EX12
エリックは、寒い土地で生まれた。
海が近く、冬が長く、空の色がよく変わる町だった。夏には観光客が来る。古い石畳の道を歩き、港で写真を撮り、現地の魚料理を食べて帰っていく。エリックは小さな旅行案内所で働き、地図を渡し、片言の外国語で道を教え、たまに酔った客の相手をした。
平凡だった。
退屈だと思う日もあった。
けれど、今思えば、それは十分に幸福だった。
拉致された日のことは、途切れ途切れにしか覚えていない。
仕事帰りだった。港から少し離れた路地で、見慣れない灯りを見た。古い扉が開いているように見えた。誰かの声がした気がして、近づいた。
その日は、観光客の若い夫婦に近くの展望台を案内した。冬には閉まる道だから、今のうちに行った方がいいと伝えた。昼には同僚と魚のサンドイッチを食べ、母へ週末に顔を出すと短いメッセージを送った。
何も特別な日ではなかった。
だから、余計に現実味がない。
次に目を覚ました時、知らない部屋にいた。
石の壁。
見たことのない文字。
手首を縛る金属。
そして、魔法。
最初に見せられたのは、火だった。
男が指を振ると、何もない空間から炎が出た。手品だと思った。映画の撮影か、悪趣味な誘拐犯の演出だと思おうとした。だが、炎は本物で、熱も匂いもあった。
次に、傷を塞がれた。
殴られて切れた口元が、青い光でふさがった。
それから、別の男が腕を失った。
目の前で。
叫び声。
血。
その腕も、魔法で焼かれた。
エリックの中で、世界の形が壊れていった。
彼らは言った。
魔法を使う者たちは、お前たちを家畜のように扱える。
お前の世界は、守られているのではない。知らされていないだけだ。
抵抗する力がなければ、いつか踏みにじられる。
最初は信じなかった。
信じたくなかった。
だが、何日も閉じ込められ、魔法の脅威を見せられ続けると、疑う力の方が先に折れた。目の前で起きることは本物だった。火も、傷も、痛みも、死も。
なら、彼らの言葉も本当なのではないか。
そう思うようになった。
次に見せられたのが、魔法を消す装置だった。
小さな石のようなもの。金属の枠に収められ、低く唸っている。魔法使いが炎を出そうとしても、火は形にならなかった。青い光も、空中で崩れた。
エリックは、その瞬間に初めて息を吸えた気がした。
消せる。
あの理不尽な力を、消せる。
恐怖が、別のものへ変わっていくのが分かった。
怒り。
優越感。
自分にも、あいつらを引きずり下ろせるかもしれないという甘い熱。
手術を受けるかと問われた時、エリックは泣いた。
怖かったからではない。
選ばれたと思ったからだ。
馬鹿げている。
今なら分かる。
だが、その時のエリックは本気だった。自分はただの案内所の職員ではなくなる。魔法を使う者たちを止める側になる。家畜ではなく、狩る側になる。
同じ部屋には、他にも人がいた。
観光客らしい女。作業服の男。学生に見える少年。皆、別々の言葉を話していたが、恐怖の形は似ていた。最初は互いに励まし合った。ここから出よう、警察へ行こう、家へ帰ろう。そんな言葉を交わした。
けれど、魔法を見せられるたびに、会話は変わった。
帰っても無駄だ。
誰も信じない。
なら、力を持つしかない。
誰が最初にそう言ったのか、もう覚えていない。もしかすると、エリック自身だったのかもしれない。
手術は痛かった。
麻酔のようなものはあったが、完全には消えなかった。胸の下を開かれ、異物を入れられる感覚があった。体の中で、冷たいものが脈を打つ。傷が塞がった後も、そこだけ自分の身体ではないようだった。
それでも、立てた。
魔法使いが近づくと、その魔法が乱れる。
エリックは笑った。
周りの者たちも笑った。
皆、同じ目をしていた。
怖がっていた者が、怖がらせる側へ回った時の目だ。
その後の訓練で、エリックは初めて人を傷つけた。
相手は魔法を使う若い男だった。捕らえられ、抵抗する力もほとんど残っていなかった。教官役の男は、近づけと言った。魔法を消し、膝を折れと命じた。
エリックは従った。
男の目に浮かんだ恐怖を見た時、自分が勝ったのだと思った。
その感覚が、ひどく甘かった。
そこで引き返すべきだった。
だが、引き返さなかった。
西部領という場所へ送られた夜、エリックはもう自分の町を思い出さないようにしていた。
思い出すと、戻りたくなる。
戻りたいと思えば、自分が何をしたのか考えてしまう。
訓練で殺した相手。
命令で襲った集落。
魔法使いだからという理由で、痛めつけてもいいと思った人たち。
自分は被害者だ。
そう言い続けなければ立てなかった。
城ではなく、外縁の葡萄畑へ向かう班に配属された。
葡萄畑。
エリックは少しだけ故郷を思い出した。夏の観光客がワインを飲み、港の店で笑っていた。そういう光景と、目の前の畑が重なった。
すぐに振り払った。
ここは敵の土地だ。
魔法使いの土地だ。
焼けばいい。
そう言い聞かせた。
だが、畑には人がいた。避難する農夫。守ろうとする兵。赤い髪の女。
女が斧を投げた。
炎が走る。
エリックの隣にいた男が倒れた。
魔法だ。
憎むべき力。
エリックは前へ出た。胸の下の装置が低く震える。近づけば、あの炎も消える。自分たちは魔法使いを引きずり下ろせる。
女の斧が揺らいだ。
効いている。
エリックは笑おうとした。
次の瞬間、足元が爆ぜた。
斧は魔法だけではなかった。投げられた鉄があり、炎があり、爆発があり、何より女は距離を分かっていた。魔法を消せば勝てると思っていたエリックたちより、ずっと戦場を見ていた。
膝が砕けた。
倒れる。
土の匂いがした。
葡萄の葉が顔に触れる。
遠くで、女が何かを命じている。声は冷静だった。殺すことだけを目的にしていない。守るために動いている声だった。
エリックは、故郷の案内所を思い出した。
机の上の安いコーヒー。
壁に貼った地図。
港で迷った老夫婦。
昼休みに食べた魚のスープ。
戻りたい。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
戻れない。
誰かに連れてこられた。
騙された。
脅された。
壊された。
それは本当だ。
だが、手術台に乗った時、頷いたのは自分だった。
魔法使いを憎む言葉に酔い、力を得たと思い、他人を踏みにじる側へ回ることを選んだのは自分だった。
被害者でいるだけなら、まだ戻れたのかもしれない。
けれど、自分はその先へ行った。
エリックは土を掴もうとした。
指が動かない。
胸の下の装置が、まだ冷たく震えている。
最後に浮かんだのは、海の色だった。
故郷の海か、西部領の海か、もう分からなかった。
ただ一つだけ、分かったことがある。
選んだ。
選ばされたのではなく、最後の一歩は自分で選んだ。
その自覚だけが、暗闇の中で消えずに残った。
だから誰かに許される結末など、もう残っていなかった。
エリックは、その重さごと沈んでいった。
自分の選択の底へ。




