第36話
王都へ戻ってから、桐子はしばらく空の色に慣れなかった。
西部領の空は、海と雲と不安定な天気に引きずられるように、いつもどこか湿った陰を持っていた。王都の空は明るい。明るすぎて、城の廊下に残っていた暗さや、魔法無効化装置が起動した時の光の消え方が、余計に遠い悪夢のように思えた。
それでも、身体の痛みは現実だった。
肩の固定は外れたが、動かせばまだ鈍く響く。脇腹の打撲も、寝返りのたびに存在を主張する。医療班には無理をするなと言われ、サニーには「死なない程度に動きなさい」と言われた。どちらが優しいのか、桐子にはよく分からない。
養成所の中庭には、夏の匂いが残っていた。
休暇中の生徒は少ない。普段なら訓練場から聞こえる掛け声も、今日は遠い。桐子は日陰になった石段に座り、包帯の巻かれた手を開いたり閉じたりしていた。
もう、神の槍はない。
手の中に残っているのは、硬くなった掌と、まだ少し痛む指だけだった。
「ここにいたのね」
声に顔を上げると、クロエが立っていた。
西部領で見た重いドレスではなく、養成所の制服に近い装いだった。けれど、以前より少しだけ空気が違う。背筋はいつも通り伸びている。顎も下がっていない。だが、強がりだけで自分を支えていた頃の硬さは、ほんの少し薄れているように見えた。
「クロエさん」
「さん、はいらないと言ったでしょう」
「慣れなくて」
「慣れなさい」
クロエは桐子の隣へ腰を下ろした。
以前なら、同じ段に座ること自体を少し躊躇したかもしれない。けれど今は、自然に隣へ来た。その距離の近さに、桐子の方が少しだけ戸惑った。
「身体は」
「痛いですけど、動けます。クロエは?」
「私も問題ないわ。魔法無効化装置の影響が抜けた後は、だいぶ楽になったもの」
「あの時、本当にしんどそうでした」
「ええ。吸血鬼としての性質まで鈍るとは思わなかった。屈辱的だったわ」
クロエはそう言ったが、声には以前ほどの刺がなかった。
屈辱も、悔しさも、恐怖も、一度言葉にしても自分が壊れないと知った後の声だった。
「ローザさんは」
「忙しそうよ。領主に戻る気はないくせに、補佐として口を出すことは山ほどあるみたい」
「喧嘩してます?」
「しているわ」
即答だった。
桐子が思わず目を丸くすると、クロエは少しだけ口元を緩めた。
「十一年分よ。喧嘩くらいするでしょう」
「それは、そうかも」
「でも、いなくなられるよりはまし」
最後の言葉だけ、少し小さかった。
桐子は膝の上で手を組む。
クロエの横顔は、王都の明るい光の中でもどこか西部領の陰を残していた。母を取り戻した。父と呼ばれていた男を失った。領地を守り直さなければならない。その全部が、一人の少女の肩に乗っている。
「ルシアンのこと」
桐子は言った。
クロエの視線がこちらへ向く。
「謝るつもりなら、やめて」
「謝る、とは違います」
桐子は言葉を探した。
すみません、と言えば楽かもしれない。けれど、それは違う気がした。ルシアンを殺したことを、なかったことにするための謝罪なら、それは桐子自身が許せなかった。
あの時、クロエは声に出して託した。
ルシアンを止めてほしい。
西部領を救ってほしい。
桐子はそれを聞いて、自分で前へ出た。
「あの時に戻っても、私は同じことをします」
クロエは黙って聞いていた。
「だから、謝るのは違うと思うんです。でも、何も言わないのも違う。私がしたことで、クロエの周りに残るものはあると思うから」
「ええ」
クロエの返事は静かだった。
「残るわ。どれほど関係が悪くても、書面上は父だった人よ。憎んでいた、信用していなかった、利用されていた。それでも、何も残らないわけではない」
桐子は息を止めかけた。
クロエは目を伏せない。
「けれど、あなたが止めなければ、私は死んでいたかもしれない。西部領も、もっと壊れていた。母様も、戻ってきた場所をまた失っていた」
「はい」
「だから、私はあなたを責めない。責めるつもりもない。あなたがしたことを、私の都合のいい救いだけにするつもりもない」
クロエの言葉は、整っていた。
整っているからこそ、その奥にある揺れが見えた。誇り高く、勝ち気で、他人に弱さを見せるのが下手な少女が、それでも隣に座って同じ高さで話している。
桐子は、そのことを大事にしたいと思った。
「必要なら、また力になります」
桐子は言った。
クロエが目を瞬かせる。
「謝罪じゃなくて、約束です。クロエがまた西部領を守る時、私の力が必要なら呼んでください。書類仕事はたぶん役に立たないけど、現場で動くことならできます」
「自分で言うのね」
「苦手なものは苦手なので」
クロエは少し笑った。
以前のような相手を試す笑みではない。ふっと力が抜けた、年相応の笑い方だった。
「あなた、本当に変な人ね」
「よく言われます」
「褒めているのよ」
「それも、よく分かりません」
「慣れなさい」
またそれだ、と桐子は思った。
けれど、嫌ではなかった。
沈黙が落ちる。
中庭の木々が揺れ、葉の影が石段に落ちていた。遠くで誰かが訓練用の木剣を片付ける音がする。王都の日常は戻りつつある。だが、西部領で見たものは戻らない。神の槍も、ルシアンの最後も、魔法が消えた暗闇も、クロエの声も。
「魔法なんて」
桐子はぽつりと言った。
「使えなければよかったのに、って思ってました」
クロエは遮らなかった。
「真希を刺した時も、西部領に来る前も。こんな力がなければ、何も起きなかったんじゃないかって。でも、今回思ったんです。使えなければよかった、だけじゃ駄目なんだって」
掌を開く。
そこに槍はない。
けれど、槍を出せる魔力は自分の中にある。黒峰流で鍛えた身体もある。神威と呼ぶしかない、借り物の力を握った記憶もある。
「力があるなら、どこへ向けるかを選ばなきゃいけない。選べなかったら、また暴れる」
「真希さんのこと?」
桐子は頷いた。
「あの時は、何も選べませんでした。だから、次は選べるようになりたい。怖いけど」
「怖くない力なんて、きっと大したものではないわ」
クロエは空を見上げた。
「私も、自分の力が好きよ。雷も、血も、霧も。吸血鬼としての身体も。でも、怖くないわけではない。弱い誰かから見れば、私自身が化け物に見えることもあるでしょうし」
「クロエは化け物じゃないです」
「知っているわ」
即答だった。
その強さに、桐子は少し笑った。
「そう言えるの、すごいです」
「言えなければ、領主なんてやっていられないもの」
クロエは立ち上がった。
風が金の髪を揺らす。
「白銀桐子」
「はい」
「あなたには大きな借りができたわ」
「借り、ですか」
「ええ。西部領の次代としても、クロエ・シュヴァリエ個人としても」
クロエは桐子を見下ろした。
見下ろす角度なのに、不思議と威圧感はなかった。
「だから、簡単にどこかへ行かないで」
桐子は一瞬、返事に詰まった。
どこかへ行かないで。
その言葉は、思ったより深いところへ届いた。真希から遠くへ来てしまった自分が、今度は誰かにそう言われている。
「……努力します」
「そこは断言しなさい」
「未来から来た身なので、そこはちょっと」
「本当に、変な人」
クロエは呆れたように言った。
けれど、その顔は少しだけ柔らかかった。
桐子は立ち上がり、痛む肩を庇いながら伸びをした。空はまだ明るい。分からないことは山ほどある。神威も、魔法も、真希のことも、自分がこの時代でどこへ向かうのかも。
それでも、隣に立つ相手が増えた。
それはたぶん、悪いことではない。
「クロエ」
「何?」
「また一緒に訓練しましょう」
「怪我人が何を言っているの」
「治ったら」
「考えておくわ」
クロエはそう言って歩き出した。
桐子も少し遅れて続く。
謝罪ではない。
赦しでもない。
ただ、次に何かが起きた時、また隣に立てるようにするための会話だった。
桐子はその重さを、逃げずに持っていこうと思った。




