EX20
リリー・セヴァライドは、面談準備表の余白に三本目の矢印を書き込んでいた。
矢印の先には、白銀桐子の名前がある。
その周りを、固有魔法、武具創造・槍、神威らしき残滓、魔力運用、気との接触可能性、発現時の心理状態、アンチ・マジック影響下での挙動、神との接触仮説、という単語が囲んでいる。
研究員の一人が、長い沈黙のあとで言った。
「隊長」
「何?」
「これは面談準備表ではなく、解剖計画書に見えます」
リリーは手元の紙を見た。
確かに線は多く、矢印も注釈も多い。
ただ、解剖という表現は不適切だ。白銀桐子本人への物理的侵襲は現時点で予定していない。予定していないのだから、解剖計画書ではない。
「失礼な。非侵襲観察中心よ」
「非侵襲観察中心、という言い方がもう少し怖いです」
「怖くない。優しい」
「隊長基準では」
研究室の空気は、いつも通り少し乾いていた。
第3班は魔法・研究班である。元魔法研究所の者もいれば、最初から軍属として研究畑に入った者もいる。現場で剣を振るう者たちとは違う意味で、ここにも戦場がある。机、封印容器、術式盤、報告書、検体、そして無茶を言う上司。
上司はリリーである。
リリーは自覚していた。
自覚していても、止まるとは限らない。
サニーからの依頼は短かった。
桐子の回復を待って、本人同意の上で見てやって。暴走したら止める。
最後の一文は、誰を止めるのか曖昧だった。
桐子を止めるのか。
リリーを止めるのか。
おそらく両方だ。
「まず確認するのは、発現者本人の主観ね」
リリーは新しい紙を引き寄せた。
「神威らしき残滓は、こちらが観測しているはずなのに観測され返す感触があった。だから外側から分解するより、本人が何をどう感じたかを聞く方が早い可能性がある」
「質問項目は何問ですか」
「今のところ七十二」
「多いです」
「じゃあ六十八」
「誤差です」
別の研究員が額を押さえた。
「相手は負傷明けの養成所生です。戦場で人を殺した直後でもあります。面談時間は短めにしてください」
「分かっているわ。だから優先順位をつけている」
リリーは紙の左上に、最優先、と書いた。
発現時、槍を見たか。
握った感触はあったか。
魔力を流した感覚はあったか。
気との違いをどう感じたか。
神という語に対して、本人がどの程度の実感を持っているか。
「隊長」
「何?」
「最優先だけで五問あります」
「五問なら少ない」
「比較対象が七十二問だからです」
「研究とは比較で成り立つものよ」
「屁理屈です」
リリーは否定しなかった。
屁理屈は便利だ。正論で動けないものを、少しだけ横へ動かす力がある。乱用すれば信用を失うが、適切に使えば研究を前へ進める。
ただし、今回は相手がいる。
白銀桐子。
サニーが拾い、特別クラスに放り込み、西部領で神威らしきものを発現させた少女。未来から来たという情報も、リリーの中では別箱に入れてある。あれも本来なら聞きたい。非常に聞きたい。時間構造、魔石の継承、魔力環境差、人格形成への影響。聞きたいことは山ほどある。
だが、今回の面談対象はそこではない。
サニーに蹴られる。
物理的に。
リリーはさすがにそれを避けたい。
「サニー隊長からの条件を確認します」
軍属出身の研究員が、書類を読み上げた。
「負傷回復後であること。本人の同意があること。戦闘再現を要求しないこと。魔力負荷をかけないこと。本人が拒否した質問は打ち切ること。面談中はサニー隊長同席」
「監視が厚い」
「信頼の結果では」
「信頼されているなら同席はいらない」
「信用されていない部分があるのでは」
「心外」
リリーは胸に手を当てた。
研究員たちは誰も慰めなかった。
ひどい部下たちである。
優秀でもある。
優秀だからこそ、リリーの勢いを止めようとする。研究者としては邪魔で、上司としてはありがたい。リリーはそういう矛盾を嫌いではなかった。
「では、観察項目を三段階に分ける」
リリーは術式盤に文字を映した。
「第一段階、会話のみ。発現時の記憶、本人の感覚、既知の魔法訓練との差異。第二段階、通常の武具創造。これは短時間、低負荷。第三段階、神威に関連する再現は要求しない。本人が自発的に何かを感じた場合のみ記録」
「かなりまともです」
「私を何だと思っているの」
「未知を前にすると倫理を机の端へ置く方です」
「完全には否定できない」
リリーは咳払いをした。
「だから今回は置かない。机の中央に固定する」
「固定具が必要ですね」
「作る?」
「作らないでください」
少しだけ研究室に笑いが起きた。
笑いは必要だ。
扱っているものが危険であればあるほど、息をする場所を作らなければ判断が歪む。リリーは自分の好奇心を信用していない。信用していないから、周囲に止める者を置く。
それでも、胸は高鳴っていた。
神威。
まだ仮の名だ。
魔力でも気でもない何か。魔術式の外側から現れ、不滅の魔石による変質を貫いた力。観測しているこちらを観測し返すような残滓。
そこに神がいるのか。
いるなら、何を見ているのか。
自分は何のために生まれた魔女なのか。
リリーはその問いを、表には出さなかった。出せば研究員たちはまた心配する。心配されるのは嫌いではないが、議論が横へ逸れる。
「コーイチへの依頼は」
「送付済みです。人間界側の神に関する伝承、魔術式を介さない異常現象、地域信仰との接触事例を優先調査」
「よし」
「返信では、また変な依頼を投げてきたな、という温度が滲んでいました」
「元気そうで何より」
「隊長」
「何?」
「後輩を便利に使いすぎです」
「向いている人材を適所に配置しているだけ」
「言い方」
リリーは肩をすくめた。
コーイチは向いている。魔術式を視認できる目を持ち、人間界側の空気を知り、魔界の常識に染まりきっていない。本人は苦労するだろうが、苦労人は苦労の扱い方を知っている。
たぶん、おそらく、そうであってほしいので祈っておこう。
「面談室は第二観察室を使いますか」
「いいえ。普通の会議室」
リリーが答えると、研究員たちは少し意外そうな顔をした。
「観察設備が足りません」
「だからいいのよ」
白銀桐子は研究対象である前に、負傷明けの少女だ。
観察室に入れれば、こちらの意図が前に出すぎる。会議室で、茶を出し、サニーが横で睨んでいるくらいがちょうどいい。
「記録魔導具は」
「一台だけ。本人に見える位置。隠し記録なし」
「隊長、本当にまともです」
「褒め方に棘がある」
「敬意です」
リリーは笑った。
準備表から余計な矢印を二本消す。消しても、頭の中には残る。研究者としての自分は、もっと知りたい。もっと触れたい。もっと深く覗きたい。
だが、順番を間違えれば扉は閉じる。
未知に対して礼を失った者から死ぬ。
それは比喩ではない。
「質問項目、最終版を作るわ」
リリーは紙を引き寄せた。
「七十二問から?」
「二十問にする」
「多いです」
「十五」
「十」
「十二」
「十」
「十一」
研究員たちは顔を見合わせた。
「では、十一で」
「勝った」
「負けたのでは」
リリーは聞こえないふりをした。
好奇心は走りたがっている。
倫理は机の中央に置いた。
サニーは同席する。
桐子本人の同意を待つ。
それでも、未知へ続く扉の前に立っている感覚は消えない。
リリーはペンを持ち直し、面談準備表の一番上に大きく書いた。
本人を壊さないこと。
研究者としては当たり前すぎる一文。
だが、当たり前のことほど、熱に浮かされた時に見落とす。
リリーはその一文を見つめ、満足して頷いた。
「よし。これでサニーに蹴られない」
「そこが基準ですか」
「大事よ。痛いもの」
研究室に、今度こそ小さな笑いが広がった。
その笑いの向こうで、神威という未知は静かに待っている。
リリーはまだ触れない。
けれど、触れる準備は始まっていた。




