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いずれ空へと続く道  作者: 白銀スーニャ
第1章:西の不死と死と過去
39/62

EX8

 クロエ・シュヴァリエは、母の私室の扉の前で足を止めた。

 十一年前から、ほとんど入っていない部屋だった。

 鍵がかかっていたわけではない。立ち入りを禁じられていたわけでもない。けれど、クロエはその扉を開けるたびに、自分が何かを盗んでいるような気がしていた。母の匂い、母の時間、母がそこにいたという証を、自分の寂しさで荒らしてしまうような気がしていた。

 その部屋の中から、今は声がする。

「入っていいわよ」

 ローザの声だった。

 生きている声。

 クロエは深く息を吸い、扉を開けた。

 部屋の空気は、記憶より少し乾いていた。長く使われていなかった部屋特有の静けさがある。窓は開けられ、夜の海風が薄いカーテンを揺らしていた。机、寝台、壁の絵、古い香水瓶。どれも母のものなのに、母が不在だった年月の埃をかぶっている。

 ローザは窓辺に立っていた。

 金の髪が月明かりを受けて淡く光る。肖像画ではない。記憶の中の人でもない。少し疲れた顔をして、けれど確かにそこにいる母だった。

「座って」

 ローザが椅子を示す。

「母様の部屋なのに、私が座っていいの」

「私の娘でしょう」

 その一言で、クロエは少しだけ胸が痛くなった。

 娘。

 ずっと欲しかった言葉だった。けれど、今さら簡単に受け取るには重すぎた。

 クロエは椅子に座った。ローザは向かいではなく、少し斜めの位置へ腰かける。正面から問い詰め合う形にならないように、意識しているのだと分かった。

「話してもらうことが、たくさんあります」

「ええ」

「怒っています」

「当然ね」

「会えて、嬉しいとも思っています」

「それも、嬉しい」

 ローザは逃げなかった。

 その態度が、余計にクロエの言葉を詰まらせる。責めたい。泣きたい。なぜ、と聞きたい。けれど、聞いた瞬間に母がまた遠くへ行ってしまうような恐怖もある。

「どこに、いたの」

 最初に出たのは、それだった。

 ローザは少し考えた。

「人間界。主に、あちらで言うイタリア近辺ね。海が近くて、古い街が多くて、ご飯が美味しいところ」

「ご飯」

「大事よ」

 ローザは真面目な顔で言った。

「とても大事。生き延びるには、寝床と情報と美味しいご飯が必要なの」

 クロエは呆れたかった。

 だが、うまく呆れられなかった。母の口から出る人間界の話が、あまりにも普通だったからだ。

「具体的には」

「都市名は、まだ伏せさせて。関わった人たちがいるから」

「分かりました」

「でも料理名ならいいでしょう。パスタ、リゾット、ミネストローネ、アクアパッツァ。あと、薄い生地にトマトとチーズを乗せて焼いたもの」

「それは知っています。養成所の食堂にも似たものがありました」

「似たものではなく本場を食べなさい。人生観が変わるわ」

「十一年ぶりの母娘の会話で、人生観を料理に握らせないでください」

 言ってから、クロエは自分で驚いた。

 声が少しだけ軽かった。

 ローザも気づいたのだろう。目元を緩める。

「こういう話からしか始められないのよ」

「なぜ」

「重い話だけを積み上げると、潰れるから」

 海風が入る。

 カーテンが揺れ、部屋の香りが少し変わった。

「私は、あなたを置いていった」

 ローザは言った。

 クロエの指が膝の上で強張る。

「理由はある。事情もある。言えないことも、まだある。でも、あなたから見れば置いていかれたことに変わりはない」

「はい」

「だから、ごめんなさい」

 謝罪は静かだった。

 大げさでも、泣き崩れるものでもない。ローザは背筋を伸ばしたまま、クロエを見ていた。

「それで許せると思わないでください」

「思っていないわ」

「私は、母様みたいになろうとしました」

「うん」

「強くて、誇り高くて、西部領を背負える人に。誰にも弱いと言われないように。母様の名前を汚さないように」

 言葉にすると、胸の奥に溜まっていたものが熱を持った。

「でも、苦しかった」

 ローザの顔が歪む。

 クロエはその表情を見て、少しだけ救われた。母は分かっていなかったわけではない。聞いて、傷ついている。

「苦しかったのに、弱いと言えなかった。だって、母様は死んだことになっていて、皆が母様を褒めて、私はその娘で、次の領主で」

 声が震えた。

「私が弱いと、母様まで弱かったことになる気がした」

「そんなことはない」

 ローザの声が少し強くなった。

「クロエ。私の強さは、あなたの弱さを許さないためのものじゃない」

 クロエは唇を噛んだ。

 その言葉を、もっと早く聞きたかった。

 幼い頃に。

 母を失ったと思った夜に。

 何度も一人で部屋に戻った日に。

「遅いです」

「うん」

「遅すぎます」

「うん」

 ローザは頷いた。

 否定しない。

 それが今は、ありがたくて腹立たしかった。

「人間界では」

 クロエは視線を落とす。

「楽しかったですか」

 意地悪な問いだと自分でも分かった。

 ローザは少しだけ黙る。

「楽しい日もあったわ」

 正直な答えだった。

「美味しいものを食べた日。知らない街で迷った日。協力者とくだらないことで笑った日。そういう日もあった」

 クロエの胸がちくりと痛む。

「でも、あなたを忘れた日はない」

 ローザは続けた。

「美味しいものを食べるたびに、クロエにも食べさせたいと思った。赤いソースのパスタを見て、あなたは服に飛ばして怒るだろうなと思った。市場で葡萄を見るたびに、西部領の畑を思い出した。ワインを見るたびに、あなたがいつか『処女の生き血』を変な名前だって眉をひそめる顔を想像した」

「変な名前です」

「でしょうね」

 ローザは少し笑った。

「でも、いい名前でもあるのよ。土地の人たちが、怖さも冗談も誇りも全部混ぜてつけた名前だから」

 クロエは黙って聞いた。

 母が過ごした十一年に、自分の居場所がまったくなかったわけではない。そう思いたい。思いたいが、それだけで納得できるほど簡単でもない。

「これから」

 クロエは言った。

「どうするつもりですか」

「あなたの側にいる。逃げずに、話す。言えないことは、言えない理由も含めて説明する。西部領の後始末も手伝う」

「領主に戻るつもりは」

「ないわ」

 即答だった。

「西部領の主は、もうあなたよ。私は補佐に回る」

「勝手です」

「ええ」

「死んだことにして、戻ってきて、今度は補佐だなんて」

「本当に勝手ね」

 ローザは苦笑した。

 クロエは膝の上で拳を握る。

「それでも」

 言葉が喉につかえる。

「いてください」

 ローザの表情が変わった。

 クロエは視線を逸らさない。

「許したわけではありません。怒っています。聞きたいことも山ほどあります。けれど、またいなくなられるのは嫌です」

「うん」

 ローザが立ち上がり、クロエの前へ膝をついた。

 母が見上げてくる。

 幼い頃とは逆だった。

「いるわ」

 ローザは言った。

「今度は、あなたが追い出すまで」

「追い出すかもしれません」

「その時は、美味しい手土産を持って戻ってくる」

「戻ってこないでください」

「ええ、戻るわ」

 クロエは少しだけ笑ってしまった。

 悔しい。

 怒っているのに、母がいる部屋で笑ってしまう自分が悔しかった。

 ローザが手を伸ばす。

 クロエは少し迷い、それからその手を取った。

 十一年分の空白は埋まらない。

 けれど、最初の一口は、たぶんここから始まる。

 母が話した人間界の料理みたいに、熱くて、少し酸っぱくて、知らない味がした。


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