EX19
真希の父は、病院の廊下で一人になった。
白い壁、薄い消毒液の匂い、静かに動く搬送機の低い駆動音。窓の外には夜の街が見える。街灯と車の光が、雨も降っていないのに少し滲んでいた。
病室には真希がいる。
目を覚ましたばかりの娘は、まだ疲れていた。医師たちが説明し、黒峰理沙が来て、目の異常について何かを話し、ようやく落ち着いたところで眠った。眠ったというより、体が限界を迎えて意識を沈めたのだろう。
生きている。
その事実だけで、膝の力が抜けそうになる。
父親としては、まずそこに安堵すべきなのだと思う。実際、安堵はあった。胸の奥を締めつけていた手が、ほんの少し緩むような感覚。腹の底に落ちていた冷たい石が、ようやく熱を持ち始めるような感覚。
だが、その安堵の横に、別のものが座っている。
疑問。
怒り。
そして、説明のつかない不気味さ。
真希は、公式試合で傷を負った。
素手の試合だった。
互いに武器を持たず、流派を背負い、技量を示す場だった。打撃、投げ、関節、絞め。危険な技はある。黒峰の技には、試合向けに丸めてなお、相手の身体を壊せるものがいくらでもある。
だから、怪我は起こり得る。
真希が傷を負ったこと自体を、ただ相手のせいにするつもりはなかった。
武術家ならば、傷を負うことがある。
未熟なら、届かないこともある。
娘だからといって、その現実から遠ざけるつもりはない。真希自身も、そんな扱いを望まないだろう。あの子は昔から負けず嫌いで、痛みを他人のせいにするより先に、次にどう勝つかを考える子だった。
だが、今回は違う。
素手の試合で、槍のようなものが出た。
銀の光、観客の悲鳴、倒れる真希。
現場で直接見たわけではない。聞いた話と記録映像だけだ。それでも、あれが通常の事故でないことくらいは分かる。拳が滑った、足が絡んだ、投げの角度が悪かった。そういう話ではない。
白銀桐子が、何かを起こした。
それが何なのか、誰もまともに説明できない。
警察も、医師も、道場関係者も、記録を見た者たちも、言葉を濁した。刃物は見つかっていない。持ち込みも確認されていない。だが、真希の腹部には明らかに貫通創があった。
謎の現象。
そんな言葉で片付けられるなら、父親など要らない。
真希の父は壁に背を預けた。
怒っている。
桐子に対して、怒っていないと言えば嘘になる。
素手の試合であるというルールを破った。その一点は重い。たとえ本人が意図していなかったとしても、試合場で起きたことには責任がある。武の場に立つ者ならば、自分の身体から出るもの、自分の技が及ぼすものを制御しなければならない。
制御できなかった。
それは未熟だ。
だが、怒りはそこまでだった。
真希が傷を負ったことそのものについては、別の感情があった。真希もまた、あの場に立った武術家だ。勝つつもりで立ち、相手を倒すつもりで動いた。相手の破綻を見抜けなかったなら、それは真希自身の未熟でもある。
父としては納得しがたい。
武術家としては、そう考えるしかない。
ややこしい。
父親と武術家が、同じ身体の中で別々のことを言う。
娘を傷つけた相手を責めたい。
同時に、娘が負けた現実を直視しろとも思う。
桐子を許せない。
同時に、桐子に何が起きたのかを知りたい。
あの子は、真希の友人だった。
幼い頃から道場に来ていた。真希と並んで走り、転び、泣き、笑い、殴り合い、また笑った。家族ではない。だが、家族に近い時間を見てきた。
だからこそ、余計に分からない。
桐子は、真希を殺そうとしたのか。
記録映像の中の桐子は、そうは見えなかった。銀の光が走った直後、彼女は自分が何をしたのか分からない顔をしていた。あれは殺意の顔ではない。
だから許す、という話でもない。
何かが起きた。
その何かを、桐子自身も知らなかった。
そして今、桐子は行方不明になっている。
警察による捜索は行われた。関係者への聞き取りも、周辺映像の確認も、できる限りのことは進んでいる。だが、手がかりは途切れている。失踪。そう扱うしかないところまで、話は進んでいた。
真希には、まだすべてを話していない。
目の件があったからだ。
あの目。
父は病室の中で、真希の視線が壁の向こうを追うのを見た。医師が立つ位置、父が握った拳、機械の動き。見えているはずのない角度まで、真希は見ていた。
黒峰の血。
そう言ってしまえば簡単だ。
だが、簡単な言葉ほど危うい。
真希の母のことを、父は思い出さずにはいられなかった。
あの目に近いものを得て、そして壊れた人。
真希が同じ道を辿るとは限らない。限らないが、恐れない理由にはならない。
「お父さん」
背後から声がして、父は振り返った。
医療関係者ではない。黒峰理沙でもない。看護補助用の端末からの通知音だった。面会者ではなく、病室の状態確認を促す機械音声。無機質な声なのに、耳が勝手に娘の声を探してしまう。
父は息を吐いた。
周りに見知った顔はいない。
道場の者も、家族も、真希の友人もいない。廊下の奥を、見知らぬ医師と搬送機が通り過ぎる。世界はこんなにも通常通り動いているのに、自分だけが置き去りにされたようだった。
真希は生きているが、桐子は消え、娘の目は変わった。
何も終わっていない。
父は拳を開いた。
掌には爪の跡が残っていた。無意識に握り込んでいたらしい。
怒りはある。
疑問はもっとある。
そして、父親としての恐怖は、それらよりずっと深いところに沈んでいる。
真希はきっと、桐子を探すと言う。
あの子なら言う。
腹を貫かれたことより、置いていかれたことに怒るだろう。死にかけた自分より、消えた桐子の方を気にするだろう。そういう子に育ったことを誇りに思うべきなのか、頭を抱えるべきなのか、父にはまだ分からなかった。
ただ一つ、決める。
真希が目を覚ました時、嘘はつかない。
言葉は選ぶ。
順番も考える。
だが、桐子が消えたことを、父の都合で隠し続けることはしない。武術家として生きる娘に、現実を伏せて守ったふりをするのは違う。
父は病室の扉へ戻った。
小さな窓から中を見る。
真希は眠っていて、顔色は悪いが、呼吸はある。胸が静かに上下している。
生きている。
その事実を、もう一度胸に入れる。
「未熟だったな」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
真希か。
桐子か。
それとも、何も見抜けなかった自分か。
父は扉の横に立ち、目を閉じた。
怒りは急がなくていい。
まずは、疑問を抱えたまま立っていよう。
真希が次に目を開ける時、そこにいるために。




