EX9
アイギス・アージェントは、報告文の一行目を書いては消した。
宛先は母、ステラ・アージェント。
公的な報告なら迷わない。発生日時、場所、敵戦力、味方被害、使用された装置、対応、結果。必要な項目を順に埋めればいい。感情は不要で、判断の理由だけを残せばよい。
だが、これは私信だった。
母に送る文であり、同時に自分の中で昨夜の戦いを整理するためのものでもある。
ステラは、アイギスの戦闘訓練に直接口を出しすぎる人ではなかった。必要な基礎は教える。危険な癖は直す。けれど、最後にどう立つかはアイギス自身に選ばせる。母であり、目標であり、いつか超えたい背中でもある。
だからこそ、弱音を書くのは難しい。
母なら受け止めてくれると分かっていても、母に心配をかけたいわけではなかった。
アイギスは端末を置き、包帯を巻かれた腕を見た。
盾が消えた感覚が、まだ手の中に残っている。
魔力を流し、形を与え、いつものように防御線を作ろうとした瞬間、輪郭が崩れた。発動済みの盾も維持できず、空気にほどけるように消えた。武具創造を失う。言葉にすれば短いが、実際には自分の骨を一本抜かれたような感覚だった。
アイギスはもう一度端末を手に取った。
今度は、消さずに書き始める。
母上へ。
西部領で発生した魔神教団残党による蜂起について、私は無事です。腕に軽傷を負いましたが、後遺症はありません。クロエも白銀も生きています。まず、そのことを先に伝えます。
敵は魔法無効化装置を使用しました。照明に偽装した据え置き型と、兵の体内に埋め込まれたと思われる小型です。前者は城内の魔導具を停止させ、後者は近接範囲で魔術式の構築を阻害しました。私の盾も消えました。
ここでアイギスは手を止めた。
私の盾も消えました。
その一文は、あまりに簡単だった。
母なら、この短さの奥にあるものを読んでくれるだろう。だが、読ませるだけでいいのか。自分の弱さを、母の理解力に預ける形になっていないか。
アイギスは続きを書いた。
正直に言えば、怖かったです。
盾を出せない私は、どれほど役に立てるのか。その迷いが一瞬ありました。けれど、クロエが弱体化し、白銀が前へ出ている状況で、迷い続ける余裕はありませんでした。城の扉、装飾鎧、卓、燭台、柱片、使えるものは何でも使いました。盾ではありません。ですが、防ぐことはできました。
母上なら、もっと上手くやったと思います。
そう書いてから、アイギスは眉を寄せた。
これは報告ではない。
ただの甘えだ。
消そうとして、やめた。
私信なのだから、少しは甘えてもいいのかもしれない。そう考えること自体が、まだ慣れなかった。
白銀は、魔法が封じられた戦場でよく動きました。黒峰流という人間界の武術が、あの状況では大きな意味を持ちました。クロエは魔法無効化の影響で戦力になれず、守られる側に回りましたが、最後まで折れてはいません。ルシアンを止め、西部領を救ってほしいと白銀へ託しました。
ルシアンは死亡しました。白銀が止めました。
細部は、正式な報告で共有されると思います。ただ、あの場にいた者として一つだけ書きます。白銀は必要なことをしました。私はそう判断しています。
アイギスは、そこで長く息を吐いた。
必要なことだった。
その判断に嘘はない。
だが、必要だったからといって何も残らないわけではない。桐子にもそう言った。自分にも同じ言葉が返ってくる。
私は、盾が消えても守る役割を手放さずに済みました。
けれど、守れたと胸を張るには、まだ足りません。クロエは傷つき、白銀は人を殺し、城は壊れました。私がもっと早く気づけていれば、もっと上手く防衛線を作れていればと考えます。
それでも、生きています。
母上が教えてくれた通り、守るとは、完全な結果を誇ることではなく、次に立つための場所を残すことなのだと思います。
アイギスは最後に、少し迷ってから付け足した。
母上。
私は、サニー教官の手を煩わせました。あの方が到着するまで持ちこたえることはできましたが、結果として多くを背負わせたと思います。そのことが悔しいです。
ですが、私はまだ強くなれます。
次に盾が消えても、もっと上手く守れるようになります。
どうか、心配しすぎないでください。
アイギス。
送信する前に、何度も読み返した。
硬い。
私信にしては硬すぎる。
けれど、今の自分にはこれが限界だった。母なら笑うかもしれない。あるいは、泣くかもしれない。どちらにせよ、読んでくれる。
アイギスは送信した。
返信は、思ったより早く来た。
アイギスへ。
まず、生きていてくれてありがとう。
腕の怪我が軽傷で済んだこと、クロエさんと白銀さんも生きていることを読んで、少しだけ呼吸が戻りました。あなたが無事だと分かるまで、私は何度も端末を見ていました。軍人としては落ち着くべきなのでしょうが、母としては無理でした。
盾が消えたのですね。
怖かったでしょう。
その一文を読んだ瞬間、アイギスは目を閉じた。
母は、そこを飛ばさなかった。
怖かったことを、弱さではなく事実として受け止めてくれた。
返信は続いている。
それでも、あなたは守った。扉でも、鎧でも、卓でも、柱片でも、使えるものを使って守った。それは立派な盾です。武具創造で作ったものだけが、あなたの盾ではありません。あなたが誰かの前に立つなら、その時そこにあるものは何でも盾になります。
サニーに手を煩わせたと書いてありましたね。
その気持ちは、少し分かります。私も、あの人には何度も助けられ、何度も手を煩わせました。今回も、あなたたちのことで彼女に重いものを背負わせたのだと思うと、胸が痛みます。
けれど、アイギス。
助けを必要とすることは、恥ではありません。助けられたなら、次に立てばいい。あなたが生きて戻り、悔しさを書けているなら、それは次へ進める証です。
白銀さんのことも、責めずにいてくれてありがとう。
必要なことと、残るものは違う。あなたがそれを分かっているなら、きっと彼女の隣に立てます。
帰ってきたら、顔を見せてください。
報告ではなく、ただの話をしましょう。
母より。
アイギスは端末を膝の上に置いた。
胸の奥が、ゆっくり緩んでいく。
泣くほどではない。
泣くほどではないと、自分に言い聞かせた。
けれど少しだけ、目元が熱かった。
母は、強い。
強い人が、心配したと書いてくれた。
それだけで、アイギスは自分がまだ子どもであることを思い出した。十六歳前後。戦場へ出て、友人を守り、人を殺した仲間の隣に立って、それでも母からの返信一つで目元が熱くなる年齢。
恥ずかしいとは思わなかった。
むしろ、その事実が少しだけありがたかった。
盾が消えても、守るものは残る。
母の言葉は、アイギスの中で静かに形を取った。
次に戦場へ立つ時、自分はきっとこの言葉を思い出す。
そして、その時は今日より少しだけ上手く立つ。
母にそう返せる自分でいたいと思った。
アイギスは返信を保存し、しばらく消えない画面の光を見つめていた。
胸の奥に、次へ進むための静かな重さが残った。




