EX13
リリー・セヴァライドは、届いた封印容器を前にしてしばらく黙っていた。
黙っていたのは、感動していたからではない。
面倒なものが来た、と思っていたからだ。
第7班から回ってきた回収品は、いつもだいたい面倒だ。壊れた魔導具、未知の毒、変な魔獣の角、サニーが説明を省略したまま投げてくる何か。今回は西部領で使われた魔法無効化装置と、別枠で扱えと赤字で書かれた微細な残滓だった。
書類の端に、サニーの短い注記がある。
魔力でも気でもない。たぶんあんた向き。
「雑」
リリーは呟いた。
だが、否定はしない。
自分向きであることは、封印容器を見た時点で分かっていた。
まず魔法無効化装置を確認する。
こちらは既知の範囲だ。過去に開発された、忌々しい研究の系譜に連なる装置。不滅の魔石の破壊を目的とした研究から派生し、魔術式の構築を阻害し、発動済みの魔法すら維持不能にする。照明型の据え置き装置と、体内埋め込み型の小型装置。どちらも構造は嫌らしいが、未知ではない。
解析は必要だ。
量産経路、改造手術の手順、資金の流れ、どの程度まで不滅の魔石を使っているか。確認すべき項目はいくらでもある。
不愉快でもある。
人の身体を装置の容器にする発想そのものは、研究史の中に何度も顔を出してきた。効率、適性、戦場での運用性。そういう言葉で包めば、倫理の腐臭は少し薄まる。だが薄まるだけで消えはしない。
リリーは倫理的に清廉な研究者ではない。
それでも、雑な外法は嫌いだった。
だが、リリーの興味はすぐ隣の容器へ向いていた。
透明な結晶板の上に、見えない傷のようなものが残っている。
光ではない。
魔力でもない。
気でもない。
それなのに、そこに何かがあったことだけは分かる。
「なるほど」
リリーは椅子に座り直した。
興味深い。
とても興味深い。
そして、少し怖い。
怖いと思えるものは貴重だ。リリーは大抵のものを理解できる。理解できなければ分解し、分解できなければ観察し、観察できなければ条件を変えて再現を試みる。世界の多くは、その手順のどこかでリリーの前に膝をついた。
だが、これは違う。
膝をつかせる対象なのかどうかも分からない。
リリーは記録用の魔導具を起動しようとして、やめた。
魔導具の記録に乗る保証がない。むしろ、機械的な観測を先に当てると、何かを取り逃がす気がした。
まず、自分の目で見る。
魔女としてではなく、研究者としてでもなく、ただ未知を前にした一個の生き物として。
残滓は静かだった。
サニーの報告によれば、白銀桐子という少女の手に槍の形で現れ、黒く変質した対象を貫いたという。アンチ・マジックの影響下でも消えず、不滅の魔石による強化を削った。発現者は詳細を理解していない。
魔力ではない。
気でもない。
なら、何か。
第三の力、という言い方は簡単だ。
だが、簡単な言葉は危険だ。分類できた気になって、分かったつもりになる。リリーはそれを嫌う。未知は未知のまま、できる限り正確に置いておくべきだ。
「神威、ね」
報告書の別紙に、その語があった。
誰が最初にそう呼んだのかは曖昧だ。発現者本人の感覚か、現場で聞いた者の解釈か、古い資料に残る語と偶然一致したのか。まだ分からない。
神。
その文字を見た瞬間、リリーの指先が少しだけ止まった。
神という概念は面倒だ。
信仰の対象としての神。
世界の仕組みを人格化した神。
観測できないものを仮置きするための神。
あるいは、本当にそこにいる何か。
リリーは、最後の可能性を笑わなかった。
笑えなかった。
魔女として生まれた自分が、何を目的としているのか分からない。おおよそ何でもできる。だからこそ、何をすべきなのか分からない。その問いは、いつもリリーの内側にある。
もし、神と呼ばれるものが本当にいるなら。
もし、その領域から力の一部が落ちてきたのなら。
そこには、自分の問いに触れる手がかりがあるかもしれない。
同時に、存在ごと消し飛ばされる危険もある。
リリーは笑った。
怖い。
楽しい。
怖いから楽しい、という言い方は倫理的にどうかと思うが、事実なので仕方がない。
ただし、今すぐ発現者本人に会うべきではない。
白銀桐子は負傷している。精神的にも、戦場で人を殺した直後だ。そんな相手へ研究者が目を輝かせて踏み込むのは、さすがに友人たちに怒られる。
サニーには確実に蹴られる。
ローザにも嫌な顔をされる。
ステラがいたら静かに圧をかけてくる。
「今回は我慢」
リリーは自分に言い聞かせた。
我慢できる自分は偉い。
誰も褒めてくれないので、自分で褒める。
代わりに、残滓だけを見る。
結晶板へ、非接触式の観測術式を組む。魔力を当てるのではなく、周辺の変化だけを読む。水面の波で、沈んだ石の形を推測するようなものだ。
反応は薄い。
だが、ゼロではない。
術式の外側に、何かがある。こちらの問いに答えるのではなく、問いそのものを眺め返しているような感触。観測しているはずのリリーが、逆に観測されるような違和感。
背筋が震えた。
リリーは術式を止めた。
興奮で指が少し冷えている。
観測を続けたい。
もう一段だけ深く触れたい。
その欲求は、喉元まで来ていた。だが、ここで踏み込む研究者は長生きしない。未知に対して礼を失った者から順番に死ぬ。リリーはその程度には、自分の好奇心を信用していなかった。
「これは、順番を間違えると死ぬやつ」
独り言が研究室に落ちる。
軽い言い方になったが、判断は本気だった。
神威らしき残滓には、魔法無効化装置のような既存研究とは違う危うさがある。分解して理解する対象ではなく、接触の作法から考えなければならない対象。
なら、人手がいる。
魔術式を普通とは違う形で見る者。
人間界側の視点を持ち、魔界の常識に染まりすぎていない者。
コーイチ。
リリーは端末を引き寄せた。
まだ詳しい内容は送らない。神だの神威だのと書けば、向こうで余計な警戒を生む。まずは軽く、調査の依頼として投げる。
人間界側で、神に関する伝承と、魔術式を介さない異常現象の記録を拾ってほしい。
そこまで打って、リリーは一度手を止めた。
少しだけ楽しくなりすぎている。
倫理観を机の端へ追いやる癖は、自覚している。だから、今回は一行足した。
発現者本人への接触は保留。負傷回復と本人の同意を待つこと。
「よし」
リリーは頷いた。
研究者としては遅い。
友人としては、たぶん正しい。
封印容器の中で、見えない傷のような残滓は静かに沈黙している。
その沈黙が、リリーには呼び声のように聞こえた。
まだ触れるな。
けれど、いずれ来い。
そんな都合のいい解釈だと分かっていても、胸の奥は高鳴っていた。
神がいるのかどうか。
いるなら、何を見ているのか。
そして自分は、何のために生まれた魔女なのか。
答えはまだ遠い。
だが、初めてその方向へ続く細い線が見えた気がした。
リリーは封印容器に視線を戻し、その細い線を切らないよう、慎重に記録を始めた。




