第37話
リリー・セヴァライドは、白銀桐子が研究室へ入ってきた瞬間、椅子から立ち上がりかけた。
正確には、立ち上がりかけたところで肩を掴まれた。
「座ってなさい」
サニーの声が背後から落ちる。
リリーは不満を込めて振り返った。
「まだ何もしてない」
「しそうだったから止めたの」
「信用がない」
「あるわよ。信用してるから先に止めてる」
ひどい理屈だった。
だが、サニーが同席している理由は分かっている。白銀桐子は西部領で負傷し、戦場で人を殺し、さらに本人にも理解できていない力を発現させたばかりだ。研究者が目を輝かせて突っ込んでいい相手ではない。
理屈では分かる。
理屈では。
「白銀桐子です」
少女が少し緊張した顔で頭を下げた。
黒髪。黒い瞳。身体はまだ完全には戻っていない。肩の動かし方に庇う癖が残り、歩幅も少し慎重だ。だが、目は逃げていなかった。
リリーはその目を見て、少しだけ姿勢を正した。
「リリー・セヴァライドよ。第3班の隊長をしているわ。今日は来てくれてありがとう」
「サニーさんに連れてこられました」
「正直でいい子ね」
「褒めてます?」
「もちろん」
桐子は判断に困った顔をした。
サニーが横でため息をつく。
「先に確認。体調は」
「痛みは残ってますけど、医療班からは短時間なら問題ないと言われています」
「本人の同意は」
「聞きたいこともあります。分からないままにしたくないので」
桐子の返事は早かった。
リリーは頷く。
「なら、今日は観察と聞き取りだけ。採血もしない。魔力を流し込む検査もしない。痛みが出たら中止。分からない質問には分からないと答えていい」
「思ったよりちゃんとしてる」
桐子が小さく呟いた。
サニーが口元を押さえた。
リリーは聞こえなかったことにした。聞こえてはいたが、研究者としての尊厳を守るために聞こえなかったことにした。
「まず固有魔法から確認しましょう。武具創造・槍。今、出せる?」
「短いものなら」
「無理はしないで」
桐子は右手を開いた。
魔力が動く。
リリーの目には、術式の立ち上がりが見えた。汎用魔法のように外側へ組む式ではない。身体の奥にある魔石を起点に、本人の性質を通って形を取る。槍という概念へ寄ることで、魔力消費が軽くなる構造。まだ粗い。輪郭の固定が甘い。けれど、方向性は明確だった。
桐子の手の中に、短い槍が生まれた。
金属の棒に近い。以前の報告にあった歪な塊よりは、だいぶ槍らしい。先端は鋭すぎず、訓練用に抑えているのか、本人の制御がそこまでなのかは判断が分かれる。
「ふむ」
リリーは身を乗り出した。
肩を掴まれた。
「近い」
「見えない」
「その距離で見えるでしょう」
「見えるけど近くで見たい」
「駄目」
サニーの手が強い。
桐子は短槍を持ったまま、困ったように笑っている。
「えっと、近づけますか?」
「あなたが動かなくていい」
サニーが言う。
「リリー、見るだけ」
「はいはい」
リリーは術式記録用の魔導具を起動した。非接触で周辺の魔力変化だけを拾う。西部領で回収した神威らしき残滓とは違い、こちらは魔法として観測できる。安心するくらい魔法だった。
「武具創造としては、かなり素直ね。本人の武術経験が槍の運用へ寄っているから、形は槍へ定まりやすい。ただ、作ることと扱うことの間に、まだ大きな段差がある」
「段差」
桐子が繰り返す。
「ええ。あなた、武器を作る魔法を、武器を使う身体で補っているでしょう。魔法の完成度だけで戦っていない。だから面白い」
「面白い」
「褒めてるわ」
また判断に困った顔をされた。
サニーが呆れた声を出す。
「リリーの褒め言葉はだいたい変だから、まともに受け取らなくていいわよ」
「変じゃない。希少性と運用価値を正しく評価してるだけ」
「それが変なの」
リリーは少しだけ唇を尖らせた。
だが、今日の本題はそこではない。
「次に、西部領で出た槍について」
空気が少し変わった。
桐子の指が、短槍の柄を握り直す。サニーの視線もわずかに鋭くなった。
「報告では、魔法無効化装置の影響下でも消えなかった。魔力でも気でもない。黒く変質したルシアンを貫き、不滅の魔石による強化を削った。本人の感覚としては?」
「自分の力じゃない、と思いました」
桐子はゆっくり答えた。
「でも、勝手に暴れた感じでもないです。手の中にあって、握ることを許された感じというか。借りた、渡された、みたいな」
「誰に?」
「分かりません」
「声は聞こえた?」
「聞こえてません」
「姿は」
「見てません」
「何か、意志の向きは感じた?」
「……止めろ、というより、止めたいなら使え、みたいな感じです」
リリーは記録を取る手を止めた。
その言い方は重要だった。
命令でも支配でもなく、使用許可に近い。
「神威」
リリーは小さく言った。
「そう呼んでいいかは、まだ分からないけれど」
「私も、なんとなくそう呼んでるだけです」
「それでいいわ。名前は仮置きでも、現象を扱う足場になる。ただし、仮置きの名前を正体だと思い込まないこと」
リリーは自分にも言い聞かせた。
分解して理解する対象ではない。
少なくとも、今は。
「西部領から届いた残滓を見た時、こちらが観測しているはずなのに、逆に観測されているような感触があったの」
「観測される?」
「見られている、と言ってもいい。ただし、誰かの目というより、こちらの接触の仕方そのものを測られている感じ」
桐子の表情が強張る。
サニーがリリーを睨んだ。
「脅かすな」
「必要な範囲よ」
「今は、分かっていることだけでいい」
「これも分かっていること」
「言い方」
リリーは少し考え、言葉を選び直した。
「危険ではある。けれど、すぐにあなたを害するものとは限らない。少なくとも西部領では、あなたの意志と、クロエちゃんの願いと、状況に応じて現れた。だから、まずは接触の条件を整理しましょう。何を守ろうとした時に出たのか。何を止めようとした時に出たのか」
桐子は頷いた。
怖がってはいる。
だが、逃げていない。
リリーはその姿勢を好ましいと思った。好ましい、とそのまま口に出すとサニーに睨まれそうなので黙っておく。
「気については?」
リリーが尋ねると、桐子の表情が少し曇った。
「今は使ってません。魔法の訓練を始めてから、やめています」
「正解ね」
「正解なんですか」
「少なくとも今は。魔力と気は相性が悪い。あなたの場合、両方の素質があるぶん、下手に混ぜると内側から傷つく可能性がある」
サニーが横から口を挟む。
「その話はここまで」
「まだ概要だけ」
「ここまで」
「はいはい」
リリーは両手を上げた。
桐子は少し驚いた顔で二人を見比べている。サニーが止めなければどこまで話が進んでいたか、想像したのだろう。正しい想像だ。リリー自身、自分が興味でどこまで踏み込みたがるかはよく知っている。
だから、止める相手がいるのはありがたい。
腹立たしいが、ありがたい。
「今日の結論」
リリーは記録を閉じた。
「あなたの固有魔法は、武具創造・槍として順当に成長している。神威らしき現象は、魔力でも気でもなく、現時点では分解して理解する対象ではない。接触の作法、発現条件、本人の意志との関係を優先して調べる。気の運用は、今は再開しない」
「分かりました」
桐子は短槍を消した。
その消え方は魔法として自然だった。だからこそ、西部領の槍がどれほど異質だったかが際立つ。
「また、来た方がいいですか」
「もちろん」
「リリー」
サニーの声が低くなる。
「本人の回復と同意を確認してから、必要な範囲で」
「よろしい」
サニーはようやく頷いた。
桐子は少し笑った。
「サニーさん、保護者みたいですね」
「保護者よ」
「教官じゃなくて?」
「どっちも」
サニーは即答した。
そのあまりの自然さに、桐子が目を丸くする。リリーは少しだけ笑った。
サニーは情が移ると雑になる。
その雑さは、たぶん本人が思っているよりずっと分かりやすい。
「白銀ちゃん」
リリーは言った。
「分からないものを怖がるのは正しいわ。怖がらない研究者は早死にするし、怖がらない戦士は周りを巻き込む。だから、怖いまま調べましょう」
桐子はしばらく考えた。
そして、ゆっくり頷く。
「はい。知らないままにしたくないので」
「いい返事」
リリーは満足した。
満足したところで、サニーに襟首を掴まれた。
「今日は終わり」
「まだ質問が三十個くらい」
「終わり」
「十個」
「終わり」
「三個」
「終わり」
桐子が小さく吹き出した。
研究室の空気が、少しだけ軽くなる。
神威の残滓を前にした時の、背筋を撫でるような恐怖はまだ消えていない。むしろ、本人と会ったことで線は太くなった。これは本当に、どこかへ続いている。
神と呼ばれるものへ。
あるいは、リリー自身が何のために生まれた魔女なのかという問いへ。
だが今日は、ここで止める。
発現者本人が、自分の足で帰れるところで止める。
リリーは記録を保存し、封をした。
「次は、もう少しだけ詳しく聞かせてね」
「少しだけなら」
桐子の返事に、サニーが満足げに頷いた。
リリーは思う。
少しだけ、の定義は人によって違う。
もちろん、その場で口には出さなかった。




