第4話
桐子が連れて行かれたのは、街の外れにある小さな建物だった。
石造りの壁に金属の扉、細い窓から漏れる内側の明かり。民家というより、詰所に近い場所に見えた。
サニーは扉を開けると、桐子を中へ押し込んだ。
それから壁に掛けてあった黒っぽい厚手の上着を外し、こちらへ放った。
「着なさい。上だけだけど、ないよりまし」
布の重みが肩に落ちた瞬間、涙が出そうになった。隠せるという、ただそれだけのことに胸の奥が少しだけ緩む。
桐子は上着を掴み、必死に前を合わせた。サイズは合っていない。袖は長く、裾は太腿の途中までしかない。それでも裸でいるよりはましだった。
「そこ座って」
指されたのは、壁際の長椅子だった。
桐子は言われた通りに座った。上着の前を握ったまま、膝を揃える。足裏の傷が床に触れて痛んだ。背中の裂けたところも熱い。
サニーは棚を漁っていた。包帯、布、簡易の薬箱を取り出す手つきは雑だったが、迷いはない。
「足出して」
「え」
「手当て。歩けなくなると面倒」
桐子は黙って足を出した。
上着の裾を握る手に力が入る。
布の匂いがした。煙と金属と、少しだけ薬品のような匂いが混じった、サニーの私物だと分かる匂いだった。サイズは合わず、袖は余り、裾は足りない。心もとない。
それでも、森で裸のまま膝を抱えていた時よりは呼吸ができた。
サニーの手は冷たかった。傷口を洗われると、痛みで肩が跳ねる。
「動かない」
「痛いんですけど」
「死ぬよりまし」
返答は短かった。
包帯が、手のひら、膝、足裏、背中へ巻かれていく。背中を処置される時、桐子は上着をずらさなければならなかった。嫌だった。だがサニーは何も言わなかったし、見たものに余計な意味を乗せない目をしていた。
それが少しだけ救いだった。
手当てが終わると、サニーは紙袋を投げて寄越した。
「食べなさい」
中には硬いパンと、肉の挟まった何かが入っていた。
桐子は戸惑った。
「これ」
「食べ物」
「見れば分かります」
「なら食べなさい」
胃は空っぽだった。口に入れると、思ったより味が濃い。肉は香ばしく、知らない香辛料の匂いがした。飲み込んだ瞬間、身体が食べ物を求めていたことを思い出した。
桐子は黙って食べた。
サニーは向かいの椅子に腰を下ろし、脚を組んだ。
「で」
赤い目が桐子を見た。
「どこまで聞いてる?」
「何をですか」
「自分のこと」
桐子はパンを握ったまま固まった。
「何も」
「でしょうね」
サニーは面倒そうに息を吐いた。
「あんた、未来から来たんだって」
桐子は何を言われたのか分からなかった。
「未来」
「そう。で、過去の魔界に放り込まれた」
「魔界」
「そこもか」
サニーは天井を見た。
「ここは魔界。魔族が住んでる世界。空気が重いのは魔力が濃いから。毒じゃない」
魔界、魔族、魔力。並んでいく言葉は、どれも昨日までの桐子の生活には存在しないものだった。
漫画やゲームなら聞いたことがある。
けれど、今の桐子には笑う余裕がなかった。足裏は痛み、背中は熱を持ち、腹は空いている。肌には他人の上着の感触があった。
空想なら、こんなに身体は重くない。夢なら、こんなに寒くない。
「待ってください」
桐子は手を上げた。
「待たない。説明はまとめて済ませる」
「無理です」
「慣れなさい」
サニーは容赦がなかった。
「あんたは魔族。たぶん人間種。体内に魔石がある。魔力を取り込んで魔法を使う」
「魔法」
その言葉だけは分かった。
分かった瞬間、真希の腹を貫いた銀の光が戻ってきて、桐子の指から力が抜けた。
パンが膝に落ちる。
「私が」
喉が鳴った。
「真希を刺したのは」
「魔法でしょうね」
サニーは淡々と言った。
桐子は息を吸おうとして、吸えなかった。
「違う」
自分でも何が違うのか分からないまま言った。
「私は、そんなの知らない。使ったことない」
「知らなくても出る時は出る」
「そんな」
「そういうもの」
サニーの声は冷たいわけではなかった。ただ、逃げ道を作らなかった。
桐子は膝の上で拳を握った。
「真希は」
「知らない」
即答だった。
桐子は顔を上げた。
「知らないって」
「私はあんたを拾えって言われただけ。あんたの友達の容態までは知らない」
「誰に」
サニーの表情がわずかに歪んだ。
「リーゼロッテ」
聞き覚えのない名前だった。
「誰ですか」
「魔王」
桐子は黙った。
処理できる量を超えていた。
魔界にいて、魔王がいて、魔法があって、自分は魔族で、未来から来ていて、親友を刺した。その全部が頭の中でばらばらになった。
「あと」
サニーは嫌そうに続けた。
「あんた、私のひ孫らしい」
桐子はサニーを見た。
銀髪に赤い目。どう見ても二十代半ばにしか見えないし、態度は年上でも、曾祖母という言葉とは結びつかなかった。
「ひ孫」
「私も娘を産んだ覚えはない」
「じゃあ違うんじゃ」
「リーゼロッテがそう言うなら、血筋のどこかではそうなんでしょう」
「そんな雑な」
「私もそう思う」
サニーは肩をすくめた。
「ふーん、で?」
その反応は、あまりにも軽かった。
桐子の中にあった祖母や曾祖母という言葉の形が崩れていく。優しい老人、家族の温度、血の繋がり。そういうものが、サニーの前では何の役にも立たなかった。
この人は、血縁だから助けたのではない。
任務だから拾った。
桐子はそう理解した。
不思議と、その方が信じられた。
優しさを期待して裏切られるより、最初から任務だと言われる方が呼吸は楽だった。
血縁という言葉に、桐子はあまり良い記憶を持っていない。
家族はいたし、家もあった。食事も寝る場所もあった。だが、そこに安心があったかと聞かれれば、答えに詰まる。
だから、目の前の女が曾祖母らしい温かさを見せないことに、ひどく落胆することはなかった。
ただ、また知らない場所に立たされたのだと思った。
血筋すら、自分の知っている形ではなかった。
「私、帰れますか」
桐子は聞いた。
サニーはすぐには答えなかった。
「今すぐは無理」
短い答えだった。
「じゃあ、どうすれば」
「生きる」
「それだけですか」
「最初はね」
サニーは立ち上がった。
「あんたは自分の力を知らない。知らないまま暴発させた。次に同じことをすれば、また誰かを刺す」
また誰かを傷つける。
桐子の呼吸が止まり、サニーはそれを見逃さなかった。
「嫌なら覚えなさい」
「何を」
「魔法」
サニーの声は平坦だった。
「あんたが呪いだと思ってるものの使い方」
桐子は膝の上のパンを見た。
手が震えている。涙が落ちそうになり、声を出したら崩れると思った。
それでも、聞かなければならなかった。
「覚えたら」
声がかすれる。
「真希のところに帰れますか」
「帰れるかどうかは知らない」
サニーは言った。
「でも、覚えなければ帰る前に死ぬ」
優しい言葉ではなかった。
だから、桐子は顔を上げた。
「教えてください」
サニーは少しだけ目を細めた。
「明日から」
「今からでも」
「寝なさい。死ぬわよ」
桐子は反論しかけた。
だが身体が先に限界を訴えた。視界が揺れ、手足が重い。眠気ではなく、意識が落ちる寸前の感覚だった。
サニーが毛布を投げた。
「そこ使っていい」
長椅子を顎で示され、桐子は毛布を掴んだ。サイズの合わない上着の上から身体を包む。
真希が死ぬはずがない。
目を閉じる直前、またそう思った。
今度は祈りに近かった。




