第34話
耕一は、黒峰理沙と出会った日の空が、妙によく晴れていたことを覚えている。
魔界側の仕事仲間からは、彼はだいたいコーイチと呼ばれていた。コーイチはその呼び名の軽さに助けられながら、人間界では斎藤耕一として仕事をしている。
神に関する伝承を追うにしても、最初から神社仏閣へ飛び込むほど耕一は真面目ではない。まずは過去の未分類事件、地域の怪談、妙な目撃談、そして魔術式では説明がつかない現象の記録を拾う。そういう地味な作業を続けているうちに、気づけば知らない商店街まで足を延ばしていた。
人通りはそこそこある。
古い店と新しい店が混じり、車道は狭く、歩道も広いとは言えない。小学生くらいの少年が、手にした小さな玩具を見ながら歩いていた。視線は完全に手元へ落ちている。
危ないな、と耕一が思ったのと、少年が車道へ踏み出したのはほとんど同時だった。
角を曲がってきた車の音。
誰かの短い悲鳴。
少年が顔を上げるより早く、耕一は走っていた。
身体能力に自信があるわけではない。養成所で最低限は叩き込まれたが、戦闘要員としては底の方だ。けれど、間に合う距離だった。間に合わせなければならない距離だった。
少年の腕を掴み、歩道側へ引く。
その瞬間、逆側から伸びた白い手が少年の襟を取った。
力の向きが重なる。
少年の体は、車の鼻先をかすめる形で歩道へ転がった。耕一も膝を打ち、すぐ横で車が急停止する。タイヤの焦げた匂いが遅れて鼻を刺した。
「大丈夫ですか」
穏やかな声がした。
耕一が顔を上げると、黒髪の女が少年の前にしゃがんでいた。柔らかな微笑み。落ち着いた声。だが、さっき襟を掴んだ動きは、どう見てもただの通行人ではなかった。
「う、うん」
少年は玩具を握ったまま、青い顔で頷いた。
「次からは、道を見ること。手の中のものは逃げませんが、車は待ってくれません」
「ごめんなさい」
「謝る相手は、私ではありませんよ」
女はそう言って、車から降りてきた運転手へ視線を向けた。
口調は優しい。
なのに、運転手の背筋が伸びる。
耕一は立ち上がりながら、膝についた砂を払った。少年に怪我はなさそうだ。運転手も速度を出していたわけではない。悪いのはほとんど少年だが、誰も死ななかったなら、それでいい。
「そちらも、お怪我は?」
女が耕一へ向き直った。
「膝を打っただけです。そっちは」
「問題ありません」
女は微笑む。
「助かりました。私一人でも間に合いましたが、あなたが引いてくださったおかげで、より安全でした」
「それ、褒めてます?」
「ええ」
にこやかに言われると、かえって判断に困る。
女は少年を保護者らしき人物へ引き渡し、運転手にも穏やかに事情を確認した。周囲の空気が落ち着くまで、ほとんど声を荒げない。だが、必要なことは一つも取りこぼさない。警察へ連絡する者、少年を端へ寄せる者、車を動かす位置。柔らかい声だけで場を整理していく。
ただ者ではない。
そう思った時、女の視線が耕一の目元で止まった。
「あなた、見えているんですね」
耕一の背中に、嫌な汗が落ちた。
「何が」
「今、私が少年の体の流れを止めた時、目で追っていました」
「動きを見てただけです」
「そうですか。では、あの車のブレーキに組まれていた安全補助の術式めいたものも?」
耕一は無言になった。
人間界の車に、魔術式は基本的にない。
だが、ごく稀に魔界由来の部品や魔導具の残滓が紛れていることがある。今回の車にも、魔導具ではないが、魔力に似た細い線が一瞬見えた。人間界側の安全装置と、魔界由来の何かが偶然噛み合ったような、奇妙な線。
それを彼女も見たのか。
いや、見たというより、感じ取ったのかもしれない。
「あなたは」
「黒峰理沙と申します」
女は丁寧に頭を下げた。
「近くで道場を預かっています」
「道場」
「はい。古いだけが取り柄の、少々面倒な家です」
少々面倒な家、と自称する家は大抵だいぶ面倒だ。
耕一は仕事用の顔を作った。
「斎藤耕一です」
「斎藤さん」
理沙は名前を確かめるように言った。
「不思議な目をしていますね」
「よく言われます」
「でしょうね」
返しが早い。
穏やかなのに逃げ道がない。耕一は、この時点でだいぶ苦手な類の相手だと悟った。
「お礼がしたいので、よろしければ道場へ」
「いえ、仕事中なので」
「では、お仕事のお話もそこで」
「今、俺の仕事の話しました?」
「していませんね」
理沙は微笑む。
「でも、あなたは普通の方ではなさそうですから」
柔らかい断定だった。
断定を柔らかく包む人間ほど厄介だ。サーシャもそうだが、理沙の場合は種類が違う。艶や誘惑ではなく、理屈と技術で逃げ道を塞いでくる。
結局、耕一は道場へ行くことになった。
断ったつもりだった。
断ったつもりだったのに、気づけば理沙の少し後ろを歩いていた。道案内というより、誘導されている。足の運び、視線の置き方、こちらが立ち止まりにくい間合い。武術家の歩き方というものがあるなら、たぶんこれだ。
黒峰の道場は、商店街から少し外れた住宅地の奥にあった。
古い木の門。掃き清められた庭。場違いなほど静かな空気。門をくぐった瞬間、外の車の音が少し遠くなった。
魔法ではない。
結界でもない。
それなのに、境界を越えた感覚があった。
「父を呼んできます」
「父?」
「黒峰徹心。先代です」
理沙は奥へ消えた。
耕一は帰るべきだった。
明らかに帰るべきだった。
しかし、仕事で神だの異常現象だのを調べている最中に、魔法ではない境界を持つ道場へ案内されたのだ。帰るという選択肢は、職務上かなり弱い。
しばらくして、黒峰徹心という老人が現れた。
小柄に見えるが、それは見た目だけだった。耕一の目には、老人の体の周りに魔術式とは違う流れが見えた。線ではなく、光でもなく、水の流れのようで、刃の軌跡のようでもある、本来なら見えるはずのないものだった。
耕一が息を呑むと、徹心が笑った。
「ほう」
「見えておるな」
「……何がですか」
「誤魔化すな。目が先に答えておる」
老人の声は軽いのに、足元をすくわれるような圧がある。
「理沙」
「はい」
「拾い物としては上等だ」
「拾ったわけではありません。事故を防ぐ過程で協力しただけです」
「同じことよ」
耕一は一歩下がろうとした。
その瞬間、理沙がすっと横へ立つ。塞いだわけではない。だが、そこに立たれるだけで退路が細くなる。
「斎藤殿」
徹心は目を細めた。
「その目、どういう育ちをした」
「普通の家庭です」
「家ではない。性質の話をしている」
「企業秘密です」
「ならば、こちらも家の秘密と交換せねばならんか」
嫌な流れだった。
耕一は、サーシャに連絡するべきか迷った。だが、ここで端末を出す動きが許される気配はない。理沙は笑っている。徹心も笑っている。二人とも敵意はない。
敵意がないのに危険。
それが一番たちが悪い。
「魔術式を見る目か」
徹心が言い、耕一は沈黙した。
「人ならざるものの技を、人の目で見る。面白い。理沙、お前はどう見る」
「黒峰にとって有用です」
理沙の返答は即答だった。
柔らかな声で、えげつないことを言う。
「血に入れられるなら、それが最も確実かと」
「本人の意思は?」
耕一が思わず口を挟む。
理沙は不思議そうに首を傾げた。
「もちろん確認しますよ。無理にとは申しません」
「今の流れで、その言葉を信じろと」
「信じるかどうかは、斎藤さんの自由です」
自由。
なんて恐ろしい単語だろう。
耕一の頭に、サーシャの顔が浮かんだ。
聞いていない理沙からの距離の詰め方に、あの妻はたぶん気づく。気づいた上で、怒るか、笑うか、別の方向へ話を転がすか。どれもあり得る。
そして徹心の視線が、耕一の奥を測るように細くなった。
「おぬし、既に女難の相があるな」
「急に占い師みたいなこと言わないでください」
「武の家は、相も見る」
「便利ですね」
「便利だとも」
徹心はからからと笑った。
その笑い声の奥に、黒峰という家の異常さがある。武術家であり、道場であり、古い家でもある。そんな言葉の皮を被っているが、ここにあるのはもっと鋭いものだ。
人が、人ならざるものに届くための技術。
その入口だけが、耕一の目に映っていた。
「斎藤殿」
徹心が言った。
「少し、付き合え」
「何にですか」
「話と、手合わせと、今後の相談に」
「全部嫌なんですが」
「ははは。正直でよろしい」
理沙が静かに茶を出した。
どうやら帰れないらしい。
その頃、サーシャが何をしていたのかを耕一は知らない。
ただ、後になって思えば、彼女は彼女で徹心と会い、別の形で話をつけに行っていたのだろう。サキュバスの妻と黒峰の先代が何を話したのか、耕一は詳しく聞かなかった。聞かない方が夫婦円満にいい話もある。
耕一は茶を一口飲んだ。
普通の茶だった。
普通の茶が出てくる場所で、普通ではない話が始まろうとしている。
リリーの依頼は、神へ続く糸を探すものだったはずだ。
だがその前に、耕一は人間の側にある、別種の異常へ足を踏み入れてしまった。
黒峰。
その名を、耕一は忘れないだろうと思った。




