第39話
2章開幕です。
城前広場に立った時、クロエは自分の足元がいつもより少し高い場所にあることを意識した。
広場には西部領の領民が集まっている。城門前から石畳の通りまで、人の波が静かに続いていた。騒ぎ立てる者はいない。誰もが顔を上げ、城の正面に設けられた簡素な壇を見つめている。魔導中継はない。予算の問題もあるが、それ以上に、これは遠くへ見せるための儀式ではなかった。
ここにいる者たちへ、直接伝えるための場だった。
クロエは壇の中央へ進んだ。
背後にはローザがいる。死んだはずの母。十一年前からずっと西部領の過去を支配していた名前が、今は生きた人間として、クロエの少し後ろに立っている。
横顔を見たい気持ちを、クロエは抑えた。
今、前に出るべきなのは自分だ。
行政への報告はすでに済んでいる。書面も整えられた。事件の責任、ルシアンの関与、教団残党への対応、領内各地の被害と復旧計画。出せる情報と出せない情報が分けられ、何度も読み直された。
それでも、書面では届かないものがある。
この場に立つことそのものが、クロエに残された最初の仕事だった。
「本日、集まっていただいた皆様に、シュヴァリエ家より正式にお伝えすることがあります」
声は震えなかった。
そうでなければならない。
クロエ・シュヴァリエは、西部領の領主として前に立っている。養成所に在籍している間、実務を誰が担うかは別の話だ。形式だろうと、未成年だろうと、領主として名を置くなら、逃げることは許されない。
「先の蜂起において、西部領は多くの被害を受けました。領都、城内、外縁部、港湾区。各地で命を落とした者、傷を負った者、家族や住まいを失った者がいます。まず、領主家として、対応が後手に回ったこと、皆様へ不安と犠牲を強いたことを、深くお詫びいたします」
クロエは頭を下げた。
広場の空気が動く。
謝罪だけでは足りない。そんなことは分かっている。だが、言わずに済ませることはもっと許されない。
ルシアンは自分の書面上の父だった。
その男が城を、領地を、教団へ差し出した。ルシアンが本当は何を抱えていたのか、家の内側で何が歪んでいたのか、そのすべてをこの場で語るべきではない。今必要なのは、弁明ではなく、領主家としての責任だった。
「今回の事件に関わる調査は、魔王軍と連携して継続します。被害を受けた地域の復旧、遺族および負傷者への支援、失われた行政機能の再建についても、順次進めてまいります」
言葉を一つずつ置く。
領民たちの顔は、遠くからでも見えた。怒りもある。安堵もある。疑問もある。母の名を待っている者もいる。
クロエは息を吸った。
「そして、もう一つ。西部領に長く伏せられていた事実を、本日この場で公表します」
背後の気配が、わずかに変わった。
ローザが前へ出る。
広場がざわめいた。
肖像画でしか知らない者もいるはずだった。十一年前に死んだはずの領主。英雄ではない。聖人でもない。西部領を守るために死んだと伝えられ、同時に、残された者たちに喪失を刻んだ女。
ローザ・シュヴァリエが、壇の上で領民を見渡した。
最初に浮かべた笑みは、昔から彼女を知る者なら見覚えのあるものだったのかもしれない。軽く、少し茶目っ気があり、重い空気をわざと崩そうとする顔。
「ごめんなさい! 生きてました!」
その声に、広場が凍った。
クロエも一瞬だけ固まった。
何を言っているのだ、この人は。
だが、ローザはその軽口を最後まで軽口のままにはしなかった。言葉を置いた直後、彼女の目が揺れた。笑みを保とうとして、保ちきれなかった。
「……と言って済む話じゃないわね」
ローザは静かに頭を下げた。
先ほどの軽さが嘘のように、声が低くなる。
「十一年前、私は死を偽装しました。理由のすべてを、今ここで語ることはできません。語れないことも、まだ多い。それでも、皆に嘘をつき、領地を離れ、クロエに十一年分の喪失を背負わせたことは事実です」
風が吹いた。
西部領の城は海沿いの崖上にある。広場にも潮の匂いが届く。吸血鬼の遺灰を海風へ撒く風習のある土地で、死を偽った者が生きて戻った。その重さは、クロエにもまだ量りきれない。
「私は領主へ戻りません」
ローザは言った。
「現在の西部領領主は、クロエ・シュヴァリエです。彼女が養成所に在籍している間、私は領主代行として実務を担い、クロエを支えます。私が不在の間に歪んだもの、壊れたもの、届かなかったものを、一つずつ戻していきます」
戻せないものもある。
クロエはそう思った。
死者は戻らない。十一年は戻らない。母を失ったと思っていた自分の時間も、母を憎みきれずにいた夜も、ルシアンに対して感じていた冷えた違和感も、戻らない。
だが、戻せないから何もしないわけにはいかない。
ローザの言葉が、少しずつ揺れていく。
「皆に、謝ることが多すぎるわ。私の不在で守れなかったものがある。私が生きていたと知らなかったことで、苦しませた人もいる。それでも、もう一度ここに立つことを選んだのは、逃げるためじゃない」
ローザは顔を上げた。
その瞳は紫で、クロエと同じ色をしていた。
「今度は、側で支えるためよ」
広場から、誰かの嗚咽が漏れた。
怒号は飛ばなかった。拍手もすぐには起きなかった。沈黙が長く続き、その中で、領民たちはそれぞれの感情を整理しようとしているように見えた。
クロエは、母の横に立った。
ローザはもう笑っていない。
だからクロエも、きれいな言葉で場を終わらせることをやめた。
「私も、まだ全てを受け止めきれていません」
自分の声が広場へ落ちる。
「ですが、西部領の領主として、母と共に、皆様の前に立ちます。嘘で隠した時間を、言葉だけで償うことはできません。だから、これからの行動で示します」
もう一度、頭を下げた。
今度は隣でローザも同じように頭を下げる。
広場のざわめきはすぐには収まらなかった。歓迎と怒り、安堵と不信。それらが混ざり合い、西部領の空の下で重く渦を巻いている。
それでいいのだと、クロエは思った。
簡単に許される方が、きっと嘘になる。
* * *
発表後、城内のサロンへ戻った時、クロエの足は少しだけ重かった。
壇の上で倒れなかっただけでも十分だと思う。だが、座った瞬間に身体から力が抜け、指先まで冷えていることに気づいた。
「お疲れさま、クロエ」
ローザが向かいの椅子に腰を下ろす。
「よく立っていたわ」
「母様に言われると、素直に喜びにくいです」
「そうよね」
ローザは困ったように笑った。
まだ距離がある。
それは仕方のないことだった。事件当日の夜、母の部屋で話した。怒りも、安堵も、これからのことも口にした。それでも、十一年の空白が一晩で埋まるわけではない。
サロンの扉が静かに開いた。
執事が飲み物を載せた盆を運んでくる。いつも通りの所作だった。背筋を伸ばし、余計な音を立てず、カップの向きまで整えて置く。
クロエにとって、彼はずっと執事だった。
母がいない城で、自分を支え続けた人。父を警戒するよう告げた人。城の異変に気づきながら、それでもクロエの保護を最優先にした人。
ローザはカップを受け取り、何気ない声で言った。
「ありがとう、お父様」
クロエの手が止まった。
執事も止まった。
ローザも止まった。
サロンに、妙な沈黙が落ちる。
「……母様?」
クロエはゆっくりと顔を上げた。
ローザの笑みが固い。
「ええと」
「今、何と」
「お父様、と」
「誰の」
「私の」
クロエは執事を見た。
執事は盆を持ったまま、静かに目を伏せている。否定はしない。訂正もしない。
「では、この方は」
「あなたの祖父、ということになるわね」
「……知らなかったのですが」
声が自分でも驚くほど低くなった。
ローザは視線を泳がせた。
「知らなかったの!?」
「知る機会がどこにありましたか」
「それは、まあ、そうね」
軽い流れにしようとしているのは分かった。
だが、クロエの胸の奥では別の感情が膨らんでいた。怒りというより、足場を一つずつ外される感覚だった。母は生きていた。執事は祖父だった。父だと思っていた男は父ではなかった。家族と呼んできたものの配置が、事件後になって次々と変わっていく。
クロエはカップから手を離した。
「説明を」
「はい」
執事が静かに頷いた。
「シュヴァリエ家には、当代から三世代離れた者は、シュヴァリエの名を捨てねばならない慣習がございます」
「三世代」
「はい。名は血筋に残りますが、家の表からは退く。私の場合、クロエ様の次代が家を継がれた時点で、シュヴァリエとは縁のない吸血鬼として生きることになります」
「だから、執事を」
「名を捨てる前段階として、役目だけを残しておりました」
淡々としている。
あまりに淡々としているので、クロエはかえって何も言えなくなった。
彼は自分の祖父でありながら、ずっと執事として側にいた。名前ではなく役目で、自分を守っていた。
「なぜ、黙っていたのです」
問いはローザへ向いた。
ローザは笑わなかった。
「あなたを守るため、と言えば聞こえはいいけど、それだけじゃないわ。私がいない間、この人が祖父として表に出れば、ルシアンに警戒される。執事でいる方が、城に残りやすかった」
「それで、私には何も」
「ごめんなさい」
ローザが頭を下げる。
クロエは息を吐いた。
謝罪ばかりだ。
この家には、謝罪しなければならないことが多すぎる。
けれど、目の前の二人が自分を軽んじていたわけではないことも、分かってしまう。分かるから、怒りをどこへ置けばいいのか迷う。
「桐子とアイギスには」
「まだ話しておりません」
執事が答える。
「この場にお二人がいないのは、偶然ではありません。まずはクロエ様にお伝えするべきことです」
クロエは小さく頷いた。
後で話すことになるだろう。桐子は驚き、アイギスは静かに受け止める気がする。二人に聞かせる時、自分はどんな顔をするのだろう。
分からない。
分からないことばかりだ。
クロエは祖父である執事を見た。
「では、今後も執事と呼べばよろしいのですか」
「それが私の役目ですので」
「頑固ですね」
「シュヴァリエに仕える者ですので」
その返答に、クロエは少しだけ肩の力を抜いた。
家族の形は変わった。
だが、目の前の人が自分を支え続けてきた事実は変わらない。
ローザが恐る恐る口を開く。
「怒ってる?」
「怒っています」
「そうよね」
「ですが、今は説明を聞きます」
クロエはカップを取り直した。
温かい飲み物の香りが立つ。城前広場の潮風とは違う、サロンの内側の匂いだった。
西部領は、まだ揺れている。
自分の家も、母との関係も、祖父の役目も、全部が整理の途中にある。
それでも、クロエは椅子に座り直した。
逃げずに聞く。
領主として。
そして、ようやく母と祖父を取り戻した娘として。




