EX21
養成所の大講堂を出たあと、上級生の一人はしばらく廊下の端に立っていた。
緊急集会は終わった。
ステラ・アージェントの声は、まだ耳に残っている。西部領の事件は一応の終結を迎えた。教団の蜂起は鎮圧され、領主家の体制も立て直しに入っている。だが、事件の裏には未解明の部分があり、養成所の生徒たちにも今後の情勢を意識した訓練と規律が求められる。
言葉は整っていた。
不安を煽りすぎず、軽くも扱わない。王都防衛と養成所の象徴として前に立つには、あの人ほどふさわしい者はいないのだろう。背筋の伸びた姿、落ち着いた声、余計な感情を乗せない説明。
だからこそ、現実味があった。
これは訓練の話ではない。
外で本当に起きている話だ。
上級生は、廊下を行く生徒たちを見た。
一年目を終えた者たちは、夏季休暇に入ったばかりで浮ついていた。寮へ残る者、領地へ帰った者、王都で遊ぶ計画を立てていた者。例年なら、そのまま休暇の前半をそれぞれの予定で過ごしている時期だ。実際、事件の報せが届くまではそうだった。
だが今は違う。
誰も大声で笑っていない。声を潜め、互いの顔を見ながら、さっき聞いた話を反芻している。西部領、魔神教団、特別クラス、アンチ・マジック、ローザ・シュヴァリエの生存。断片的な言葉だけが、廊下のあちこちで小さく跳ねていた。
その中心に、特別クラスの名前がある。
白銀桐子。
アイギス・アージェント。
クロエ・シュヴァリエ。
リュウガ・シノノメ。
リュウガは今回、西部領にはいなかったらしい。それでも特別クラスという括りで語られる。あの四人は、入所試験の時から目立っていた。目立つどころではない。一般客まで入る試験会場で、賭けの対象になり、噂になり、軍関係者の視線を集めていた。
最初は、派手な連中だと思っていた。
名家の子女。
妙な後見人を持つ出自不明の少女。
領主候補。
第七班候補。
通常クラスに混ぜられないから特別に隔離された、扱いの難しい者たち。
そういう見方もあった。
だが、西部領の事件を聞いたあとでは、同じ言葉が違う重さを持つ。
彼女たちは、本当に事件の中へ入ったのだ。
訓練場ではない場所で、敵と戦い、仲間を守り、誰かを殺し、誰かを救った。
上級生は自分の手を見た。
剣だこがある。魔法訓練で火傷をした跡もある。集団教練で何度も転び、盾役の同期に助けられ、教官に怒鳴られ、試験で勝ったことも負けたこともある。
それなりにやってきたつもりだった。
卒業後は、地方軍か王都防衛のどこかに配属されるだろう。家の都合もある。成績も悪くない。自分は自分なりに、魔王軍へ入る準備をしていると思っていた。
だが、実戦は待ってくれない。
準備が整った者から順に呼ばれるわけではない。
白銀桐子たちは、自分より下の学年だ。
それなのに、もう先に戦場を見ている。
悔しい、とは少し違った。
羨ましい、でもない。
怖い。
近い将来、自分も同じものを見るのだという距離感が、急に縮まった。
「なあ」
隣にいた同期が声をかけてきた。
「特別クラスの白銀って、見たことあるか」
「入所試験で」
「槍のやつだろ」
「そう」
「西部領で何したんだろうな」
上級生は少し考えた。
噂はいくつもある。魔法が使えない状況で戦った。黒い化け物を倒した。クロエを守った。神の槍を出した。どれも尾ひれがついていて、どこまでが本当か分からない。
分からないからこそ、噂は育つ。
「知らない」
上級生は答えた。
「でも、何かはしたんだろう」
「だよな」
同期は声を落とした。
「俺、あいつらのこと、ちょっと苦手だったんだよ」
「分かる」
「何か、違う場所にいる感じがして」
「分かる」
特別クラスは、同じ養成所にいるのに少し遠い。
寮も訓練も教官も違い、噂だけが先に歩く。クロエは次期領主としての気品があり、アイギスはアージェント家の娘として目立つ。リュウガは東部領の名家の少年で、入所試験でも身体能力の高さを見せていた。白銀桐子は出自不明で、サニーが後見人という時点で妙な目で見られる。
近づきたい者もいる。
遠巻きにしたい者もいる。
自分は、どちらだったのだろう。
上級生には分からなかった。
ただ、今日の集会で一つだけ変わったことがある。
特別クラスは、物語の登場人物ではない。
同じ養成所にいる生徒だ。
年下で、怪我をするし、怖い思いもするし、それでも前に出る。
そう思うと、畏怖は少し形を変えた。
「俺たち、次は他人事じゃないよな」
同期が言った。
上級生は頷いた。
西部領の事件は遠い土地の話ではない。魔神教団の残党が動き、魔法を無効化する装置が使われ、領主家の中枢が揺らいだ。王都の養成所にいる自分たちが無関係でいられるはずがない。
卒業まで、あと長くない。
これから直面する現実は、試験の採点表よりずっと雑で、残酷で、待ってくれない。
「訓練、増えるかな」
「増えるだろうな」
「サニー隊長が関わったら終わりだぞ」
「特別クラス、いつも生きてるのか」
「たぶん、ぎりぎり」
二人は少しだけ笑った。
笑いはすぐに消えたが、その短さがちょうどよかった。重い話ばかりでは息が詰まる。だからといって、軽く流せるほど現実は遠くない。
廊下の向こうに、特別クラスの三人が見えた。
桐子、アイギス、クロエ。
少し距離を置いて歩いている。クロエは背筋を伸ばしているが、以前より固さが違う。アイギスは周囲を自然に見ている。桐子は何かを考えているようで、時々手を開いたり閉じたりしていた。
普通の生徒に見える瞬間もある。
そうでないものを背負っているようにも見える。
上級生は声をかけなかった。
何を言えばいいのか分からない。
お疲れ、と言えば軽すぎる。
大変だったな、と言えば踏み込みすぎる。
すごいな、と言えば、彼女たちが失ったものを飾りにしてしまう気がした。
だから、ただ道を少し空けた。
桐子がこちらを見る。
一瞬だけ目が合った。
上級生は小さく会釈した。桐子も、少し遅れて会釈を返す。知らない者同士の、ぎこちない挨拶。それだけだった。
それだけで十分な気がした。
特別クラスの三人が通り過ぎる。
その背中を見送りながら、上級生は思った。
いつか自分も、誰かに道を空けられる側になるのだろうか。
それとも、誰かのために道を空ける側で終わるのだろうか。
どちらが上という話ではない。
戦場では、前に出る者だけでなく、道を作る者、守る者、伝える者、後始末をする者がいる。今日の集会で聞いた事件も、きっとそうだった。目立つ者だけで終わったわけではない。
自分は何になれるのか。
その問いは、始まったばかりの夏季休暇の予定より重かった。
「訓練場、行くか」
上級生は言った。
同期が目を丸くする。
「今から?」
「少しだけ」
「真面目だな」
「怖くなっただけだ」
正直に言うと、同期は苦笑した。
「じゃあ、俺も行く」
二人は大講堂を離れた。
廊下の窓から、王都の空が見える。雲は高く、夏の光はまだ明るい。休暇はもう始まっている。日常は続く。食堂の匂いも、寮へ残った生徒の声も、いつも通りそこにある。
その日常の下に、別の現実が口を開けている。
上級生はそれを初めて、はっきりと近くに感じた。
怖い。
それでも、足は訓練場へ向かった。
怖いからこそ、今できることを増やすしかない。
特別クラスの背中が見えなくなった廊下で、上級生は自分の拳を一度だけ握り、すぐに開いた。
これにて第1章は終了です。お付き合いいただきありがとうございます。
次回から第2章が始まります。お楽しみに。




