EX14
ローザ・シュヴァリエは、応接室に残された冷めた茶を見ていた。
サニーが王都へ向かったあと、部屋の中は急に広くなった。椅子は二脚しか使われていない。机の上には、手をつけられないまま冷えた茶が二つ。窓の外では西部領の海が鈍く光り、崖下から吹き上がる風が、戦闘の匂いを少しずつ薄めている。
疲れてはいなかった。
疲れている暇などない、という方が近い。
身体は動く。頭も回る。クロエの執務室には報告が集まり、領内各地の被害確認と教団残党の掃討、旧使用人の復帰手続き、死亡者と行方不明者の照合が待っている。十一年ぶりに戻った城は、懐かしむ場所ではなく、片付けなければならない現場だった。
それでも、ローザの足はすぐには動かなかった。
胸の奥で、いくつもの感情が互いにぶつかっている。
クロエ、西部領、サニー、リーゼロッテ。
どれか一つを掴もうとすると、別の感情が横から噛みついてくる。母として娘を抱きしめたい。領主の母として城の混乱を収めたい。友としてサニーを止めたい。かつての戦友としてリーゼロッテを問い詰めたい。だが、そのすべてを同時にはできない。
ローザは指先で茶器の縁に触れた。
冷たい。
十一年という時間は、冷えた茶よりずっと扱いにくい。
「……怒っているのよね、私」
声に出してみると、言葉はひどく薄く聞こえた。
怒っている。
そんな一語で足りるはずがない。
クロエを置いていった自分への怒り。そうするしかなかった状況への怒り。あの子が母の死を背負い、強くあろうとして、孤独に耐えていたことへの怒り。西部領の人々を盤面に乗せたリーゼロッテへの怒り。計画だと分かっていながら、その盤面に乗った自分への怒り。
そして、サニーにまで傷を残したことへの怒り。
あの子は、昔からそうだった。
自分が背負えると思ったものを、無造作に背負う。重いとも苦しいとも言わず、限界を越えたあとでようやく少し荒れる。幼い頃のサニーがローザの家に預けられ、リリーと三人で過ごしていた頃から、その性質は変わっていない。
違うのは、背負ったものの重さだけだ。
ローザは目を閉じた。
サニーに言わせてしまった。
殴りに行く、と。
止めなかった。
止める資格が自分にあるとは思えなかった。
リーゼロッテに怒るべきなのはサニーだけではない。ローザにも怒る権利はある。クロエにも、西部領の領民にもある。けれど、サニーの怒りはそこへ自分自身の十一年分を混ぜていく。ローザを守れなかったと、あの子はずっと思っていた。死んだはずの先輩を弔い、守れなかったものの一つとして心のどこかに置いてきた。
その傷に、自分は生きて戻ってきた。
生きていたのだから喜べばいい。
そんな単純な話ではない。
生きていたという事実は、救いにもなるし、裏切りにもなる。
ローザは立ち上がり、窓辺へ向かった。
海が見える。
この城は海沿いの崖上に建っている。吸血鬼の遺灰を風に乗せ、海へ返すための場所。死者を遠くへ送る風景。ローザは十一年前、自分が送られる側になったことにした。灰になれない体を残し、死んだ領主として語られることを選んだ。
クロエは、その嘘を信じて育った。
領民も同じだ。
死んだ領主の名は、便利に美しくなる。失敗は語られにくくなり、迷いは消え、勇敢だった瞬間だけが磨かれて残る。ローザ・シュヴァリエは、十一年の間に生身の母ではなく、誇るべき死者になってしまった。
その死者が、今さら戻ってきた。
娘はどう受け止めればいいのか。
西部領はどう扱えばいいのか。
ローザ自身でさえ、まだ答えを持っていない。
扉の外を、誰かが急ぎ足で通った。
クロエの声ではない。旧使用人の一人だろう。廊下に戻ってきた足音には、この城を知る者特有の迷いのなさがある。古い音が戻り始めている。それは良いことのはずだった。
なのに、ローザは胸が痛んだ。
戻ってきたものがあれば、戻らないものも数えなければならない。
失われた十一年、死んだ者、歪められた者。
クロエが泣けなかった夜。
自分が人間界で食事をし、市場を歩き、時には楽しいと思ってしまった日。
生きるとは、そういうことだ。
どれほど大きな罪悪感を抱えていても、腹は減る。美味いものを食べれば少し気が緩む。異国の市場で並ぶ果物の色に目を奪われる日もある。海辺の街で笑う人々を見て、ほんの一瞬、自分が逃亡者であることを忘れることもあった。
そのたびに、クロエを思い出した。
西部領を思い出した。
思い出して、それでも生きた。
ローザは自分の掌を見た。
領主だった手であり、母だった手であり、逃亡者だった手でもある。
今は、戻ってきた者の手。
どの手も同じだ。綺麗に切り分けることはできない。
「クロエ」
名前を呼ぶが、返事はない。
当然だ。娘は今、執務室にいる。たぶん、無理をして背筋を伸ばしている。ローザの娘だからではない。クロエ・シュヴァリエ自身が、そういう子だからだ。
誇らしい。
痛ましい。
その二つは、同じ場所に立っていた。
ローザはもう一度椅子へ戻った。サニーが座っていた椅子を見る。あの子は王都でリーゼロッテと会う。怒りをぶつける。殺すかもしれない。殺しても、きっと終わらない。
リーゼロッテは死なない。
その事実を、ローザは知っている。正確な仕組みまでは知らない。知る必要もなかった。ただ、あの女の異常な在り方を、長い付き合いの中で薄々理解していた。
死ねない者。
終われない者。
だからといって、人の人生を盤面にしていい理由にはならない。
ローザは茶器を持ち上げた。
冷めた茶を一口飲む。
苦味が舌に残り、不味いと思ったが、それでも飲み込める。
飲み込めるものは、飲み込まなければならない。
怒りも。
後悔も。
娘に許されたいという身勝手な願いも。
すぐに答えは出ない。十一年分の感情が、一日で整理できるはずがない。クロエもそうだ。ローザもそうだ。西部領も、サニーも、たぶんリーゼロッテでさえ、何かを整理できないままここまで来ている。
だから、今日できることをする。
ローザは席を立った。
まずはクロエのところへ行く。領主の席に座る娘の隣で、何も奪わず、何も代わらず、必要な時だけ支える。
母としては遅すぎる。
けれど、戻ってきた。
その事実だけは、もう嘘にしない。
扉を開ける直前、ローザは応接室を振り返った。
冷めた茶が一つ残っている。
サニーの分だ。
「帰ってきたら、温かいのを淹れ直すわ」
誰に聞かせるでもなく呟いて、ローザは廊下へ出た。




