第7話
列車の外壁は、桐子の知っているものよりずっと厚かった。
駅のホームに入ってきた車両は、電車というより動く装甲板に近い。窓は小さく、ガラスの外側には透明な防護膜のようなものが揺らめいている。扉が開く時も、軽い電子音ではなく、重い金属が噛み合う低い音がした。
「これ、列車なんですか」
「列車」
「装甲車じゃなくて」
「装甲車両ではある」
サニーは当然のように答え、先に乗り込んだ。
桐子は一瞬だけホームに残った。人間界の電車と似ている部分はある。座席があり、吊り革のようなものがあり、車内案内の表示もある。だが、床は分厚く、壁の継ぎ目には衝撃を逃がすためらしい金属の節が走っていた。
街の外に死ぬ場所がある世界では、移動手段までこうなる。
桐子はそう理解し、訓練で痛む脚を引きずりながら車内へ入った。
座席は思ったより柔らかかった。窓の外には、訓練施設のあった町の外縁が見えている。石造りの壁、魔導具の灯り、遠くの森。少しずつ景色が流れ始めると、自分が本当に移動しているのだと実感した。
車内には、桐子たち以外の乗客もいた。
商人らしい男、家族連れ、制服を着た若者、軍属と思しき二人組。誰も特別に緊張していない。分厚い壁も、小さな窓も、防護膜も、彼らにとっては日常の一部なのだろう。
桐子だけが、座席に深く腰掛けても肩の力を抜けずにいた。
「食べなさい」
向かいの席に座ったサニーが、紙包みを渡してきた。
温かい。
包みを開くと、濃いタレの匂いが広がった。白い穀物の上に、焼いた肉が厚めに並べられている。表面には焦げ目がつき、脂が光っていた。
「弁当」
「見れば分かります」
「魔猪の焼肉」
桐子の手が止まった。
「まちょ」
「魔獣の猪」
「魔獣」
「昨日の狼っぽいやつとは別種。肉は食える」
説明は簡潔だった。
桐子は肉を見下ろした。匂いはどうしようもなく美味しそうだった。一週間の訓練で身体は常に空腹に近く、胃はすでに食べ物を求めている。
だが、魔獣という言葉が引っかかった。
あの森で見た獣の黒い血と、いま目の前にある照りのついた肉が、同じ世界のものとして繋がらない。
「食肉用なんですか」
「基本は討伐個体の流通。危険区域の間引きで出たやつを、検査通して食えるものだけ回す」
「合理的ですね」
「食べ物を捨てる余裕がある世界じゃない」
サニーの言葉は淡々としていた。
魔獣は危険で、殺される。殺された後、食べられるものは食べられる。そこには残酷さだけでなく、生活があった。
「嫌なら残せば」
サニーは自分の弁当を開けて、何のためらいもなく肉を口に運んだ。
桐子は箸を持った。
食べなければ動けない。サニーはいつもそういう言い方をする。生きるために必要なことは、気持ちが追いつかなくてもやるしかない。
小さく切った肉を口に入れる。
美味しかった。
悔しいほどに。
甘辛いタレと香ばしい脂が舌に広がり、噛むたびに肉汁が出る。獣の肉という響きから想像した臭みはなく、むしろ人間界で食べていた焼肉弁当より力強い味がした。
「美味しいでしょ」
「……美味しいです」
「素直でよろしい」
サニーは少しだけ満足そうだった。
列車は速度を上げた。
壁の内側に沿ってしばらく進むと、やがて景色が開けた。線路は森と荒地の境を縫うように伸びている。ところどころに防護柵の残骸らしいものがあり、魔導具の光が一定間隔で点滅していた。
「この辺も危険区域なんですか」
「路線内は管理区域。外はだいたい危険」
「完全には防げないんですか」
「防げたら装甲にしない」
その答えは正しい。
正しいが、嫌だった。
桐子は弁当へ視線を戻し、もう一口食べた。食べながら、窓の外を見ないようにする。そうしていると、人間界の電車に乗っている時と少しだけ似ていた。違うのは、車体の重さと、外の景色に人の気配がないことだった。
その時、車両が大きく揺れた。
音が遅れて来た。
鈍い衝撃が腹に響き、窓の外で何か巨大なものが弾けた。黒に近い赤が防護膜へ広がり、すぐに流れていく。肉の塊のようなものが一瞬だけ窓を塞ぎ、次の瞬間には後方へ飛ばされた。
桐子は箸を持ったまま固まった。
車内の照明が一度だけ明滅した。天井の表示に警告らしい文字が流れ、穏やかな合成音声が状況を告げる。
「前方確認。小型魔獣との接触を確認。走行に支障なし」
乗客たちは、ほとんど騒がなかった。
近くの席の男が少し顔を上げ、また新聞のような薄い端末へ視線を戻す。通路を挟んだ女性は、膝の上の子どもの頭を撫でただけだった。子どもも泣かない。
車両の奥から、清掃用の小さな魔導具が滑るように出てきた。窓の外側へ薄い光が走り、防護膜に残った赤が端から削られていく。乗務員らしい女性が通路を歩き、乗客の様子を確認しているが、その表情にも焦りはなかった。
事故ではある。
だが、異常ではない。
よくあることなのだ。
そう分かって、桐子の胃が重くなった。
「今の」
「魔獣」
サニーは弁当を食べ続けていた。
「小型って言いました?」
「列車が止まらなかったから小型」
「大きかったです」
「あれで止まるなら困る」
桐子は窓を見た。
防護膜に残った赤い筋は、風に削られるように薄くなっていく。外では何事もなかったように森が流れている。車輪の音も変わらない。
ここでは、移動中に魔獣がぶつかって死ぬ。
そして列車は止まらない。
弁当の肉の匂いが、急に重くなった。目の前にある魔猪の焼肉は、さっき窓の外で弾けたものと同じく、魔界の生き物だった。人に襲いかかるもの。食べられるもの。列車に跳ね飛ばされるもの。
分類の仕方が、人間界とは違う。
命の距離が、近すぎる。
人間界でなら、電車が動物を跳ねただけでも車内はざわつくだろう。遅延の放送が入り、誰かが眉をひそめ、誰かがスマートフォンで情報を探す。少なくとも、弁当を食べ続ける空気にはならない。
ここでは違う。
死は窓の外で弾け、放送は淡々と処理を告げ、乗客は予定を変えない。
「気持ち悪いなら、無理に食べなくていい」
サニーが言った。
からかう声ではなかった。
桐子は箸を置きかけた。だが、胃の奥はまだ食べ物を求めている。身体は正直だった。怖くても、気持ち悪くても、動くための熱を欲しがっている。
そのことがまた、少し嫌だった。
「食べます」
桐子は言った。
声は硬かった。
サニーは何も言わなかった。
止めもしない。褒めもしない。
ただ、その選択を桐子のものとして扱った。
桐子は肉を一切れ持ち上げ、口に入れた。さっきと同じ味がする。美味しい。美味しいからこそ、窓の外の赤が消えない。
異界に来た。
魔法があるからではない。魔獣がいるからでもない。人が普通に暮らし、普通に食べ、普通に移動し、そのすぐ横で死が弾けても列車が止まらないから、ここは異界なのだ。
桐子は飲み込んだ。
喉を通る肉の熱が、やけに生々しかった。
「王都までは?」
「もう少し」
サニーは窓の向こうを顎で示した。
森の切れ間の先に、遠く高い壁が見えた。重厚な石造りの外郭と、その内側に並ぶ灯り。人間界の都市のようで、どこか違う輪郭。
王都セレスタリア。
桐子がこれから放り込まれる場所が、ゆっくりと近づいていた。




