第40話
桐子が再び西部領の城へ招かれた時、前に来た時とは空気がまるで違っていた。
城そのものは同じだ。海沿いの崖上に建つ、ゴシック調の重い城。窓の外には雲の流れが速い空があり、遠くで海が白く光っている。石造りの廊下も、陰影の深い壁も、見慣れたと言うにはまだ遠い。
けれど、あの夜のような張り詰めた気配は薄れていた。
使用人たちの動きが違う。怯えや空虚さではなく、忙しさがある。壊れた箇所の修繕、入れ替えられた人員の整理、戻ってきた者への説明。城は傷ついているが、死んだ場所ではなく、直そうとしている場所になっていた。
その変化が、桐子には少しだけまぶしかった。
「本当に、また来ることになるとは思いませんでした」
隣を歩くアイギスが言った。
「私も」
桐子は小さく頷く。
前回は客人という名目だったが、実態は事件の渦中だった。魔法無効化装置に、教団兵に、ルシアンに、神威の槍。思い出すだけで肩の古傷が強張る。
今回は、クロエからの正式な招待だった。
事件の後処理が一段落したから、改めて二人をもてなしたい。そういう話だった。サニーは「好きにしなさい」と言っただけで、特に同行しなかった。実地研修ではなく、友人としての招待に近い。
それでも、桐子は少し緊張していた。
クロエに会うことそのものではない。
自分がこの城で、人を殺したことを覚えているからだ。
ルシアンを止めた。西部領を救うために必要だった。そう言えるようにはなった。だが、言えるようになったことと、何も感じないことは違う。
廊下の先で、クロエが待っていた。
金髪に紫の瞳。服装は以前より少し軽いが、それでも西部領の令嬢らしい品がある。背筋を伸ばし、こちらを迎える姿は、養成所で見る時よりもずっと領主に近かった。
「来たわね」
「招待されたので。逃げる理由もないし」
「逃げると思っていたの?」
「少し」
クロエの眉がわずかに上がる。
桐子は慌てて言葉を足した。
「いや、悪い意味じゃなくて。ここで色々あったから、ちょっと身構えたというか」
「分かっているわ」
クロエは少しだけ表情を緩めた。
「だからこそ、きちんと招きたかったの。事件の場所としてだけ、この城を覚えてほしくなかった」
その言葉に、桐子はすぐには返せなかった。
クロエは先に歩き出す。
「母様も待っているわ。アイギス、あなたも遠慮しないで」
「感謝します」
アイギスは丁寧に頷いた。
桐子はその横で、クロエの背中を見た。少しだけ近くなった気がする。西部領の事件を経て、クロエとの距離は確かに変わった。けれど、その変化を言葉にするには、まだ自分の中の整理が追いついていない。
案内されたのは城内のサロンだった。
大きな窓から海が見える。厚いカーテンは片側だけ開かれ、落ち着いた光が室内に差し込んでいた。テーブルの上には茶器と菓子、果物、細いグラスに入った赤い飲み物が並んでいる。
その奥の椅子に、ローザが座っていた。
「いらっしゃい、二人とも」
ローザは軽く手を振った。
死んだはずの母、という言葉はもう少しずつ現実味を失っている。目の前のローザはよく笑い、よく喋り、場を明るくする。けれど、その軽さの下に十一年分の重さがあることも、桐子は知っていた。
「お招きありがとうございます」
アイギスが礼を取る。
桐子も慌てて頭を下げた。
「ありがとうございます」
「堅い堅い。今日は謝罪会見じゃなくて、お茶会よ」
「謝罪会見だったら、かなり嫌です。帰っていいですか」
「その場合はもう少し良い椅子を用意するわね」
ローザが笑う。
クロエは少しだけ呆れた顔をしたが、以前よりその呆れ方に棘が少ない。
席に着くと、飲み物が配られた。桐子は赤いグラスを見て少し身構えた。西部領の赤い飲み物と聞くと、ドラゴンの血で悪酔いしたクロエの姿がどうしても脳裏に浮かぶ。
「安心して。ただの葡萄の飲み物よ」
ローザが言った。
「本当に?」
「本当に。あなた、疑う目が上手くなったわね」
「西部領で学びました。ここ、油断すると赤い飲み物が本当に赤いので」
「それは良い学びね」
クロエが小さく咳払いをした。
「母様、そろそろ本題に」
「はいはい」
本題。
桐子はグラスを置いた。
何か重い話だろうか。そう思った瞬間、クロエの目が少しだけ泳いだ。
珍しい。
クロエは気位が高く、動揺しても取り繕うのが上手い。そんな彼女が、言葉を選んでいる。
「桐子」
「うん」
「あなたに、少し頼みたいことがあるの」
「私に?」
「ええ。西部領の文化に関わることよ」
文化。
桐子はアイギスを見た。アイギスも分からないらしく、静かにクロエを見ている。
ローザが楽しそうに口元を押さえた。
「吸血鬼同士、あるいは吸血鬼が信頼を置く相手との間で、血の味を見ることがあるの。大量に吸うわけじゃない。相性や体調、相手の魔力の質を見る、挨拶と診断と親愛表現の混ざったようなものね」
桐子は自分の手首を見た。
話の行き先が、急に分かってしまった。
「つまり、私の血を」
「味見したいの」
クロエが言った。
取り繕っている。とても取り繕っている。背筋は伸びているし、声も整っている。しかし、耳のあたりがほんの少し赤い。
桐子は困った。
困ったが、嫌悪感はなかった。吸血鬼の領地で、吸血鬼の文化として説明されると、思っていたより受け入れやすい。もちろん、怖くないわけではない。牙を立てられるのだから、普通に怖い。
「血を吸われたら、吸血鬼になるとかは」
「ならないわ」
クロエが即答した。
ローザも頷く。
「ただ噛んで少し吸ったくらいで吸血鬼になったら、西部領は今頃大変なことになっているわ」
「それはそうか」
桐子は少しだけ肩の力を抜いた。
アイギスが静かに言う。
「量は」
「味見程度。私が見ているから、やりすぎはさせないわ」
ローザの言葉に、クロエが不満そうにした。
「母様、私はそこまで」
「あなた、ドラゴンの血で店を壊した前科があるでしょう」
「あれは相手がドラゴンだったからで」
「今回は桐子ちゃんよ。別の意味で変な味がしてもおかしくない」
「変な味」
桐子は自分の血に対して微妙な気持ちになった。
魔族・人間種。未来から来た人間界育ち。魔石があり、気もあり、神威らしきものまで握ったことがある。冷静に考えると、自分の身体はかなり妙な状態なのかもしれない。
「痛い?」
「少し」
クロエは正直に答えた。
「でも、すぐ終わるわ」
その言い方が妙に真面目だったので、桐子は頷いた。
「分かった」
クロエが目を瞬かせる。
「いいの?」
「吸血鬼になるわけじゃないなら。あと、文化なら、まあ」
「文化よ」
「なら、経験しておいた方がいいかなって」
アイギスが横から桐子を見た。
「桐子は、そういうところで妙に腹が据わっている」
「そうかな」
「はい」
クロエが席を立つ。
桐子は促されるまま、左手首を差し出した。クロエの指が手首を取る。冷たいかと思ったが、体温はきちんとあった。指先が細く、力の入れ方が丁寧だ。
牙が見えた。
普段のクロエの口元からは想像しにくい鋭さだった。美しい顔立ちの中に、急に捕食者の印が浮かぶ。
桐子は息を止めかけ、意識して吐いた。
「怖いなら、やめてもいいわ」
クロエが言う。
「怖い」
「そう」
「でも、やめなくていい」
クロエの瞳が少しだけ揺れた。
次の瞬間、手首に鋭い痛みが走った。
針より太く、刃より柔らかい。牙が皮膚を破り、血が引き出される感覚がある。痛みは一瞬強く、その後はじんわりとした熱に変わった。
クロエは本当に少量しか吸わなかった。
だが、彼女の反応は少量では済まなかった。
手首から口を離した直後、クロエは動きを止めた。紫の瞳がわずかに見開かれ、取り繕うための表情が一拍遅れる。
「……クロエ?」
桐子が呼ぶ。
クロエは指先で唇を押さえた。
「問題ないわ」
「問題ある顔に見える」
「ないわ」
「耳、赤い」
「光の加減よ」
室内の光は特に変わっていなかった。
ローザが肩を震わせている。
「美味しかった?」
「母様」
「感想は大事よ」
クロエは品よく座り直そうとして、途中で一度だけ深く息を吐いた。
「……非常に、興味深い味だったわ」
「それ、研究者みたいな言い方」
「とても美味しかった、と素直に言うのが嫌なのだと思います」
アイギスが冷静に言った。
クロエが睨む。
「アイギス」
「失礼しました」
謝っているのに、アイギスの表情はほとんど変わらない。
桐子は手首を見た。ローザが小さな布と薬を渡してくる。傷は浅い。血もすぐ止まりそうだった。
「変な味じゃなくて良かった」
「変ではないわ」
クロエがすぐに言った。
言ってから、気づいたように顔をそらす。
「少なくとも、不快ではなかった」
「それ、かなり控えめに言ってるよね」
「桐子」
「うん」
「あなた、そういうところは黙って受け取りなさい」
「うん」
桐子は素直に頷いた。
サロンの空気が少しだけ柔らかくなる。事件の城ではなく、友人をもてなす城。クロエがそう言った意味を、桐子は少しだけ理解した。
ローザが茶器を持ち上げる。
「それで、桐子ちゃん」
「はい」
「西部領、どう?」
「どう、とは」
「住み心地とか、働きやすさとか、将来性とか」
クロエが咳き込んだ。
アイギスがローザを見る。
桐子は首を傾げた。
「働きやすさ?」
「母様」
クロエの声が少し強くなる。
「まだ早いです」
「そう?」
「そうです」
何かある。
桐子にもそれは分かった。だが、何かは分からない。ローザは楽しげで、クロエは焦っている。西部領の母娘は、時々こうして会話の裏で別の盤面を動かしているように見える。
桐子は手首の布を押さえながら、少しだけ警戒した。
「私、何か巻き込まれてる?」
「まだ」
ローザが答えた。
「まだ?」
「母様」
クロエが本気で止める声を出した。
ローザは笑って、話題を菓子へ変えた。
それで済んだように見えた。
だが、桐子は覚えていた。
まだ、という言葉。
クロエの血を吸う目。
西部領という場所が、自分を事件の外側からではなく、少しずつ内側へ招き入れている感覚。
悪い気はしなかった。
それが少し怖い。
自分には、まだ帰る場所が分からない。真希のいる未来へ戻れるのかも分からない。それなのに、この世界の誰かが、自分の居場所を用意しようとしている。
桐子は海の見える窓へ目を向けた。
西部領の空は曇っている。
その下で、城はゆっくりと直り始めていた。
自分も、そうなのかもしれない。
まだ傷は残っている。分からないことも多い。けれど、誰かと同じ卓につき、血を少し分け、冗談と本音の間で言葉を交わすことはできる。
桐子は手首の痛みを確かめる。
それは、戦場で受けた痛みとは違っていた。
誰かに近づくための、小さな痛みだった。




