EX11
執事は、使用人の名簿が変わった日付を覚えている。
最初は一人だった。
長く厨房を任されていた女中が、親族の介護を理由に暇を願い出た。書類は整っていた。給金の未払いもなく、退職金も相場より多い。引き継ぎも丁寧で、表向きはどこにも瑕疵がない。
次は庭師だった。
その次は馬車係。
それから、掃除係が二人。
いずれも手続きは正しく、本人の署名もある。脅された痕跡は見えない。シュヴァリエ家の運営上、止める理由を見つけられなかった。
だからこそ、悪質だった。
強引な追放なら止められる。不当解雇なら異議を唱えられる。だが、正しい形をした入れ替えは、刃を鞘に入れたまま近づいてくる。
ルシアンは、そういう手続きをよく知っていた。
声を荒らげることは少ない。脅しを表へ出すことも少ない。必要な書類を揃え、必要な判を押し、誰かが異議を唱えようとした時には、すでに正当な理由が机の上に積まれている。
執事は何度も差し戻した。
この者は長年勤めている。この時期の配置換えは城の運営に支障が出る。クロエ様の生活環境が変わりすぎる。
しかし、全てはゆっくり押し返された。
執事は、古い使用人たちと連絡を取り続けた。
安全か。
困窮していないか。
不審な人物に接触されていないか。
できることは少なかった。城に残る自分が動きすぎれば、クロエが疑われる。彼女の周囲に目が集まり、守るべきものがさらに危うくなる。
クロエを守る。
それが最優先だった。
十一年前から、ずっと。
執事は廊下を歩いた。
夜の城には、かつての足音がない。使用人はいる。礼も取る。仕事もする。だが、家に仕える者の呼吸ではなかった。主人の体調を気にする目ではなく、配置を確認する目。花瓶の水を替える手つきではなく、遮蔽物の位置を測る手つき。
クロエは気づいている。
完全ではないにせよ、違和感は覚えている。幼い頃からこの城で育った子だ。人の温度の変化には敏い。
だが、彼女は若い。
父と呼ぶべき男の権限が、どれほど合法的に城を侵食しているのかを正面から裁くには、まだ年齢と立場が足りない。
執事はそのことが悔しかった。
守ると言いながら、彼女に心休まらない我が家を歩かせている。
「クロエ様」
西部領へ戻った彼女に告げた言葉を、執事は思い返す。
お父上やその使用人を、あまり信用なさりませぬよう。
踏み込んだ警告だった。
だが、十分ではない。
ルシアンを警戒しろと、もっとはっきり言うべきだったかもしれない。いや、言ったところで証拠がなければ、クロエの立場を悪くするだけだったかもしれない。
何度考えても、答えは出ない。
執事にできたのは、退路を残すことだった。
古い調度品の保管区の周辺に人の出入りがあることには気づいていた。普段は使わないはずの扉に、わずかな擦れがある。床の埃の乱れ方が新しい。灯りの配置も変わっている。
中へ踏み込めば、おそらく何かを見つけられただろう。
だが、踏み込めばこちらが先に露見する。
執事は見張りの動きを記録し、古い使用人たちへ伝言を回し、城外にいる信頼できる者へ避難経路の確認を頼んだ。
クロエが客人を連れて戻ると知った時、迷った。
桐子とアイギス。
どちらも若い。
巻き込むべきではない。
しかし、サニー・アージェントが何も考えずに二人を寄越すはずがない。あの女は雑に見えて、子どもを捨て駒にはしない。ならば、二人の存在はクロエを守る手になる。
桐子は、まだこの世界に慣れていない目をしていた。だが、足運びには妙な古さがある。人を傷つける技術を、遊びではなく身体に入れられている者の動きだ。
アイギスは、若いのに周囲を見る目が落ち着いていた。盾役だと聞いていたが、なるほど、ただ前に立つだけの子ではない。あの二人なら、クロエの隣に立てるかもしれない。
そう思った自分を、執事は少しだけ恥じた。
子どもに期待している。
守るべき側の子どもたちに、守る手としての役割を見ている。
それでも、現実は綺麗ではない。
執事は二人にも警告した。
婉曲に。
必要なだけ。
それ以上を語れば、秘密が多すぎる自分の足元まで崩れる。
そして夜が来た。
照明が消えた時、執事は階段下の小部屋にいた。古い通信端末の前で、外部へ送る最後の確認をしていた。
魔導具の光が落ちる。
非常用の灯りも死ぬ。
代わりに、窓の外から月明かりと海光が入った。
始まった。
執事は立ち上がった。
戦闘の主役になる年齢ではない。剣も取れるが、若い頃のようには動けない。今の自分がすべきことは、戦うことではなく、通すべき者を通し、逃がすべき者を逃がし、残すべき証拠を残すことだ。
地下へ続く古い通路を開ける。
旧使用人の一部が外で待機しているはずだった。彼らは城へ戻ることを望んだ。クロエ様を助けたいと皆が言った。執事は全員を入れることはできなかったが、負傷者の受け入れと避難誘導だけは頼んでいた。
廊下の奥で悲鳴が上がる。
執事は足を止めない。
救える声と、救えない声を選ばなければならない。
その選別が、何より苦しい。
クロエを守るため。
その言葉は便利すぎる。多くのものを切り捨てる免罪符になってしまう。だが、執事にはそれでも選ぶしかなかった。
ローザと交わした約束がある。
クロエを守る。
たとえ恨まれても。
たとえ真実を話せないまま、冷たい老人だと思われても。
通路の扉を開くと、海風が流れ込んだ。
外にいた旧使用人が顔を上げる。
「状況は」
「城内で蜂起。クロエ様は客人二名と共に上階です。負傷者が出ます。受け入れを」
「あなたは」
「私は戻ります」
当然のように答える。
旧使用人は何か言いたげだったが、飲み込んだ。
執事は扉を閉め、城内へ戻った。
戦闘音が近くなっている。
若い声がする。桐子のものか、アイギスのものか。クロエの声も混じった気がした。
行きたい。
すぐに駆けつけたい。
だが、自分が駆けつけて何ができる。盾にも槍にもなれない老人が、ただ心配だけで現場へ飛び込めば、守るべき者の荷物になる。
執事は踵を返し、別の廊下へ向かった。
証拠を押さえる。
ルシアンが何を持ち込み、どこへ装置を仕込み、誰を入れ替えたのか。後でクロエが西部領を取り戻す時、必要になるものを残す。
それが、自分にできる戦いだった。
遠くで、ひときわ大きな音がした。
執事は一度だけ目を閉じる。
どうか、ご無事で。
祈りは役に立たない。
それでも、祈らずにはいられなかった。
証拠を抱えて生き残ること。
クロエが明日、父と呼ばれていた男の裏切りを裁く時、必要なものを差し出すこと。
そのためなら、今この瞬間に駆けつけたい衝動を殺す。
老いた手は震えていなかった。
震えていないことが、少し悲しかった。
名前を呼びたい人たちがいた。
けれど、その名を口にする資格が今の自分にあるのか、執事にはまだ分からなかった。
だから今は、ただ執事として動く。
名ではなく、役目で城に残る。
いつか名を呼べる日が来るとしても、それは今夜ではなかった。
今夜はまだ、影でよかった。




