EX10
桐子は、眠る前に右手を開いた。
掌には何も残っていない。傷もない。火傷の跡もない。あの槍を握った時に感じた熱は、もう皮膚の上には見つからなかった。
それでも、感触だけが残っている。
重いのか軽いのか分からない武器。握っているのに、自分の手の中だけに収まっていないもの。槍と呼ぶしかない形をしていたのに、槍という言葉では足りないもの。
神威。
そう呼べばいいのかもしれない。
そう呼んでいいのかもしれない。
けれど、まだ確信はなかった。どこかから名前だけが落ちてきたような気がして、その名前を自分のものにしていいのかも分からない。神の槍。あの光。借り物の力。手の中にあった何か。
呼び方が、定まらない。
定まらないまま、桐子の中に残っている。
名前を付ければ分かったことになる気がして、少し怖かった。
魔法も、最初はそうだった。武具創造という言葉を聞いた時、それが自分の力の名前だと教えられた。名前が付くと、世界の中に置き場所ができる。けれど、置き場所ができたからといって扱えるようになるわけではなかった。
銀の槍は、今でも不安定だ。
なら、あの光に神威という名前を置いたところで、桐子がそれを理解したことにはならない。
それでも、名前がなければ考えることすら難しい。
だから仮に置く。
仮のまま、何度も疑う。
客室の天井は高かった。
シュヴァリエ城の客室は、桐子がこれまで泊まったどの部屋よりも豪華だった。寝台は広く、布は柔らかい。窓の外からは海の音が聞こえる。医療班には、今度こそ寝ろと言われた。
だが、目を閉じるとルシアンの顔が出てくる。
最後の顔。
黒く変質した身体が、光に貫かれて止まる瞬間。
桐子は寝台の上で膝を抱えた。
怖い。
怖いのは、ルシアンを殺したことだけではない。
自分がそれを必要だと判断していることが怖い。
あの場で別の選択肢があったとは思えない。クロエは助けを求めた。アイギスは盾を失いながら守っていた。城の外でも誰かが戦っていた。ルシアンは止まらず、不滅の魔石で人の形から外れていこうとしていた。
だから止めた。
止めるために殺した。
黒峰流では、そう教わっている。拳を握るなら、相手の命に触れていることを忘れるな。敵対した相手が命をかけてくるなら、こちらも結果から目を逸らすな。
徹心の言葉は、いつも乱暴だった。
真希はその言葉を、笑いながら受け止めていた。桐子は横で、物騒なことを言う人だと思いながら、それでも身体に叩き込まれていた。
今になって、その言葉が形を持つ。
桐子は掌を閉じた。
ルシアンを殺した手。
真希を刺した力を持つ手。
同じ右手なのに、二つの記憶は同じ形をしていない。
真希の時は、何も選べなかった。
試合だった。審判がいた。観客がいた。相手は親友だった。負けたくなかった。置いていかれたくなかった。真希の背中が遠くて、焦って、怖くて、苦しくて、その全部が内側で膨らんだ。
気づいた時には、銀の光が貫いていた。
真希の腹を。
あの瞬間、自分は何も選んでいない。
殺すつもりも、止めるつもりも、傷つける覚悟もなかった。ただ制御できなかった力が、親友を刺した。
ルシアンの時は違う。
違うと言っていいのか、まだ分からない。
だが、あの時の桐子はクロエの声を聞いた。アイギスの背中を見た。自分が退けば誰が潰されるのかを知っていた。分からない力を握り、怖いと思いながら、それでも前へ出た。
それは、選んだということだ。
クロエの声は、まだ耳に残っている。
止めて。
西部領を救って。
短い言葉だった。けれど、その中には母を失ったと思っていた年月も、領主として立とうとしてきた意地も、父と呼ぶべき男に裏切られた痛みも混ざっていた。桐子が全部を理解できたわけではない。それでも、託されたことだけは分かった。
アイギスの背中も覚えている。
盾が消えたのに、彼女は下がらなかった。扉や家具を盾にして、クロエの前に立ち続けた。守る人は、盾がなくても守るのだと、桐子はあの場で知った。
だから、自分も退けなかった。
選んだから偉いわけではない。
選んだから許されるわけでもない。
選んだなら、背負う場所がはっきりするだけだ。
桐子は息を吐いた。
胸の奥が重い。けれど、あの試合の日からずっと絡まっていたものの一部が、少しだけほどけた気がした。
真希に会いたい。
会って、謝りたい。
生きていてほしい。
そして、もし許されるなら、もう一度向き合いたい。
だが、今のままでは駄目だ。
あの銀の槍も、神威かもしれないあの光も、どちらも桐子の理解を超えている。分からない力を分からないまま振るえば、また誰かを傷つける。
真希と再び向き合うなら、少なくとも、自分が何を握っているのかを知らなければならない。
魔力。
気。
武具創造。
神威。
言葉だけ並べると、どれも自分のものではないように見える。魔界に来てから、桐子の周りには知らない単語ばかり増えていく。けれど、知らないと言って目を逸らせば、あの日と同じだ。
桐子は寝台から降り、机に置かれていた紙を引き寄せた。
端末ではなく、紙だった。
うまく整理できる気はしない。それでも、何かを書かなければ眠れない気がした。
あの槍。
神威かもしれない。
魔力ではない。
気でもない。
借り物。
怖い。
でも、手放したらクロエとアイギスが死んでいた。
桐子はそこで筆を止めた。
言葉が幼い。
整理にもなっていない。
けれど、それでいいのかもしれない。今の桐子には、綺麗な報告書を書く力はない。これは誰かに見せるものではなく、自分が逃げないための覚え書きだ。
さらに書く。
ルシアンを殺した。
必要だった。
必要だったから、なかったことにはしない。
真希を刺した。
必要ではなかった。
制御できなかった。
ここを間違えない。
文字が少し滲んだ。
泣いているつもりはなかった。だが、目元を拭うと指が濡れていた。
桐子は紙を畳まなかった。
真希へ送れない手紙を書いた時と似ていると思った。
あの時も、書けば何かが許されるわけではなかった。ただ、書かなければ自分が逃げる気がした。今回も同じだ。ルシアンのことも、神威かもしれない力のことも、真希のことも、頭の中だけで回していると都合のいい形に変わってしまいそうだった。
紙に置く。
下手でも、幼くても、今の形で置く。
そうすれば、少なくとも明日の自分は今日の自分を誤魔化しにくくなる。
机の上に置いたまま、寝台へ戻る。
眠れるかどうかは分からない。
それでも、目を閉じることはできそうだった。
掌には何もない。
けれど、何かを握った記憶はある。
それを忘れないまま、桐子はゆっくり息を吐いた。
波の音が、遠くで繰り返している。
その規則正しさに少しだけ助けられながら、桐子はようやく目を閉じた。
眠りは浅いかもしれない。
それでも、逃げるためではなく明日また考えるために眠るのだと、今は思えた。
その違いだけは、今夜の桐子にも分かった。
それだけで十分だった。




