第35話
黒峰真希が最初に見たものは、天井ではなかった。
天井の裏だった。
白い病室の天井板、その上に走る配線、細い管、空調の内部で揺れる埃、隣の部屋の壁、さらにその向こうを通る人影。目を開けた瞬間、視界が一方向に収まらず、真希の頭蓋の内側へ無数の角度から情報が流れ込んできた。
息が詰まる。
反射的に体を起こそうとして、腹に焼けるような痛みが走った。
「っ……!」
声にならない音が喉で潰れる。
腕が動かない。いや、動く。動くが、点滴の管と固定具が邪魔をしている。身体のあちこちに貼られた薄い測定端末が、皮膚の上で微かな熱を持っていた。ベッドの横では透明な板のような画面が浮かび、脈拍や呼吸、血中の数値らしきものを淡く表示している。
見える。
見えすぎる。
画面の文字だけではない。画面の向こう側にある回路の発光、壁の内側に埋め込まれた配線、廊下を移動する無人搬送機の輪郭、遠くの処置室で自動の医療アームが折りたたまれる動きまで、すべてが視界の端へ入ってくる。
目を閉じた。
消えなかった。
瞼の裏に、光が残る。物体の輪郭が残る。見えるはずのない角度から、世界が押し寄せてくる。
「黒峰さん、聞こえますか」
声がした。
若い医療従事者がベッド脇へ駆け寄っている。真希は顔を向けたつもりだったが、顔を向ける必要がなかった。正面にいない相手の位置も、体温の輪郭も、持っている端末の内部構造も、全部見えている。
「ここは病院です。あなたは手術を受けて、数日眠っていました。今は安全です。急に動かないでください」
「……うるさい」
真希はかすれた声で言った。
実際、声がうるさいわけではない。
情報が多すぎるのだ。相手の表情、呼吸、手指の震え、足の置き方、背後の機械の動作音、廊下の向こうで誰かが靴を止めた気配。それらが一斉に、真希の中へ突っ込んでくる。
「照明を落とします」
医療従事者が端末に触れる。
天井の光が弱くなった。
それでも、見える。
光が減っても関係ない。暗くなることで見えなくなる類の目ではなかった。視界というより、全天に配置されたカメラが同時に映像を送り込んでくる感覚に近い。しかも、そのカメラには壁も死角もほとんど意味を成していない。
これは何だ。
真希は歯を食いしばった。
霊が見えるわけではない。誰かの心が流れ込んでくるわけでもない。聞こえない声が聞こえるわけでもない。もっと硬い。もっと機械的で、光学的で、工学的な異常。
見えるはずのない角度から、見える。
ただそれだけだ。
ただそれだけなのに、世界の形が根本から変わっていた。
「真希」
別の声がした。
病室の扉が開く前から、誰が来るのか分かっていた。廊下の向こうを歩く足取りや肩幅、呼吸の癖で、真希には父だと分かった。
父は扉の前で一度止まり、それから中へ入ってきた。道場ではいつも通り隙のない姿勢をしている男が、今はわずかに顎を強張らせている。
「起きたか」
「見れば分かるでしょ」
「口が悪い。生きている証拠だな」
「腹が痛い」
「刺されたからな」
その言葉で、記憶が戻った。
畳の感触、歓声、息を詰める間、桐子の顔、銀の光、そして腹を貫いた槍。
真希はシーツを握った。
視界が乱れる。病室、廊下、壁の裏、外の道路、父の手、医療端末、全部が一瞬だけ重なった。吐き気がした。
「桐子は」
喉から出た声は、自分でも驚くほど低かった。
父はすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、真希の中の何かが立ち上がる。
「桐子は、どうしたの」
「今は、まずお前の目だ」
「答えて」
「真希」
父の声に、道場で聞く時の硬さが混じった。
「お前の状態が先だ。今のお前は、視界の情報を制御できていない。無理に感情を動かすな」
「そんなの、知るか」
真希は起き上がろうとした。
痛みで視界が白くなる。医療従事者が慌てて止める。父の手が肩に置かれた。押さえつける力ではない。だが、動けない。
「桐子が、死ぬわけない」
真希は言った。
自分に言い聞かせるように。
父は目を伏せた。
「死んだとは聞いていない」
「じゃあ、どこ」
「それを話す前に、理沙さんを呼ぶ」
「ばあちゃんを?」
「もう来ている」
扉が開いた。
黒峰理沙は、いつもの柔らかな顔で入ってきた。真希の祖母。黒峰流の師範。穏やかな敬語で、平然とえげつない稽古をつける人。
真希の目には、その体の内側を流れる気の道筋が見えた。
血管ではない。神経でもない。筋肉の動きとも違う。見えるはずのない流れが、理沙の周囲で静かに整っている。
理沙は真希の視線に気づき、少しだけ目を細めた。
「見えていますね」
「……何これ」
「目ですね」
「ふざけないで」
「ふざけてはいませんよ。あなたの目は、普通の目ではなくなっています」
理沙はベッド脇の椅子に座った。
医療従事者が一歩下がる。父も黙った。ここから先は理沙の領域だと、全員が理解している。
「精神感応ではありません。幽霊が見えているわけでもありません。相手の心を読んでいるわけでもない。あなたの視界に起きているのは、もっと物理寄りの異常です」
「壁の向こうが見える」
「はい」
「後ろも、横も、上も、全部」
「死角が薄いのでしょう。今は情報量に脳が追いついていないだけです」
「だけ、じゃない」
真希は理沙を睨んだ。
睨んだつもりだった。
だが、視線を合わせるという行為すら、今の真希には不安定だった。見える範囲が広すぎて、目を向ける意味が薄れている。
理沙は穏やかに頷いた。
「だけ、ではありませんね。ですが、扱えるようになります」
「どうやって」
「訓練です」
「やっぱり」
「黒峰ですから」
理沙は本当に当然のように言った。
真希は笑いそうになった。痛くて笑えなかった。
黒峰はいつもそうだ。
異常が起きたら、まず訓練で扱う方法を考える。恐怖より先に、運用を考える。逃げ道ではなく、踏み込む道を探す。
その考え方は嫌いではない。
むしろ、真希の中にも深く染みついている。
「桐子は」
真希はもう一度言った。
理沙の表情が、ほんの少しだけ変わる。
その変化も見えた。眉の角度、呼吸、指先のわずかな硬直。今までなら見逃したかもしれないものが、今は残酷なくらい明瞭だった。
「白銀さんは、行方が分からなくなっています」
理沙は言った。
病室の音が遠くなった。
「警察による捜索は行われました。記録上は失踪。事件直後、あなたが搬送され、彼女が警察から帰宅するまでの間に消えたと見られています」
「消えた?」
「はい」
「逃げたって言いたいの」
「私はそうは言っていません」
理沙の声は柔らかい。
けれど、真希の怒りを受け流す柔らかさではなかった。きちんと正面から受け止める声だった。
「では、どこに」
「分かりません」
真希はシーツを握り潰しそうになった。
腹も目も頭も痛く、世界そのものが広すぎる。
なのに、桐子の姿だけがどこにもない。
「桐子が、私を置いて逃げるわけない」
「そうですね」
理沙が即答したので、真希は顔を上げた。
「白銀さんは、あなたを刺したことから逃げる人ではないでしょう。少なくとも、あなたがそう信じるだけの相手なのでしょう」
「当たり前」
声が震えかけた。
真希は怒りで押し返した。
泣く気はなかった。泣いている暇もなかった。桐子がどこかへ行った。なら、追う。目が変になったなら、使えるようにする。腹に穴が空いたなら、塞がるまで待って、動けるようにする。
それだけだ。
「この目、使えるようになるんでしょう」
「なります」
「どれくらいで」
「あなた次第です」
「じゃあ、早い」
理沙が少しだけ笑った。
父はため息をついた。
「焦るな」
「無理」
「真希」
「あの日の続きが終わってない」
真希は天井を見た。
天井の向こうが見える。配線も、空調も、さらに上の階を歩く人影も見える。それでも、桐子はいない。
「あいつは、私を刺した」
言葉にすると、腹の痛みが鋭くなった。
「でも、勝負は終わってない。あんな終わり方、認めない」
銀の槍。
桐子の顔。
あの瞬間の恐怖と、怒りと、悔しさ。
全部、まだ腹の奥に残っている。
「必ず見つける」
真希は言った。
視界の中で、世界が幾重にも重なる。
壁の向こうも、死角の裏も、遠くの廊下も、見える。見えすぎる。なら、そのすべてを使えばいい。
「桐子に会って、あの日の続きをする」
理沙は止めなかった。
父も、もう何も言わなかった。
病室の透明な端末が、真希の数値を静かに映している。自動の医療アームが隣室で折りたたまれ、無人搬送機が廊下を滑るように進む。そのすべてが、真希の視界に入っていた。
世界は変わった。
それでも、真希の向かう先は一つしかなかった。
白銀桐子。
次に会った時、今度こそ逃がさない。




