い返せなかったわけではない。言い返す言葉はいくらでもあった。桐子のためではない。自分のためだ。黒峰のためだ。次の勝負のためだ。
だが、どれも半分だけ嘘だった。
桐子に会いたい。
桐子ともう一度向かい合いたい。
あの日の続きを終わらせたい。
それが真希の中心にある。
「桐子を追うためだけじゃない」
真希は言った。
「桐子に会った時、置いていかれたままじゃ嫌なだけ」
父は竹刀を構え直した。
「なら、立て」
「立ってる」
「構えが甘い」
真希は息を吐き、構えを直した。
腹の傷は痛む。
目はまだ制御できない。
桐子はどこにもいない。
それでも、訓練だけはできる。今の自分にできることは、それしかない。
父が動く。
今度は、真希の身体が先に反応した。
視界の全てを追うのではなく、必要な流れだけを掴む。竹刀の角度、足の荷重、肩の動き。余計な情報は奥へ沈める。
一撃を避けた。
二撃目を受け流した。
三撃目で、腹の痛みが邪魔をする。
それでも、真希は倒れなかった。
父の竹刀の内側へ踏み込み、手首を取る。力では足りない。だが、角度は合っていた。
父の動きが、一瞬止まる。
「今のは」
真希は荒い息のまま言った。
「五点くらい?」
「六点だ」
「甘いじゃん」
「腹に穴が開いた娘だからな」
今度は、真希が少しだけ笑った。
すぐに痛みで顔をしかめる。
笑うのもまだ早い。
だが、前へ進んだ感覚はあった。
桐子。
真希はその名を胸の中で呼ぶ。
どこにいるのか分からない。生きているのかも分からない。それでも、死んだとは思わない。思ってやらない。
次に会った時、この目で見る。
壁の向こうも、死角の裏も、相手の癖も、全部見た上で、それでも真正面から戦う。
あの日の続きをするために。
真希はもう一度構えた。
道場の床下も、壁の向こうも、天井裏も見えている。
だが、今は正面だけを選んだ。




