EX15
リーゼロッテは、四つの死体を前にして袖をまくった。
行政区の執務室は、血の匂いで満ちている。床には自分の首が転がり、机の横には胸を裂かれた自分が倒れ、窓際には腹を開かれた自分が血溜まりを作っている。壁際の体は喉を貫かれたまま、まだ目を開けていた。
なかなか派手にやったものだ。
サニーらしい、とリーゼロッテは思った。
怒りを言葉にしすぎない。必要なだけ告げて、必要なだけ殺す。過不足がない。ああいうところは昔から変わらない。変わらないものを見ると、リーゼロッテの胸の奥に、少しだけ痛みに似たものが生まれる。
痛みなら、まだよかった。
痛みは終わる。
これは終わらない。
リーゼロッテは机の上の書類をまとめ、血の付いたものと無事なものを分けた。血痕がついた書類のうち、再発行できるものは処分。再発行が面倒なものは、乾かしてから写しを取る。行政は死体が増えたくらいでは止まらない。
止まらないようにしてしまったのは自分だ。
部屋の鍵は内側からかけてある。外の廊下には人払いをしている。不滅の魔女であることを知る者は少ない。知っている者でさえ、日常的に死体が増えるところまで見せる必要はない。
魔王は死なない。
そういう噂なら利用価値がある。
だが、魔王が死体を残して次の体で立つという事実は、扱いを誤れば政務どころでは済まない。信仰、恐怖、野心、研究欲。余計なものがいくらでも群がる。
だから、後始末は自分でする。
リーゼロッテは首のない体のそばへしゃがんだ。
体温はまだ残っている。死体というより、今しがた使い終えた衣服に近い。指を胸元へ滑らせ、肉の奥にある硬い核を探る。
魔石。
魔族の命の中心。
そして自分の場合は、もっと質の悪いもの。
指先に魔力を通す。切開は最小限でいい。自分の体だ。どこに何があるかは嫌でも分かる。
肉を開き、白く濁った魔石を取り出す。
死体から採れたそれは、オリジナルではない。自分の中核は今も生きている体の奥にある。ここに残るのは、死のたびに剥がれ落ちる副産物。死ねない女の、余剰。
人はそれを不滅の魔石と呼ぶ。
研究者は破壊不能の素材として扱い、権力者は秘宝として欲しがり、愚かな者は死を超える夢を見る。
リーゼロッテは、取り出した魔石を封印容器へ入れた。
一つ目。
続けて二つ目に移る。
胸を裂かれた死体は処理が楽だった。サニーの銀閃は鋭い。必要な場所まで、綺麗に道を作ってくれている。そんなことを考えて、リーゼロッテは少しだけ笑った。
褒めればサニーは怒るだろう。
それもまた、変わらない。
ローザの分、クロエの分、西部領の領民の分、そしてサニー自身の分。
あの子は、きちんと数えた。
数えたうえで殺した。
それは優しさなのか、怒りの正確さなのか。リーゼロッテには判別がつかない。判別がつかないことが、少しだけ羨ましかった。
自分はもう、多くのものを数え間違えている。
誰の痛みがどこにあったのか。
誰の怒りをいつ踏んだのか。
娘の顔さえ、思い出せない。
名前よりも役割ばかりが残り、声の輪郭は薄れていく。あれほど一緒にいたはずなのに、記憶は不出来な絵のように滲み、肝心なところだけ剥げ落ちている。
リーゼロッテは二つ目の魔石を容器へ入れた。
音は小さい。
小さい音ほど、長く残る。
三つ目の死体から魔石を取り出す時、ふとサニーの言葉が戻ってきた。
生きてさえいれば、何とかなることはある。
良い言葉だ。
明るく、強く、生きている者の言葉。
だからこそ、吐き気がする。
生きていれば何とかなる。
その言葉が届く者は、まだ生きることを前提にできる者だ。明日が今日と違うかもしれないと信じられる者だ。傷が塞がり、時間が流れ、忘れられることを救いとして受け取れる者だ。
リーゼロッテには、その前提がない。
明日は来る。
明後日も来る。
百年後も、千年後も、来る。
来てしまう。
終わりがない。
忘れることはできる。実際、忘れている。娘の顔も、古い友人の声も、守りたかったはずの小さな約束も、指の間から砂のように落ちていった。
だが、忘れたから楽になるわけではない。
忘れたことだけが残る。
何を失ったかも分からないまま、失ったという穴だけがある。
リーゼロッテは三つ目の魔石を容器へ収めた。
最後の死体は、喉を貫かれていた。
壁に付いた血を見て、少し考える。張り替えるべきか、術式で染み抜きをするか。来客の予定は明後日だったはずだ。なら、今夜中に清掃を済ませればいい。
そう判断している自分が、リーゼロッテには少しおかしかった。
自分の死体を前にして、壁紙の心配をしている。
壊れている。
自覚はある。
自覚があっても、直るわけではない。
四つ目の魔石を取り出す。封印容器の中に並んだそれらは、見た目だけなら美しい鉱石だった。薄い光を抱え、傷一つなく、死の匂いを表面に出さない。
だから人は欲しがる。
死体から剥ぎ取ったものだと知っても、欲しがる者は欲しがる。むしろ、その由来に価値を見出す者さえいる。
リーゼロッテは容器に封印を施した。
自分だけが所在を知る保管庫へ送る。ここで採れたものが、すぐにどこかの事件へ使われるわけではない。魔神教団に流れていた不滅の魔石は、旧魔法研究所から横流しされたものか、あるいはリーゼロッテ自身が保管庫から意図的に流したものだ。長い時間の中で、少しずつ持ち出され、研究され、盗まれ、崇められ、悪用されている。
自分の死にたいという願いが、他人の死なない夢に化けていく。
笑えない冗談だ。
リーゼロッテは死体の処理に移った。
身元が割れないよう、顔を潰し、魔力反応を消し、骨格の特徴を崩す。自分の顔を壊す作業にも、今さら抵抗はない。顔とは何だろう、と一瞬思う。娘の顔を思い出せない自分にとって、顔とは何を繋ぎ止めるものだったのか。
考えても無駄だった。
手は止めない。
四つの死体が、ただの処理対象へ変わっていく。
血を拭い、床を洗い、壁の染みを術式で抜く。窓を少し開け、匂いを逃がす。夜風が入ってきた。王都の夜は西部領の海風より乾いている。
机の上には、処理を免れた書類が残っていた。
明日の会議資料。
地方軍からの報告。
養成所の緊急集会に関する回覧。
リーゼロッテは手を洗い、袖を戻した。
鏡を見る。
そこにはいつもの魔王がいた。
金の髪。
青い瞳。
誰かに似ていたはずの顔。
誰に似ていたのか、もうよく分からない顔。
「生きていれば、か」
呟きは誰にも届かない。
届かなくてよかった。
リーゼロッテは封印容器を持ち、隠し扉の奥へ向かった。保管庫へ繋がる小さな転送路は、魔王だけが扱えるよう調整してある。余計な者に触れられない場所。余計な者に触れさせてはいけない場所。
容器が転送される。
光が消える。
また一つ、死に損ないの証拠が積まれた。
リーゼロッテは執務室へ戻り、何事もなかったように椅子へ座った。
書類を一枚取る。
署名欄に目を落とす。
ペンを持つ手は震えていなかった。
それが、いちばん壊れている証拠のように思えた。




