表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
いずれ空へと続く道  作者: 白銀スーニャ
第1章:西の不死と死と過去
45/61

第32話

 サニーは、シュヴァリエ城の応接室で冷めた茶を見ていた。

 クロエが執務室を使っているから、とローザは言った。母を取り戻したばかりの娘が、十一年分の空白を抱えたまま領主の席に座っている。その事実を思えば、応接室の少し窮屈な椅子くらい我慢する理由になる。

 ローザは向かいに座っていた。

 窓の外では、西部領の海が昼の光を鈍く返している。城のあちこちにはまだ戦闘の跡が残り、廊下を行き交う者たちの足音にも、勝利の浮つきより後始末の重さがあった。

「子どもたちには、まだ聞かせない方がいいと思ったの」

 ローザの声は、いつもの軽さを半分ほど失っていた。

「聞かせたら、あの子たちは自分のところへ原因を探しに行くでしょう。クロエも、桐子ちゃんも、アイギスちゃんも」

「でしょうね」

 サニーは茶に手をつけなかった。

「で、私には聞かせるの」

「あなたは原因を探す前に、殴る相手を決められるもの」

「褒めてる?」

「信頼しているのよ」

 ローザは笑おうとして、うまく笑えなかった。

 その顔を見た瞬間、サニーの内側で、残っていた温度がすっと下がった。怒りは熱いものだと思われがちだが、本当に扱い慣れた怒りは冷える。指先まで澄んで、余計な揺れが消える。

「十一年前の作戦は、魔神教団の一掃が目的だった」

 ローザは言った。

「西部領に入り込んでいた教団の枝を、まとめて炙り出して切る。そのために、餌が必要だった。ローザ・シュヴァリエという領主、シュヴァリエ家、そして、教団側に深く食い込んでいたルシアン」

「ルシアンを夫の位置に入れたのは」

「リーゼロッテ」

 短い名前が、応接室に落ちた。

 サニーは瞬きをしなかった。

「あいつが?」

「ええ。形式上は複数の貴族家と行政上の調整を経た、まっとうな婚姻記録だった。誰が見ても、手続きは正しい。だからこそ厄介だった」

「あの女、そういうの上手いものね」

 ローザは頷く。

「ルシアンが教団側の人間であることも、あの人は知っていた。私も途中で知った。そのうえで盤面に乗った。勝てると思ったの」

「勝てなかった」

「ええ」

 ローザは手を握った。爪が掌へ食い込むほどではないが、その白さだけで十分だった。

「敵戦力の見積もりを誤った。ルシアンの執着も、教団がどこまで人の命を素材にするかも、甘く見た。私は死を偽装して逃げるしかなかった。父を城に残し、クロエを置いて」

「ローザ」

「言わせて」

 ローザは遮った。

「リーゼロッテは、それを見越していた可能性がある」

 室内の空気が、ほんの少し重くなった。

 サニーは背もたれに寄りかかる。だらしない姿勢に見えるはずなのに、体の中心だけはまったく緩んでいなかった。

「西部領を傷つけた。クロエを十一年分、母の死に縛った。あなたにも、私を救えなかったと思わせた」

「それで?」

「それでも、あの人にとっては、必要な実験だったのだと思う」

 ローザの言葉は、謝罪ではなかった。

 弁解でもない。

 ただ、事実を床に並べていく声だった。

 サニーはようやく茶へ手を伸ばした。飲むためではなく、湯呑みを指先で回すためだった。中身はとっくに冷えている。熱が抜けた茶は、妙に正直な色をしていた。

「つまり、あいつはまた、人の人生を盤面にしたわけね」

「ええ」

「ローザの分も、クロエの分も、西部領の領民の分も」

「ええ」

「私の分も」

 ローザが目を伏せた。

「それも、あると思う」

 サニーは立ち上がった。

 椅子の脚が床を引っかく音は、思ったより小さかった。

「王都へ行くわ」

「止めないわ」

「止めたら置いていく」

「知っている」

 ローザはそう言って、今度は少しだけ笑った。

「ただ、サニー」

「何」

「死なせられると思って行かないで」

 サニーはローザを見た。

 十一年前、死んだと思っていた先輩が、今は生きた顔でこちらを見ている。腹立たしいくらいに大人の顔だった。死ななかった者の顔。死ねなかった者の顔。

「分かってる」

 サニーは扉へ向かった。

「だから殴りに行くのよ」

 王都へ戻る手続きは早かった。

 第七班隊長の権限を使い、最低限の報告を残し、後処理の指揮をナタリーへ投げる。クロエたちには会わなかった。今会えば、何かを言わなければならなくなる。言うべき言葉は、まだ喉の奥で形になっていなかった。

 行政区の執務室は、いつも通り整っていた。

 扉の外に人払いがされている。密室。完全な二人きり。そういう形を作ったのは、サニーではない。

「早かったね」

 リーゼロッテは机の向こうで書類に目を通していた。

 金髪。青い瞳。どこにでもいそうで、どこにもいない女。

 魔王は顔を上げ、芝居がかった微笑みを浮かべた。

「ローザは元気だったかな」

 銀の光が走った。

 リーゼロッテの首が落ち、書類の上に血が散った。

 音は遅れて来た。椅子が軋み、床に何か重いものが転がる。サニーは一歩も動かなかった。

 次の瞬間、リーゼロッテは机の横に立っていた。

 落ちた首も、椅子に残った胴も、そのままそこにある。

「ローザの分?」

「そう」

 サニーは答えた。

「受け取ったよ」

 リーゼロッテは、自分の死体を視界の端に置いたまま頷いた。

 銀がまた閃く。

 二度目は胸だった。心臓を裂き、背後の壁に血を叩きつける。リーゼロッテの体が崩れた時には、別のリーゼロッテが窓辺に立っていた。

「クロエの分だね」

「黙ってなさい」

「うん」

 返事は素直だった。

 素直すぎて、余計に腹が立った。

 三度目は腹を裂いた。肉が開き、床に血が落ちる。痛みを訴える声はなかった。リーゼロッテはただ少し目を細め、次の体で執務机の端に腰を預ける。

「西部領の領民の分」

「分かってるなら、喋らないで」

「分かっていることと、黙ることは別だからね」

 サニーは四度目の銀を構えた。

 部屋には、もう三つの死体があった。首のない体、胸を裂かれた体、腹を開かれた体が床を汚している。血の匂いは濃いのに、リーゼロッテだけが日常の顔をしている。

 異常だ。

 だが、異常であることすら、この女にとっては古びた日課なのだろう。

「これは私の分」

「君の怒りは、いつも分かりやすくて助かる」

 銀が、リーゼロッテの喉を貫いた。

 魔王の体が壁に叩きつけられ、そのまま床へ崩れる。四つ目の死体が、密室に増えた。

 沈黙が落ちた。

 サニーは息を吐く。

 すぐ隣で、新しいリーゼロッテが書類の束を拾い上げていた。指先が血で汚れることを気にも留めない。自分の死体を避けるために、ほんの少しだけ足の位置を変える。その仕草が、どうしようもなく自然だった。

「満足した?」

「するわけないでしょ」

「だろうね」

 リーゼロッテは微笑んだ。

 その笑みの奥に、ほんの一瞬だけ、待ち望んだ終わりを取り逃がした者の空洞が見えた気がした。

「でも、生きてる」

 サニーは言った。

「あんたも、ローザも、クロエも。生きてさえいれば、何とかなることはある」

 言った瞬間、リーゼロッテの表情が止まった。

 それは怒りではなかった。悲しみでもない。長い長い時間の底から、腐った水が静かに浮いてくるような変化だった。

「いい言葉だね」

 リーゼロッテの声は、平坦だった。

「とても、君らしい」

「気に入らなかった?」

「うん」

 魔王は笑った。

 笑ったのに、目がまったく笑っていなかった。

「生きていれば何とかなる。忘れず、諦めず、次へ繋げれば、いつか報われる。そう信じられる者は、本当に強い。眩しいほどに」

 リーゼロッテは、自分の首のない死体を見下ろした。

「でもね、サニー。生きていることそのものが、もう痛みでしかない者もいる」

 サニーは何も言わなかった。

 言えば、また何かを踏む気がした。

 踏んだところで、この女は死なない。崩れない。終わらない。ただ、壊れた場所を少しだけ見せるだけだ。

「君は私を殺せる日が来るのかな」

 リーゼロッテは問う。

「来たらいいね」

 サニーは答えた。

「その時は、ちゃんと一回で終わらせてあげる」

「楽しみにしているよ」

 密室には四つの死体が残っていた。

 その中心で、魔王はいつもの顔に戻る。

 サニーは扉へ向かった。手に残る銀の気配は、まだ消えていない。けれど、怒りの行き先はもう少しだけ遠くなっていた。

 理解できない。

 共感もできない。

 それでも、あの女がただ楽しんでいるわけではないことだけは、嫌でも分かってしまった。

 分かったところで、許す理由にはならなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ