第38話
養成所の大講堂に集められた時、桐子は空気の重さで緊急の用件なのだと分かった。
まだ二年目開始時の挨拶には早い。夏季休暇も完全には終わっておらず、寮に戻っていない生徒もいるはずだった。それでも大講堂には、王都にいる生徒たちが可能な限り集められている。私語は少なく、並んだ椅子の列には、いつもの訓練前とは違う硬さがあった。
西部領の事件。
その言葉だけで、桐子の身体はまだ少し強張る。
隣にはアイギスが座り、少し離れた席にはクロエがいた。クロエは背筋を伸ばして前を向いている。西部領の次代としての顔だった。けれど、桐子には、その横顔が以前より遠くなったようには見えなかった。
舞台上に立ったのは、ステラ・アージェントだった。
銀髪に赤い瞳。サニーとよく似ているのに、まとう空気はまったく違う。サニーが雑に場を制圧する人だとすれば、ステラは整った秩序そのもののようにそこに立つ。制服の皺一つ、視線の配り方一つまで、養成所全体の背筋を伸ばすために存在しているようだった。
「急な招集となったことを、まず詫びます」
ステラの声は大講堂の奥までよく通った。
「西部領において発生した魔神教団残党による蜂起は、魔王軍および西部領側の対応により、一応の終結を迎えました」
一応の。
その言葉が、桐子の耳に残る。
終わった、と言い切らなかった。
「領都中心部、シュヴァリエ城、外縁部の葡萄畑、港湾区、領境に至るまで複数箇所で同時に騒乱が発生しました。第七班を中心とした遊撃対応、西部領側の防衛、現地部隊の協力により、現在は主要な戦闘行為を停止させています」
ステラは淡々と説明した。
教団、魔法無効化装置、改造兵。表に出せる言葉だけが選ばれているのだと、桐子にも分かった。西部領で実際に見た暗闇や、ルシアンの黒く変質した姿や、神の槍のことは語られない。ローザが生きていたことも、簡潔な事実として扱われるだけだった。
だが、軽く扱われているわけではない。
ステラの言葉は、余計な感情を乗せないぶん、逃げ場を作らなかった。
「今回の事件により、西部領は長く続いていた過去の歪みと向き合うことになりました。魔神教団は過去の災厄の残滓であり、同時に、現在もなお現実の脅威として存在しています」
講堂のあちこちで、生徒たちが息を呑む気配がした。
魔神教団。
授業で習う名前だった。
歴史上の危険思想。魔神災害の残り火。そういう、少し遠いものとして扱われていた名前。それが今、同年代の生徒が巻き込まれた事件として語られている。
遠い過去ではなく、今の話だった。
「皆さんは、まだ養成所の生徒です」
ステラは続ける。
「しかし、ここで学ぶ以上、いずれ魔王軍、各領、あるいはそれぞれの立場で、同じような脅威と向き合う日が来ます。今回の事件は、特定の領地だけの問題ではありません。私たち全員が、これからの時代に何を背負うのかを示すものでもあります」
その言葉に、桐子は手を握った。
これからの時代。
その中に、自分も入っている。
未来から来た自分が、過去の魔界でこれからの時代を担う。変な話だ。けれど、もう他人事ではなかった。
魔法なんて使えなければよかったのに。
そう思っていた自分を、桐子はまだ覚えている。
警察署からの帰り道。知らない女に飛ばされた瞬間。魔界で目覚めた時。武具創造が歪な塊にしかならなかった頃。真希を刺した銀の槍の記憶が、自分の手を呪いのように縛っていた。
今でも、完全に消えたわけではない。
真希を刺した事実は消えない。
ルシアンを殺した事実も消えない。
西部領で握った神威の槍が何だったのかも、まだ分からない。
それでも、少しだけ変わった。
力があることそのものではなく、向ける先を選べなかったことが、自分の罪の中心にある。なら、これから学ばなければならないのは、力を消す方法ではない。力を知り、選び、必要な時に止める方法だ。
ステラの視線が、講堂をゆっくり渡った。
一瞬だけ、その目がサニーの方へ向いた気がした。
サニーは講堂の壁際に立っていた。いつものように、だるそうに腕を組んでいる。けれど、ステラの視線がそこへ触れた瞬間、桐子は何か引っかかるものを覚えた。
それが何なのかは分からない。
責任か、心配か、後悔か。どれも違う気がしたし、どれも少しずつ合っている気もした。ステラの顔は整ったままだ。サニーも何も言わない。ただ、二人の間に、桐子の知らない古い何かが一瞬だけ通ったように見えた。
想像はできなかった。
だから、桐子はそれ以上追わなかった。
「今回、実地研修中だった特別クラスの生徒が事件対応に関わりました」
ステラの言葉に、講堂の空気が少し動く。
桐子は背筋を伸ばした。
名前は出されない。
だが、誰のことか分かる者には分かる。視線がいくつかこちらへ向いた。好奇心、驚き、警戒、尊敬とも疑念ともつかないもの。桐子はそれを受け止めきれず、少しだけ膝の上の手を強く握った。
「彼女たちは、それぞれの立場で最善を尽くしました。しかし、それは英雄的な武勇談として消費されるべきものではありません。戦場に立つとは、傷つくことです。選ぶことです。選んだ結果を背負うことです」
桐子の胸に、言葉が落ちた。
選んだ結果を背負うこと。
ルシアンの顔が浮かぶ。
クロエの声が浮かぶ。
真希の腹を貫いた銀の光が浮かぶ。
全部が同じではない。けれど、全部が自分の中にある。
「養成所は、皆さんに力を与える場所ではありません」
ステラは言った。
「既にある力、これから得る力を、どこへ向けるかを学ぶ場所です」
講堂は静まり返っていた。
桐子は息を吸い、魔法、黒峰流、神威という言葉を胸の内で並べた。自分の中にあるものと、外から借りたもの。
まだ答えはない。
それでも、答えがないから逃げるのではなく、答えを探すためにここにいるのだと思えた。
「西部領の事件は、一応の終結を迎えました」
ステラの声が、再び講堂を満たす。
「ですが、完全に終わったわけではありません。教団残党の全容、使用された装置の出所、背後関係の調査は続きます。これから先、皆さんが学ぶ日々もまた、これまでより軽いものではなくなるでしょう」
誰も笑わなかった。
誰も茶化さなかった。
ステラは静かに頭を下げた。
「それでも、学びなさい。備えなさい。隣に立つ者を見失わないように」
その言葉で、緊急集会は締められた。
解散の指示が出ても、すぐには誰も立ち上がらなかった。椅子の軋む音が少しずつ広がる。生徒たちは小声で話しながら講堂を出ていく。
桐子も立ち上がろうとして、クロエと目が合った。
クロエは何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
桐子も頷き返す。
アイギスが隣で静かに息を吐いた。
「重い話だった」
「はい」
「だが、必要な話だった」
「そうですね」
三人で講堂を出ようとしたところで、壁際にいたサニーがこちらへ歩いてきた。
嫌な予感がした。
桐子だけでなく、アイギスもクロエも、同時に足を止めた。
「いい話だったわね」
サニーは言った。
その声はいつも通りだった。重い集会の後にしては、妙に軽い。
「感動したところで、明日から訓練再開」
「明日から?」
桐子は思わず聞き返した。
「ええ。西部領で分かったでしょ。あんたたち、まだまだ足りない」
「怪我人です」
「怪我人用の訓練にしてあげる」
その言い方が一番怖い。
クロエが微妙に顔を引きつらせ、アイギスが静かに覚悟を決めたような目をした。
「ちなみに、怪我人用とは」
アイギスが尋ねる。
「死なない範囲」
「通常時との差が分かりません」
「通常時より優しいわよ。たぶん」
「たぶん」
桐子の声が漏れた。
サニーはにやりと笑う。
「安心しなさい。あんたたちが背負う時代は重いけど、足腰が弱いと背負う前に潰れるから」
「比喩ですよね」
「半分くらい」
クロエが小さくため息をついた。
「本当に、あなたの教え方は乱暴ね」
「生き残るにはちょうどいいの」
サニーはそう言って、講堂の出口へ向かう。
「遅れたら倍」
「明日ですよね?」
「今から準備運動」
「今から!?」
思わず声が大きくなり、近くの生徒がこちらを見た。
重かった空気が、ほんの少しだけほどける。笑っていい場面なのか迷うような、けれど確かに日常へ戻るための隙間ができた。
桐子は肩の痛みを思い出しながら、それでも歩き出した。
西部領の事件は終わっていない。
真希のことも、神威のことも、リーゼロッテのことも、分からないままだ。
けれど、今はここにいる。
隣にはアイギスがいて、少し先にはクロエがいる。前には、雑で乱暴で、それでも生き残らせるために手を伸ばす教官がいる。
力をどこへ向けるのか。
その答えは、まだ出ない。
答えが出るまで、足を止めない。
桐子は大講堂の扉をくぐり、王都の明るい空の下へ出た。




