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いずれ空へと続く道  作者: 白銀スーニャ
第1章:西の不死と死と過去
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第33話

 耕一は、東京近郊の雑居ビルの二階にある自分の事務所で、いつものように雑多な書類を片付けていた。

 魔界側の同僚たちは彼をコーイチと呼ぶ。コーイチはその呼び名に慣れきっていて、人間界で本名を呼ばれると、今でも少しだけ反応が遅れる。

 表向きは、輸入雑貨と小規模な調査業務を扱う何でも屋に近い。看板に書かれた業務内容は曖昧で、通りがかった者が見ても何をしている会社なのかよく分からない。よく分からないまま通り過ぎてもらうための看板なので、それで正しい。

 本当の役目は、人間界へ派遣された魔界側の治安維持要員の拠点だった。

 魔界と人間界の間には、表に出せない道がいくつかある。許可なく越えた者、越えた先で問題を起こす者、人間界の常識では処理しきれない魔導具や魔獣由来の残り香。そういうものを、なるべく表の警察や行政に見つからない形で処理するのが耕一の仕事だった。

 地味で、面倒で、給料の割に神経を使う。

 そして今日も、面倒の方からやって来た。

「……リリーさん、また変な依頼投げてきたな」

 耕一は端末に表示された通信文を眺め、椅子の背にもたれた。

 文面は丁寧だった。丁寧ではあるが、丁寧なリリーほど危ない。あの人は本当に面倒なことを頼む時ほど、必要以上に整った文章を書く。

 依頼内容は、人間界側に残る神に関する伝承と、魔術式を介さない異常現象の記録収集。

 神、異常現象、魔術式を介さないもの。どれも、現場担当に投げる単語としてはひどく重い。

「お仕事?」

 背後から声がした。

 振り返ると、サーシャ・クローディアが湯気の立つカップを二つ持って立っていた。

 艶のある黒髪に、整いすぎた目鼻立ち。絶世の美女に擬態している、という言い方はだいぶ不穏だが、実際そうなのだから仕方がない。サキュバスという種族は、魅了のための造形に長けている。もっともサーシャは、家の中でまで相手を蕩かすような振る舞いはしない。結婚して、子どもがいて、日々の生活がある女の落ち着きが、今の彼女にはよく馴染んでいた。

「リリーさんから」

「あら」

 サーシャは耕一の机にカップを置く。

「それは、楽しい話?」

「楽しいと思える精神構造なら、俺はもう少し人生を楽に生きてる」

「あなた、今でも十分楽しく生きているわよ」

「どこが」

「私がいるでしょう」

 さらりと言われ、耕一は返答に困った。

 サーシャはそういうところがある。媚びているわけではない。夫をからかっているだけでもない。ただ、自分の価値を自然に理解した上で言葉を置いてくる。

 それに対して反論すると、こちらが照れているように見える。

 とても不利だった。

「……まあ、それはそう」

「素直でよろしい」

 サーシャは満足げに微笑み、端末の画面を覗き込んだ。

「神に関する伝承と、魔術式を介さない異常現象。ずいぶん大きく出たわね」

「西部領で何かあったらしい」

「シュヴァリエ」

 サーシャの声が、少しだけ低くなった。

 クローディア家は古くからシュヴァリエ家に仕えてきた家系だ。だが、十一年前の騒動をきっかけに、今は少し距離がある。耕一は詳しい事情まで踏み込んで聞いていない。サーシャが話したくなれば話すだろうし、話さないなら今はその時ではない。

「お前の実家筋にも関係あるか」

「たぶんね。でも、リリー様があなたへ直接投げたということは、シュヴァリエ家の後始末そのものではないのでしょう」

「そうだろうな。神とか言ってる時点で、別枠だ」

 耕一は自分の目元を押さえた。

 目を閉じれば、世界は暗くなる。

 普通ならそれで終わりだ。

 だが耕一の場合、暗闇の中に線が残ることがある。魔法を構成する術式の線。魔力の流れ。魔導具の内部で組まれた式の癖。普通なら見えないはずのものが、視界に薄く引っかかる。

 それが便利だと、サーシャは言った。

 価値があると、リリーも言った。

 おかげで耕一は養成所卒業後、人間界派遣という妙に収まりの悪い役目に就き、絶世の美女を妻にして、クローディア家の婿養子になった。

 美人の嫁を捕まえたのか。

 捕まえられたのか。

 いまだに本人にもよく分からない。

「パパ」

 部屋の奥から、小さな声がした。

 ルチア・クローディアが、ぬいぐるみを抱えて顔を出している。三歳と少し。眠たげな目でこちらを見て、床に置かれた資料の束を避けながら、とてとてと歩いてきた。

「起きたのか」

「おきた」

「昼寝は」

「した」

「五分だろ」

「した」

 強い。

 耕一は娘を抱き上げた。ルチアは当然のように膝へ収まり、端末画面を覗き込もうとする。

「それは見ちゃ駄目」

「なんで」

「パパのお仕事だから」

「ママは見てる」

「ママは大人」

「ルチアも大人」

「違う」

 ルチアは不満げに頬を膨らませた。

 サーシャがくすりと笑う。

「将来有望ね」

「変なところを継がせるな」

「あなたの目と私の血なら、何かしら変なところは出るでしょう」

「今それを怖いことみたいに言うな」

「怖くはないわ。育てがいがあるだけ」

 サキュバスの倫理観は、時々こちらの常識から半歩ずれる。

 半歩で済んでいるのは、たぶんサーシャがかなり人間界に合わせてくれているからだ。ありがたい。ありがたいが、完全に安心していいかは別だった。

 ルチアが耕一の袖を引いた。

「パパ、おしごといく?」

「まだ行かない」

「じゃあ、よんで」

「絵本?」

「うん」

 耕一は端末を見た。

 神に関する伝承。

 魔術式を介さない異常現象。

 急ぎではある。だが、一分一秒を争う依頼ではない。リリーの文章にも、発現者本人への接触は保留とある。珍しく、順番を守る気でいるらしい。

「一冊だけな」

「さんさつ」

「一冊」

「にさつ」

「……一冊半」

「はん?」

 ルチアが首を傾げる。

 サーシャが笑った。

「負けているわよ、あなた」

「知ってる」

 耕一はルチアを抱いたまま、奥の小さな居住スペースへ向かった。

 この事務所は、仕事場であり、仮眠場所であり、時々は家族の避難所にもなる。将来、ここが別の形に改装されるなど、今の耕一には想像もつかない。けれど、壁の古さも、窓から見える道路も、雑に置かれた椅子も、妙に生活に馴染んでいた。

 絵本を一冊読み終える頃には、ルチアは半分眠っていた。

 耕一は娘を寝かせ、静かに机へ戻る。

 サーシャは端末の前で待っていた。

「カーラから連絡が来ていたわ」

「妹さん?」

「ええ。今年、養成所に入るから落ち着かないみたい。あの子、桐子ちゃんたちの一つ下になるのよね」

「クローディア家から養成所か」

「色々あるのよ。シュヴァリエ家との距離も、いつまでも曖昧なままにはできないもの」

 サーシャの言葉には、少しだけ家の重さが混じっていた。

 耕一はそこへ踏み込みすぎない。夫婦でも、相手の家の痛みに土足で入っていいわけではない。

「リリーさんの依頼、受けるしかないよな」

「ええ。あなた向きだもの」

「褒めてる?」

「信頼しているの」

 どこかで聞いたような言い回しだな、と耕一は思った。

 たぶん、あの人たちは皆、面倒ごとを投げる時に似た顔をする。

「神ねえ」

 耕一は端末に返信を打ち始めた。

 受諾。

 調査範囲の確認。

 人間界側の伝承、民間記録、未分類事件、宗教施設周辺の奇妙な目撃談。

 文字を並べるほど、ただの資料仕事では済まない気配が濃くなる。

 魔術式なら見える。

 魔力なら読める。

 だが、今回の依頼は、その外側にあるものを探せと言っている。

「嫌な予感?」

 サーシャが尋ねた。

「嫌というか」

 耕一は画面から目を離さない。

「俺の目で見えないものを探せって言われてる気がする」

「なら、見えるようになるかもしれないわ」

「君は本当に前向きだな」

「サキュバスは欲望に正直なの」

「研究者と似たこと言い出した」

 耕一は送信ボタンを押した。

 画面に、依頼受諾の文字が残る。

 その向こう側に何があるのか、まだ分からない。神という言葉が、ただの比喩なのか、本当にどこかへ続く扉なのかも分からない。

 ただ一つ分かるのは、リリーがこれを面白いと思っていることだ。

 そしてリリーが面白いと思ったものは、大抵こちらの胃に悪い。

 耕一は冷めかけたコーヒーを飲み、深く息を吐いた。

「まずは、近場の記録から当たるか」

 日常の形をした面倒ごとが、静かに動き出していた。


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