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いずれ空へと続く道  作者: 白銀スーニャ
第2章:東の死と不死と未来
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第40話

 桐子が再び西部領の城へ招かれた時、前に来た時とは空気がまるで違っていた。

 城そのものは同じだ。海沿いの崖上に建つ、ゴシック調の重い城。窓の外には雲の流れが速い空があり、遠くで海が白く光っている。石造りの廊下も、陰影の深い壁も、見慣れたと言うにはまだ遠い。

 けれど、あの夜のような張り詰めた気配は薄れていた。

 使用人たちの動きが違う。怯えや空虚さではなく、忙しさがある。壊れた箇所の修繕、入れ替えられた人員の整理、戻ってきた者への説明。城は傷ついているが、死んだ場所ではなく、直そうとしている場所になっていた。

 その変化が、桐子には少しだけまぶしかった。

「本当に、また来ることになるとは思いませんでした」

 隣を歩くアイギスが言った。

「私も」

 桐子は小さく頷く。

 前回は客人という名目だったが、実態は事件の渦中だった。魔法無効化装置に、教団兵に、ルシアンに、神威の槍。思い出すだけで肩の古傷が強張る。

 今回は、クロエからの正式な招待だった。

 事件の後処理が一段落したから、改めて二人をもてなしたい。そういう話だった。サニーは「好きにしなさい」と言っただけで、特に同行しなかった。実地研修ではなく、友人としての招待に近い。

 それでも、桐子は少し緊張していた。

 クロエに会うことそのものではない。

 自分がこの城で、人を殺したことを覚えているからだ。

 ルシアンを止めた。西部領を救うために必要だった。そう言えるようにはなった。だが、言えるようになったことと、何も感じないことは違う。

 廊下の先で、クロエが待っていた。

 金髪に紫の瞳。服装は以前より少し軽いが、それでも西部領の令嬢らしい品がある。背筋を伸ばし、こちらを迎える姿は、養成所で見る時よりもずっと領主に近かった。

「来たわね」

「招待されたので。逃げる理由もないし」

「逃げると思っていたの?」

「少し」

 クロエの眉がわずかに上がる。

 桐子は慌てて言葉を足した。

「いや、悪い意味じゃなくて。ここで色々あったから、ちょっと身構えたというか」

「分かっているわ」

 クロエは少しだけ表情を緩めた。

「だからこそ、きちんと招きたかったの。事件の場所としてだけ、この城を覚えてほしくなかった」

 その言葉に、桐子はすぐには返せなかった。

 クロエは先に歩き出す。

「母様も待っているわ。アイギス、あなたも遠慮しないで」

「感謝します」

 アイギスは丁寧に頷いた。

 桐子はその横で、クロエの背中を見た。少しだけ近くなった気がする。西部領の事件を経て、クロエとの距離は確かに変わった。けれど、その変化を言葉にするには、まだ自分の中の整理が追いついていない。

 案内されたのは城内のサロンだった。

 大きな窓から海が見える。厚いカーテンは片側だけ開かれ、落ち着いた光が室内に差し込んでいた。テーブルの上には茶器と菓子、果物、細いグラスに入った赤い飲み物が並んでいる。

 その奥の椅子に、ローザが座っていた。

「いらっしゃい、二人とも」

 ローザは軽く手を振った。

 死んだはずの母、という言葉はもう少しずつ現実味を失っている。目の前のローザはよく笑い、よく喋り、場を明るくする。けれど、その軽さの下に十一年分の重さがあることも、桐子は知っていた。

「お招きありがとうございます」

 アイギスが礼を取る。

 桐子も慌てて頭を下げた。

「ありがとうございます」

「堅い堅い。今日は謝罪会見じゃなくて、お茶会よ」

「謝罪会見だったら、かなり嫌です。帰っていいですか」

「その場合はもう少し良い椅子を用意するわね」

 ローザが笑う。

 クロエは少しだけ呆れた顔をしたが、以前よりその呆れ方に棘が少ない。

 席に着くと、飲み物が配られた。桐子は赤いグラスを見て少し身構えた。西部領の赤い飲み物と聞くと、ドラゴンの血で悪酔いしたクロエの姿がどうしても脳裏に浮かぶ。

「安心して。ただの葡萄の飲み物よ」

 ローザが言った。

「本当に?」

「本当に。あなた、疑う目が上手くなったわね」

「西部領で学びました。ここ、油断すると赤い飲み物が本当に赤いので」

「それは良い学びね」

 クロエが小さく咳払いをした。

「母様、そろそろ本題に」

「はいはい」

 本題。

 桐子はグラスを置いた。

 何か重い話だろうか。そう思った瞬間、クロエの目が少しだけ泳いだ。

 珍しい。

 クロエは気位が高く、動揺しても取り繕うのが上手い。そんな彼女が、言葉を選んでいる。

「桐子」

「うん」

「あなたに、少し頼みたいことがあるの」

「私に?」

「ええ。西部領の文化に関わることよ」

 文化。

 桐子はアイギスを見た。アイギスも分からないらしく、静かにクロエを見ている。

 ローザが楽しそうに口元を押さえた。

「吸血鬼同士、あるいは吸血鬼が信頼を置く相手との間で、血の味を見ることがあるの。大量に吸うわけじゃない。相性や体調、相手の魔力の質を見る、挨拶と診断と親愛表現の混ざったようなものね」

 桐子は自分の手首を見た。

 話の行き先が、急に分かってしまった。

「つまり、私の血を」

「味見したいの」

 クロエが言った。

 取り繕っている。とても取り繕っている。背筋は伸びているし、声も整っている。しかし、耳のあたりがほんの少し赤い。

 桐子は困った。

 困ったが、嫌悪感はなかった。吸血鬼の領地で、吸血鬼の文化として説明されると、思っていたより受け入れやすい。もちろん、怖くないわけではない。牙を立てられるのだから、普通に怖い。

「血を吸われたら、吸血鬼になるとかは」

「ならないわ」

 クロエが即答した。

 ローザも頷く。

「ただ噛んで少し吸ったくらいで吸血鬼になったら、西部領は今頃大変なことになっているわ」

「それはそうか」

 桐子は少しだけ肩の力を抜いた。

 アイギスが静かに言う。

「量は」

「味見程度。私が見ているから、やりすぎはさせないわ」

 ローザの言葉に、クロエが不満そうにした。

「母様、私はそこまで」

「あなた、ドラゴンの血で店を壊した前科があるでしょう」

「あれは相手がドラゴンだったからで」

「今回は桐子ちゃんよ。別の意味で変な味がしてもおかしくない」

「変な味」

 桐子は自分の血に対して微妙な気持ちになった。

 魔族・人間種。未来から来た人間界育ち。魔石があり、気もあり、神威らしきものまで握ったことがある。冷静に考えると、自分の身体はかなり妙な状態なのかもしれない。

「痛い?」

「少し」

 クロエは正直に答えた。

「でも、すぐ終わるわ」

 その言い方が妙に真面目だったので、桐子は頷いた。

「分かった」

 クロエが目を瞬かせる。

「いいの?」

「吸血鬼になるわけじゃないなら。あと、文化なら、まあ」

「文化よ」

「なら、経験しておいた方がいいかなって」

 アイギスが横から桐子を見た。

「桐子は、そういうところで妙に腹が据わっている」

「そうかな」

「はい」

 クロエが席を立つ。

 桐子は促されるまま、左手首を差し出した。クロエの指が手首を取る。冷たいかと思ったが、体温はきちんとあった。指先が細く、力の入れ方が丁寧だ。

 牙が見えた。

 普段のクロエの口元からは想像しにくい鋭さだった。美しい顔立ちの中に、急に捕食者の印が浮かぶ。

 桐子は息を止めかけ、意識して吐いた。

「怖いなら、やめてもいいわ」

 クロエが言う。

「怖い」

「そう」

「でも、やめなくていい」

 クロエの瞳が少しだけ揺れた。

 次の瞬間、手首に鋭い痛みが走った。

 針より太く、刃より柔らかい。牙が皮膚を破り、血が引き出される感覚がある。痛みは一瞬強く、その後はじんわりとした熱に変わった。

 クロエは本当に少量しか吸わなかった。

 だが、彼女の反応は少量では済まなかった。

 手首から口を離した直後、クロエは動きを止めた。紫の瞳がわずかに見開かれ、取り繕うための表情が一拍遅れる。

「……クロエ?」

 桐子が呼ぶ。

 クロエは指先で唇を押さえた。

「問題ないわ」

「問題ある顔に見える」

「ないわ」

「耳、赤い」

「光の加減よ」

 室内の光は特に変わっていなかった。

 ローザが肩を震わせている。

「美味しかった?」

「母様」

「感想は大事よ」

 クロエは品よく座り直そうとして、途中で一度だけ深く息を吐いた。

「……非常に、興味深い味だったわ」

「それ、研究者みたいな言い方」

「とても美味しかった、と素直に言うのが嫌なのだと思います」

 アイギスが冷静に言った。

 クロエが睨む。

「アイギス」

「失礼しました」

 謝っているのに、アイギスの表情はほとんど変わらない。

 桐子は手首を見た。ローザが小さな布と薬を渡してくる。傷は浅い。血もすぐ止まりそうだった。

「変な味じゃなくて良かった」

「変ではないわ」

 クロエがすぐに言った。

 言ってから、気づいたように顔をそらす。

「少なくとも、不快ではなかった」

「それ、かなり控えめに言ってるよね」

「桐子」

「うん」

「あなた、そういうところは黙って受け取りなさい」

「うん」

 桐子は素直に頷いた。

 サロンの空気が少しだけ柔らかくなる。事件の城ではなく、友人をもてなす城。クロエがそう言った意味を、桐子は少しだけ理解した。

 ローザが茶器を持ち上げる。

「それで、桐子ちゃん」

「はい」

「西部領、どう?」

「どう、とは」

「住み心地とか、働きやすさとか、将来性とか」

 クロエが咳き込んだ。

 アイギスがローザを見る。

 桐子は首を傾げた。

「働きやすさ?」

「母様」

 クロエの声が少し強くなる。

「まだ早いです」

「そう?」

「そうです」

 何かある。

 桐子にもそれは分かった。だが、何かは分からない。ローザは楽しげで、クロエは焦っている。西部領の母娘は、時々こうして会話の裏で別の盤面を動かしているように見える。

 桐子は手首の布を押さえながら、少しだけ警戒した。

「私、何か巻き込まれてる?」

「まだ」

 ローザが答えた。

「まだ?」

「母様」

 クロエが本気で止める声を出した。

 ローザは笑って、話題を菓子へ変えた。

 それで済んだように見えた。

 だが、桐子は覚えていた。

 まだ、という言葉。

 クロエの血を吸う目。

 西部領という場所が、自分を事件の外側からではなく、少しずつ内側へ招き入れている感覚。

 悪い気はしなかった。

 それが少し怖い。

 自分には、まだ帰る場所が分からない。真希のいる未来へ戻れるのかも分からない。それなのに、この世界の誰かが、自分の居場所を用意しようとしている。

 桐子は海の見える窓へ目を向けた。

 西部領の空は曇っている。

 その下で、城はゆっくりと直り始めていた。

 自分も、そうなのかもしれない。

 まだ傷は残っている。分からないことも多い。けれど、誰かと同じ卓につき、血を少し分け、冗談と本音の間で言葉を交わすことはできる。

 桐子は手首の痛みを確かめる。

 それは、戦場で受けた痛みとは違っていた。

 誰かに近づくための、小さな痛みだった。


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