EX16
サーシャ・クローディアは、朝の光がカーテンの隙間から差し込む前に目を覚ました。
人間界の朝は、魔界より少し乾いている。窓の外では車の音が薄く流れ、近くの店がシャッターを上げる金属音も聞こえた。魔力で動く都市の呼吸とは違う。電気と燃料と、慌ただしい人間たちの足音で組み上げられた朝。
サーシャはベッドから起き上がり、隣を見た。
耕一は寝ている。
昨夜遅くまでリリーからの依頼書と、人間界側の伝承記録を睨み合っていたせいで、眉間に少し皺が残っていた。寝ている時まで苦労人の顔をしているのは、もはや才能だと思う。
サーシャはその眉間を指先で軽く押した。
「ん……」
耕一が少しだけ顔をしかめる。
「難しい顔は、寝ている時くらいやめなさい」
返事はない。
それでいい。起こすつもりはなかった。
サーシャは静かに寝室を出て、小さな台所へ向かった。事務所兼住居として使っている場所は、決して広くない。仕事用の机、資料棚、魔界行政側から支給された偽装用の書類箱、子どもの玩具、保存食、絵本。生活と仕事が同じ空間に押し込められている。
けれど、サーシャはこの雑然とした部屋を嫌いではなかった。
クローディア家の屋敷は整いすぎていた。古くからシュヴァリエ家に仕えてきた家らしく、廊下の花瓶一つにも意味があり、窓の向きにも格式があった。そういう美しさを否定する気はない。だが、この部屋には、意味より先に生活がある。
昨日読んだ絵本が床に落ちている。
耕一の上着が椅子の背にかかっている。
ルチアの靴下が片方だけ机の下にある。
美しくはない。
愛おしい。
サーシャは湯を沸かし、朝食の準備を始めた。
人間界の食材は面白い。魔界と似たものもあれば、まるで違うものもある。パン、卵、野菜、果物。味だけなら魔界の方が濃いものも多いが、人間界の食べ物には流通と季節の癖がある。土地ごとの差も大きい。
ローザが人間界で料理の話ばかりしていたと聞いた時、サーシャは少し笑ってしまった。
あの人なら、そうするだろう。
重い話だけでは人は潰れる。美味しいものの話は、罪悪感の横に置ける数少ない日常だ。
「ママ」
背後から小さな声がした。
ルチアが眠そうな顔で立っている。髪は跳ね、片手にはぬいぐるみ。もう片方の手で目をこすっていた。
「おはよう、ルチア」
「パパは」
「まだ寝ているわ」
「おしごと?」
「昨日、少し遅かったの」
ルチアは考えるように首を傾げた。
「リリーのおばちゃん?」
「リリー様」
「リリーさま」
「そう。礼儀は大事よ」
「こわい?」
「怖くはないわ。少し、夢中になると周りが見えなくなるだけ」
「それ、こわい」
サーシャは笑った。
たぶん正しい。
ルチアを椅子に座らせ、温めたミルクを渡す。娘は両手でカップを持ち、ふうふうと息を吹きかけた。サキュバスの血を引いているとはいえ、今はただの幼い子どもだ。世界の難しい事情より、熱いミルクの方が大問題である。
その方がいい。
少なくとも今は。
端末が控えめに鳴った。
サーシャは朝食の皿を並べながら表示を確認する。
差出人はカーラだった。
歳の離れた妹。クローディア家に残る、まだ柔らかい枝のような子。もうすぐ養成所に入る。サーシャたちよりずっと後の世代であり、桐子たちの一つ下になる予定だった。
件名は、朝から大仰だった。
養成所入校に関する重大な近況報告。
サーシャは目を細める。
本文を開くと、真面目な挨拶のあとに、制服の採寸がどうだったとか、寮生活に必要なものを何から揃えるべきかとか、訓練について家の者が脅しすぎではないかとか、年相応の不安が並んでいた。
そして最後の方に、少しだけ筆致の違う一文があった。
幼い頃に一度だけ会った、シュヴァリエ家のクロエ様も養成所にいらっしゃると聞きました。あの方は、私のことを覚えているでしょうか。
サーシャはそこで手を止めた。
「カーラ?」
いつの間にか耕一が起きてきていた。髪が少し乱れている。眼鏡を探しているのか、目元を細めていた。
「ええ。入校前の不安と、少しの憧れ」
「クロエのことか」
「あなた、画面を見ていないのによく分かったわね」
「お前の声が変わった」
そういうところがある。
耕一は鈍いようで、妙なところを拾う。魔術式が見える目のせいだけではない。苦労人として周囲の機嫌を読む癖が、変な方向に育っている。
サーシャは端末を閉じた。
「クロエ様は、今それどころではないでしょうね」
「西部領の件か」
「ええ」
十一年前の騒動で、クローディア家とシュヴァリエ家の距離は少し変わった。仕えてきた家。離れざるを得なかった家。関わりたいのに、関われば余計に傷を広げるかもしれない家。
サーシャ自身も、その距離を正しく測れている自信はない。
だが、カーラの世代には、また別の距離が生まれるかもしれない。
養成所で出会い直す。
それは悪くない。
問題は、今年の養成所がかなり騒がしくなりそうなことだった。
「カーラちゃん、特別クラスに近づくと大変そうだな」
「近づくかもしれないわ」
「止めないのか」
「止めたら余計に気にするでしょう」
「それはそう」
耕一はルチアの隣に座り、娘の皿から果物を一切れ取ろうとして手を叩かれた。
「パパの、あっち」
「はい」
父親の威厳は朝食の果物一切れにも負ける。
サーシャはその光景を見ながら、返信文を考えた。
カーラの性格を強く決めつける必要はない。あの子はまだ変わる。養成所で会う人、学ぶこと、失敗、怪我、友人。そういうものが、これから彼女の形を作っていく。
だから、今送るべき言葉は多すぎない方がいい。
不安は当然のこと。
必要なものは送ること。
クロエ様のことを気にしているなら、まずは礼儀を守り、相手の事情を急かさないこと。
そして、怖くても食事と睡眠を削らないこと。
サーシャはそこまで打って、少し考えた。
最後に一文を足す。
クローディア家の子としてではなく、あなた自身として会いなさい。
「いい姉だな」
耕一が言った。
「今ごろ気づいたの?」
「前から知ってる」
「そう」
サーシャは満足して返信を送った。
端末を伏せると、朝食の香りが部屋に戻ってくる。卵、焼いたパン、果物、温かいミルク。世界の裏側では、神だの魔術式を介さない異常現象だの、不穏な言葉が動き始めている。
それでも朝は来る。
ルチアは果物を守り、耕一は眠そうな顔で茶を飲み、サーシャは妹の心配をしながら皿を並べる。
こういう朝を守るために、面倒な仕事がある。
そう思えば、リリーの依頼も少しは許せる気がした。
少しだけだが。
「耕一」
「何だ」
「今日は早めに帰ってきて」
「努力する」
「努力ではなく、予定として」
「……予定として、早めに帰る」
「よろしい」
サーシャは微笑み、夫のカップに茶を注ぎ足した。
人間界の朝は、今日も少し乾いている。
けれど、この部屋の中だけは、魔界にも人間界にも属しきらない温度で満ちていた。




