第32話
サニーは、シュヴァリエ城の応接室で冷めた茶を見ていた。
クロエが執務室を使っているから、とローザは言った。母を取り戻したばかりの娘が、十一年分の空白を抱えたまま領主の席に座っている。その事実を思えば、応接室の少し窮屈な椅子くらい我慢する理由になる。
ローザは向かいに座っていた。
窓の外では、西部領の海が昼の光を鈍く返している。城のあちこちにはまだ戦闘の跡が残り、廊下を行き交う者たちの足音にも、勝利の浮つきより後始末の重さがあった。
「子どもたちには、まだ聞かせない方がいいと思ったの」
ローザの声は、いつもの軽さを半分ほど失っていた。
「聞かせたら、あの子たちは自分のところへ原因を探しに行くでしょう。クロエも、桐子ちゃんも、アイギスちゃんも」
「でしょうね」
サニーは茶に手をつけなかった。
「で、私には聞かせるの」
「あなたは原因を探す前に、殴る相手を決められるもの」
「褒めてる?」
「信頼しているのよ」
ローザは笑おうとして、うまく笑えなかった。
その顔を見た瞬間、サニーの内側で、残っていた温度がすっと下がった。怒りは熱いものだと思われがちだが、本当に扱い慣れた怒りは冷える。指先まで澄んで、余計な揺れが消える。
「十一年前の作戦は、魔神教団の一掃が目的だった」
ローザは言った。
「西部領に入り込んでいた教団の枝を、まとめて炙り出して切る。そのために、餌が必要だった。ローザ・シュヴァリエという領主、シュヴァリエ家、そして、教団側に深く食い込んでいたルシアン」
「ルシアンを夫の位置に入れたのは」
「リーゼロッテ」
短い名前が、応接室に落ちた。
サニーは瞬きをしなかった。
「あいつが?」
「ええ。形式上は複数の貴族家と行政上の調整を経た、まっとうな婚姻記録だった。誰が見ても、手続きは正しい。だからこそ厄介だった」
「あの女、そういうの上手いものね」
ローザは頷く。
「ルシアンが教団側の人間であることも、あの人は知っていた。私も途中で知った。そのうえで盤面に乗った。勝てると思ったの」
「勝てなかった」
「ええ」
ローザは手を握った。爪が掌へ食い込むほどではないが、その白さだけで十分だった。
「敵戦力の見積もりを誤った。ルシアンの執着も、教団がどこまで人の命を素材にするかも、甘く見た。私は死を偽装して逃げるしかなかった。父を城に残し、クロエを置いて」
「ローザ」
「言わせて」
ローザは遮った。
「リーゼロッテは、それを見越していた可能性がある」
室内の空気が、ほんの少し重くなった。
サニーは背もたれに寄りかかる。だらしない姿勢に見えるはずなのに、体の中心だけはまったく緩んでいなかった。
「西部領を傷つけた。クロエを十一年分、母の死に縛った。あなたにも、私を救えなかったと思わせた」
「それで?」
「それでも、あの人にとっては、必要な実験だったのだと思う」
ローザの言葉は、謝罪ではなかった。
弁解でもない。
ただ、事実を床に並べていく声だった。
サニーはようやく茶へ手を伸ばした。飲むためではなく、湯呑みを指先で回すためだった。中身はとっくに冷えている。熱が抜けた茶は、妙に正直な色をしていた。
「つまり、あいつはまた、人の人生を盤面にしたわけね」
「ええ」
「ローザの分も、クロエの分も、西部領の領民の分も」
「ええ」
「私の分も」
ローザが目を伏せた。
「それも、あると思う」
サニーは立ち上がった。
椅子の脚が床を引っかく音は、思ったより小さかった。
「王都へ行くわ」
「止めないわ」
「止めたら置いていく」
「知っている」
ローザはそう言って、今度は少しだけ笑った。
「ただ、サニー」
「何」
「死なせられると思って行かないで」
サニーはローザを見た。
十一年前、死んだと思っていた先輩が、今は生きた顔でこちらを見ている。腹立たしいくらいに大人の顔だった。死ななかった者の顔。死ねなかった者の顔。
「分かってる」
サニーは扉へ向かった。
「だから殴りに行くのよ」
王都へ戻る手続きは早かった。
第七班隊長の権限を使い、最低限の報告を残し、後処理の指揮をナタリーへ投げる。クロエたちには会わなかった。今会えば、何かを言わなければならなくなる。言うべき言葉は、まだ喉の奥で形になっていなかった。
行政区の執務室は、いつも通り整っていた。
扉の外に人払いがされている。密室。完全な二人きり。そういう形を作ったのは、サニーではない。
「早かったね」
リーゼロッテは机の向こうで書類に目を通していた。
金髪。青い瞳。どこにでもいそうで、どこにもいない女。
魔王は顔を上げ、芝居がかった微笑みを浮かべた。
「ローザは元気だったかな」
銀の光が走った。
リーゼロッテの首が落ち、書類の上に血が散った。
音は遅れて来た。椅子が軋み、床に何か重いものが転がる。サニーは一歩も動かなかった。
次の瞬間、リーゼロッテは机の横に立っていた。
落ちた首も、椅子に残った胴も、そのままそこにある。
「ローザの分?」
「そう」
サニーは答えた。
「受け取ったよ」
リーゼロッテは、自分の死体を視界の端に置いたまま頷いた。
銀がまた閃く。
二度目は胸だった。心臓を裂き、背後の壁に血を叩きつける。リーゼロッテの体が崩れた時には、別のリーゼロッテが窓辺に立っていた。
「クロエの分だね」
「黙ってなさい」
「うん」
返事は素直だった。
素直すぎて、余計に腹が立った。
三度目は腹を裂いた。肉が開き、床に血が落ちる。痛みを訴える声はなかった。リーゼロッテはただ少し目を細め、次の体で執務机の端に腰を預ける。
「西部領の領民の分」
「分かってるなら、喋らないで」
「分かっていることと、黙ることは別だからね」
サニーは四度目の銀を構えた。
部屋には、もう三つの死体があった。首のない体、胸を裂かれた体、腹を開かれた体が床を汚している。血の匂いは濃いのに、リーゼロッテだけが日常の顔をしている。
異常だ。
だが、異常であることすら、この女にとっては古びた日課なのだろう。
「これは私の分」
「君の怒りは、いつも分かりやすくて助かる」
銀が、リーゼロッテの喉を貫いた。
魔王の体が壁に叩きつけられ、そのまま床へ崩れる。四つ目の死体が、密室に増えた。
沈黙が落ちた。
サニーは息を吐く。
すぐ隣で、新しいリーゼロッテが書類の束を拾い上げていた。指先が血で汚れることを気にも留めない。自分の死体を避けるために、ほんの少しだけ足の位置を変える。その仕草が、どうしようもなく自然だった。
「満足した?」
「するわけないでしょ」
「だろうね」
リーゼロッテは微笑んだ。
その笑みの奥に、ほんの一瞬だけ、待ち望んだ終わりを取り逃がした者の空洞が見えた気がした。
「でも、生きてる」
サニーは言った。
「あんたも、ローザも、クロエも。生きてさえいれば、何とかなることはある」
言った瞬間、リーゼロッテの表情が止まった。
それは怒りではなかった。悲しみでもない。長い長い時間の底から、腐った水が静かに浮いてくるような変化だった。
「いい言葉だね」
リーゼロッテの声は、平坦だった。
「とても、君らしい」
「気に入らなかった?」
「うん」
魔王は笑った。
笑ったのに、目がまったく笑っていなかった。
「生きていれば何とかなる。忘れず、諦めず、次へ繋げれば、いつか報われる。そう信じられる者は、本当に強い。眩しいほどに」
リーゼロッテは、自分の首のない死体を見下ろした。
「でもね、サニー。生きていることそのものが、もう痛みでしかない者もいる」
サニーは何も言わなかった。
言えば、また何かを踏む気がした。
踏んだところで、この女は死なない。崩れない。終わらない。ただ、壊れた場所を少しだけ見せるだけだ。
「君は私を殺せる日が来るのかな」
リーゼロッテは問う。
「来たらいいね」
サニーは答えた。
「その時は、ちゃんと一回で終わらせてあげる」
「楽しみにしているよ」
密室には四つの死体が残っていた。
その中心で、魔王はいつもの顔に戻る。
サニーは扉へ向かった。手に残る銀の気配は、まだ消えていない。けれど、怒りの行き先はもう少しだけ遠くなっていた。
理解できない。
共感もできない。
それでも、あの女がただ楽しんでいるわけではないことだけは、嫌でも分かってしまった。
分かったところで、許す理由にはならなかった。




