EX18
黒峰理沙は、客人が帰ったあとの道場で茶を淹れていた。
湯気が細く上がる。畳にはまだ、斎藤耕一の足跡の気配が残っている。魔界の者にしては隙が多い。戦う者ではないのだから当然だが、それにしても目だけが妙に厄介だった。
普通なら見えないものが見える目。
魔術式という、理沙たち黒峰の者にとっては異物に近い体系を視認する目。
面白い。
理沙は急須を置き、湯呑みを二つ並べた。一つは自分の分。もう一つは父の分だ。
徹心は道場の奥に座っていた。年齢の割に背筋は伸び、眼光は少しも鈍っていない。老いた獣というより、よく手入れされた古い刃に近い。
「帰ったか」
「はい。奥様も一緒に」
「サキュバスの女か」
「ええ。綺麗な方でしたよ」
「お前が言うと、褒めているのか値踏みしているのか分からん」
「両方です」
理沙は素直に答えた。
徹心は茶を受け取り、鼻で笑う。
「それで」
「良い目でした」
「目だけか」
「人柄も悪くありません。お人好しで、危機感が薄くて、妻に尻に敷かれていて、こちらの話を半分くらいしか理解していない顔をしていました」
「悪口か」
「評価です」
理沙は自分の茶を飲んだ。
客人がいる間、耕一はずっと困った顔をしていた。魔界側の治安維持要員として人間界にいるらしいが、戦闘向きではない。人を助ける時に先に体が動く種類の善性があり、その善性のせいで黒峰と関わることになった。
気の毒ではある。
だが、運が悪かったと諦めてもらうしかない。
黒峰は、必要なものを見つけた時に見逃す家ではない。
「目の性質は」
「魔術式の視認。本人は仕組みを深く説明できていませんが、見えるものは本物でしょう。魔界側でも珍しいようです」
「黒峰に取り込めるか」
「可能性はあります」
理沙は淡々と言った。
言ってから、少しだけ笑う。
「ただし、本人にそのつもりはありません」
「本人の意思は大事か」
「大事ですよ。無視すると後始末が面倒です」
「そこか」
「そこです」
徹心は愉快そうに喉を鳴らした。
道場の空気は静かだ。壁には木刀が並び、古い額がかかっている。外から見れば、少し時代がかった武術道場に過ぎない。だが、この場所で磨かれてきたものは、ただの競技でも護身術でもない。
人ならざるものに立ち向かうための暴力。
その詳細を、今日の客人に語る必要はなかった。耕一はまだ入口に立っただけだ。入口で全てを見せれば、普通の者は逃げる。
逃げられても困る。
「あのサキュバスは気づいていたな」
徹心が言った。
「何にです」
「こちらの目当てに」
「気づいていましたね」
サーシャ・クローディア。
落ち着いた笑みを浮かべ、夫の横に立っていた女。媚びはない。だが、自分がどう見えるかは理解している。理沙が耕一に向ける関心にも、徹心がその目をどう見るかにも、たぶん最初から気づいていた。
そのうえで、止めなかった。
面白い女だ。
「あちらも、こちらを見ていました」
「何を欲しがっている」
「さあ。夫の安全か、娘の未来か、家の利益か。それとも全部かもしれません」
「女は欲深い」
「男も大概ですよ」
理沙はにこやかに返した。
徹心は否定しなかった。
しばらく沈黙が落ちる。
道場の外では、夕方の車が通り過ぎていく。人間界の日常は、黒峰の内側で話されていることを知らない。魔界の者が来たことも、神に関する調査が始まりつつあることも、特殊な目を持つ男の血筋が値踏みされていることも。
知らなくていいことは多い。
だが、知らないままでは済まないこともある。
「理沙」
「はい」
「お前はどう見る」
父の問いに、理沙は茶を置いた。
どう見るという問いは、斎藤耕一を見るのか、サーシャを見るのか、それともその先にあるものを見るのかで意味が変わる。
「目は欲しいです」
理沙は正直に答えた。
「ただ、目だけを取りに行くと失敗します。あの人は弱いですが、周りに強いものが多い。奥様も、魔界側の同僚たちも」
「ならどうする」
「関係を作ります」
徹心がこちらを見る。
「血の関係か」
「それが一番分かりやすいですね」
理沙は微笑んだ。
言葉にしてしまうと、ずいぶんひどい話に聞こえる。実際ひどい。黒峰は結構ひどい。目的のためなら常識を少し横へ置くし、倫理は机の端に寄せる。
ただし、雑にはしない。
雑にすれば壊れるからだ。
「私が耕一さんと関係を作る。サーシャさんが父さんと関係を作る。釣り合いとしては、そんなところでしょうか」
「お前、さらっと言うな」
「深刻そうに言えば上品になりますか」
「ならんな」
「では、さらっと言います」
徹心はしばらく黙っていた。
それから、低く笑った。
「サキュバス相手に、老いぼれを差し出すか」
「父さんが負けるとは思っていませんよ」
「勝ち負けの話か、それは」
「黒峰ではだいたい勝ち負けの話になります」
「違いない」
理沙は茶を飲み干した。
コメディのような話だと思う。
実際、外から見れば笑い話かもしれない。怪しい武術家の父娘が、魔界から来た夫婦を前にして、血筋だの関係だのを真顔で相談している。普通の倫理観なら、だいぶおかしい。
普通の倫理観でない自覚はある。
だが、黒峰はそうやって続いてきた。
必要な力を取り込み、磨き、次へ繋ぐ。相手が人であれ、人ならざるものであれ、使えるものを見極める。そこに情がないわけではない。むしろ情があるから面倒になる。
理沙は耕一の困った顔を思い出した。
あの人は、たぶん断りきれない。
妻に押され、理沙に押され、周囲の事情に押され、気づいた時には妙な中心に立っている。そういう星回りの男だ。
気の毒で、面白い男だと思う。
「理沙」
「はい」
「お前、少し楽しんでいるだろう」
「少しではありません」
徹心がまた笑い、理沙も笑った。
道場の空気は穏やかだった。穏やかだからこそ、話している内容の異常さが際立つ。黒峰の家では、こういうことが日常の顔をして進む。
「では、次に会う時はもう少し踏み込みます」
「逃げられんようにな」
「逃げても追います」
「良い」
父は満足げに頷いた。
理沙は湯呑みを片付け、道場の戸締まりを確認する。外の空は茜色に沈んでいた。遠くで子どもの声がする。夕食の匂いも流れてくる。
普通の町。
普通の夕暮れ。
その片隅で、黒峰は次の手を決めた。
理沙は道場の灯りを落とす前に、一度だけ振り返った。
畳に残る客人の気配は、もうほとんど消えている。
けれど、縁は残った。
縁さえ残れば、黒峰は辿れる。




