EX8
クロエ・シュヴァリエは、母の私室の扉の前で足を止めた。
十一年前から、ほとんど入っていない部屋だった。
鍵がかかっていたわけではない。立ち入りを禁じられていたわけでもない。けれど、クロエはその扉を開けるたびに、自分が何かを盗んでいるような気がしていた。母の匂い、母の時間、母がそこにいたという証を、自分の寂しさで荒らしてしまうような気がしていた。
その部屋の中から、今は声がする。
「入っていいわよ」
ローザの声だった。
生きている声。
クロエは深く息を吸い、扉を開けた。
部屋の空気は、記憶より少し乾いていた。長く使われていなかった部屋特有の静けさがある。窓は開けられ、夜の海風が薄いカーテンを揺らしていた。机、寝台、壁の絵、古い香水瓶。どれも母のものなのに、母が不在だった年月の埃をかぶっている。
ローザは窓辺に立っていた。
金の髪が月明かりを受けて淡く光る。肖像画ではない。記憶の中の人でもない。少し疲れた顔をして、けれど確かにそこにいる母だった。
「座って」
ローザが椅子を示す。
「母様の部屋なのに、私が座っていいの」
「私の娘でしょう」
その一言で、クロエは少しだけ胸が痛くなった。
娘。
ずっと欲しかった言葉だった。けれど、今さら簡単に受け取るには重すぎた。
クロエは椅子に座った。ローザは向かいではなく、少し斜めの位置へ腰かける。正面から問い詰め合う形にならないように、意識しているのだと分かった。
「話してもらうことが、たくさんあります」
「ええ」
「怒っています」
「当然ね」
「会えて、嬉しいとも思っています」
「それも、嬉しい」
ローザは逃げなかった。
その態度が、余計にクロエの言葉を詰まらせる。責めたい。泣きたい。なぜ、と聞きたい。けれど、聞いた瞬間に母がまた遠くへ行ってしまうような恐怖もある。
「どこに、いたの」
最初に出たのは、それだった。
ローザは少し考えた。
「人間界。主に、あちらで言うイタリア近辺ね。海が近くて、古い街が多くて、ご飯が美味しいところ」
「ご飯」
「大事よ」
ローザは真面目な顔で言った。
「とても大事。生き延びるには、寝床と情報と美味しいご飯が必要なの」
クロエは呆れたかった。
だが、うまく呆れられなかった。母の口から出る人間界の話が、あまりにも普通だったからだ。
「具体的には」
「都市名は、まだ伏せさせて。関わった人たちがいるから」
「分かりました」
「でも料理名ならいいでしょう。パスタ、リゾット、ミネストローネ、アクアパッツァ。あと、薄い生地にトマトとチーズを乗せて焼いたもの」
「それは知っています。養成所の食堂にも似たものがありました」
「似たものではなく本場を食べなさい。人生観が変わるわ」
「十一年ぶりの母娘の会話で、人生観を料理に握らせないでください」
言ってから、クロエは自分で驚いた。
声が少しだけ軽かった。
ローザも気づいたのだろう。目元を緩める。
「こういう話からしか始められないのよ」
「なぜ」
「重い話だけを積み上げると、潰れるから」
海風が入る。
カーテンが揺れ、部屋の香りが少し変わった。
「私は、あなたを置いていった」
ローザは言った。
クロエの指が膝の上で強張る。
「理由はある。事情もある。言えないことも、まだある。でも、あなたから見れば置いていかれたことに変わりはない」
「はい」
「だから、ごめんなさい」
謝罪は静かだった。
大げさでも、泣き崩れるものでもない。ローザは背筋を伸ばしたまま、クロエを見ていた。
「それで許せると思わないでください」
「思っていないわ」
「私は、母様みたいになろうとしました」
「うん」
「強くて、誇り高くて、西部領を背負える人に。誰にも弱いと言われないように。母様の名前を汚さないように」
言葉にすると、胸の奥に溜まっていたものが熱を持った。
「でも、苦しかった」
ローザの顔が歪む。
クロエはその表情を見て、少しだけ救われた。母は分かっていなかったわけではない。聞いて、傷ついている。
「苦しかったのに、弱いと言えなかった。だって、母様は死んだことになっていて、皆が母様を褒めて、私はその娘で、次の領主で」
声が震えた。
「私が弱いと、母様まで弱かったことになる気がした」
「そんなことはない」
ローザの声が少し強くなった。
「クロエ。私の強さは、あなたの弱さを許さないためのものじゃない」
クロエは唇を噛んだ。
その言葉を、もっと早く聞きたかった。
幼い頃に。
母を失ったと思った夜に。
何度も一人で部屋に戻った日に。
「遅いです」
「うん」
「遅すぎます」
「うん」
ローザは頷いた。
否定しない。
それが今は、ありがたくて腹立たしかった。
「人間界では」
クロエは視線を落とす。
「楽しかったですか」
意地悪な問いだと自分でも分かった。
ローザは少しだけ黙る。
「楽しい日もあったわ」
正直な答えだった。
「美味しいものを食べた日。知らない街で迷った日。協力者とくだらないことで笑った日。そういう日もあった」
クロエの胸がちくりと痛む。
「でも、あなたを忘れた日はない」
ローザは続けた。
「美味しいものを食べるたびに、クロエにも食べさせたいと思った。赤いソースのパスタを見て、あなたは服に飛ばして怒るだろうなと思った。市場で葡萄を見るたびに、西部領の畑を思い出した。ワインを見るたびに、あなたがいつか『処女の生き血』を変な名前だって眉をひそめる顔を想像した」
「変な名前です」
「でしょうね」
ローザは少し笑った。
「でも、いい名前でもあるのよ。土地の人たちが、怖さも冗談も誇りも全部混ぜてつけた名前だから」
クロエは黙って聞いた。
母が過ごした十一年に、自分の居場所がまったくなかったわけではない。そう思いたい。思いたいが、それだけで納得できるほど簡単でもない。
「これから」
クロエは言った。
「どうするつもりですか」
「あなたの側にいる。逃げずに、話す。言えないことは、言えない理由も含めて説明する。西部領の後始末も手伝う」
「領主に戻るつもりは」
「ないわ」
即答だった。
「西部領の主は、もうあなたよ。私は補佐に回る」
「勝手です」
「ええ」
「死んだことにして、戻ってきて、今度は補佐だなんて」
「本当に勝手ね」
ローザは苦笑した。
クロエは膝の上で拳を握る。
「それでも」
言葉が喉につかえる。
「いてください」
ローザの表情が変わった。
クロエは視線を逸らさない。
「許したわけではありません。怒っています。聞きたいことも山ほどあります。けれど、またいなくなられるのは嫌です」
「うん」
ローザが立ち上がり、クロエの前へ膝をついた。
母が見上げてくる。
幼い頃とは逆だった。
「いるわ」
ローザは言った。
「今度は、あなたが追い出すまで」
「追い出すかもしれません」
「その時は、美味しい手土産を持って戻ってくる」
「戻ってこないでください」
「ええ、戻るわ」
クロエは少しだけ笑ってしまった。
悔しい。
怒っているのに、母がいる部屋で笑ってしまう自分が悔しかった。
ローザが手を伸ばす。
クロエは少し迷い、それからその手を取った。
十一年分の空白は埋まらない。
けれど、最初の一口は、たぶんここから始まる。
母が話した人間界の料理みたいに、熱くて、少し酸っぱくて、知らない味がした。




