第3話
草むらの奥で、目が動いた。
桐子は息を止めた。
暗闇に慣れていくほど、見えない方がよかったものが見えてくる。木々の隙間にあった獣の輪郭は狼に似ていたが、大きさが違った。背は人の胸ほどまであり、肩の筋肉が盛り上がり、口元から黒い唾液が糸を引いていた。
獣の背中から、短い角のようなものが何本も突き出ている。
その角の根元に、薄い光が走っていた。
血管のようにも、ひび割れのようにも見えた。桐子の知っている生き物ではない。動物園にも、図鑑にも、道場の近くの山にも、こんなものはいなかった。
獣は桐子を見ていた。責めるのでも怯えるのでもなく、ただ食うために獲物として見ている。その単純さが、警察署で浴びたどの視線よりも怖かった。
桐子は後ずさった。
足裏に石が食い込み、漏れそうになった声を歯を噛んで堪えた。
逃げなければならないことは分かっている。
だが、どこへ。
桐子は裸で、靴も武器もなく、ここがどこかも分からない。足は震え、腕は自分の身体を隠すために塞がっていた。
獣が唸り、その低い音が腹に響いた。
桐子の身体は先に動いた。横へ跳んだ直後、飛びかかった獣の牙が肩のすぐ横を通り、裂けた風に押されるように地面を転がった。背中に枝が刺さり、膝が土を削る。
痛い。
だが止まれば死ぬ。桐子は立ち上がり、走った。
森の中は暗く、枝が顔を打ち、草が足首に絡む。地面は柔らかい場所と硬い場所が混ざっていて、何度も足を取られた。
後ろから迫る獣の足音は速く、距離が詰まる。
桐子は振り向かずに走った。呼吸は乱れ、肺は焼け、重い空気を吸えば吸うほど、身体の中に知らないものが入り込んでくるようだった。
毒か、と思った。
だが倒れないし、吐き気もない。ただ、身体の外側から見えない水に押されているような圧があった。
獣が吠え、桐子は反射的に横へ跳んだ。
爪が背中をかすめた。
熱い。
遅れて痛みが来て、皮膚が裂け、血が流れる感覚があった。
「っ」
声を殺した。
泣いている暇はない。
木の根に足を取られ、身体が前へ倒れた。両手をついた瞬間、手のひらが石で裂ける。
獣の影が覆いかぶさった。
終わる、と思った。
その瞬間、銀色の光が走った。
音はなかった。
光は、桐子の視界を横切っただけだった。
獣の身体がずれた。
上半身と下半身が別々のもののように落ち、黒い血が草に飛び散る。熱い臭いが広がった。
桐子は動けなかった。
獣は死んでいて、森も急に静かになった。
誰かが歩いてくる。
草を踏んでいるはずなのに、ほとんど音のしない軽い足音だった。
桐子は顔を上げた。
銀髪の女が立っていた。
赤い瞳をした女はだるそうな姿勢で、片手を下げたまま、もう片方の手で肩を揉んでいる。
桐子は言葉を失った。
女は倒れた獣を一瞥してから桐子を見た。視線が上から下へ動く。
桐子は反射的に身体を抱え込んだ。
女は眉をひそめた。
「あんた、何でこんなとこにいんの?」
声は低く、面倒そうだった。
助かった。
そう思うより先に、見られた、と思った。自分が何も持っていないこと、何も知らないこと、隠す余裕すらないこと。その全部を、目の前の女に見られた。
羞恥が遅れて来たが、それ以上に身体が震えていた。寒さか、恐怖か、分からない。両方だった。
桐子は答えようとしたが、喉が動かなかった。
何で、など、そんなことは桐子が聞きたかった。
「立てる?」
女が言った。
桐子は頷こうとした。だが身体が言うことを聞かなかった。膝に力が入らない。寒さと痛みと恐怖が、今になってまとめて押し寄せてくる。
女はため息をついた。
「無理そうね」
近づいてくる。
桐子は身を固くし、逃げようとしたが、腰が抜けている。手のひらで地面を掻くだけだった。
「暴れない。面倒だから」
女は背中を向けた。
「歩けないなら担ぐけど」
「歩けます」
声がかすれた。
「そう」
女は振り返らなかった。
桐子は立ち上がった。足裏も、膝も、背中も痛い。だが、担がれるのは嫌だった。
腕で身体を隠したまま歩くしかなかった。
惨めで、怖かった。けれど、女が振り返らないことだけは分かった。こちらの羞恥を踏みにじるつもりはないらしい。その最低限の距離だけを頼りに、桐子は足を前に出した。
人の尊厳は、意外なほど小さなことで保たれるのだと、こんな場所で知りたくはなかった。
それでも今は、それに縋るしかない。
女の後ろを歩く。
森の中を進むたび、桐子は自分が本当に知らない場所に来たのだと理解していった。木の形も、虫の声も、空の色も違う。月の位置でさえ、知っているものと少しずれている気がした。
遠くに、壁のようなものが見えた。
市街地の外縁だろうか。暗がりの向こうに、低い光が並んでいる。人のいる場所がある。そのことだけで少しだけ安心しかけた。
だがサニーは、光の方へまっすぐ進まなかった。
獣の気配を避けるように、何度か進路を変える。桐子には何も分からない。ただ、サニーが足を止めた時だけ、自分も止まった。息を殺した。命令されなくても、そうしなければ死ぬと分かった。
「ここ」
桐子は息を整えながら聞いた。
「どこですか」
「市街地外縁の危険区域」
女は当然のように答えた。
「軍属か、軍から委託受けた討伐者しか入っちゃいけない場所」
「市街地、外縁」
「あんたが理解できる言葉で言うと、街の外の死ぬ場所」
桐子は黙った。
死ぬ場所。
さっきの獣を見れば、説明はいらなかった。
ただの森ではない。
人が住む場所のすぐ外に死ぬ場所があり、そこへ入れる人間が決められていて、そこから獣が出てくるかもしれない。桐子の知っている街とは、境界の意味が違っていた。
道路一本、柵一枚、壁一つ。そういうものの向こうで、生き物が簡単に死ぬ世界なのだと理解した。
「毒ですか」
「何が」
「空気」
女は少しだけ振り返った。
「毒じゃない。魔力が濃いだけ」
「魔力」
「あー」
女は嫌そうに頭を掻いた。
「そこからか」
そこから、というその言い方で、桐子は自分が何も知らないのだと分かった。
足がもつれたが、女が振り向く前に、桐子は踏みとどまった。
真希が死ぬはずがない。
また、その言葉を思った。
ここで倒れている場合ではない。真希のところへ帰らなければならない。
足裏の痛みも、背中の熱も、裸足で歩く惨めさも、全部後でいい。
今ここで膝をついたら、真希のいる場所からまた遠ざかる。そう思うと、震える脚にも少しだけ力が戻った。
「名前」
女が言った。
「え」
「あんたの名前」
桐子は唇を湿らせた。
「白銀、桐子」
「しろがね」
女は短く繰り返した。
その声の温度が、ほんの少し変わった気がした。
「私はサニー・アージェント」
銀髪の女は、それだけ名乗った。
「とりあえず、生きてるうちに街へ戻るわよ」
その言葉に従う以外の選択肢を、桐子は持っていなかった。足元の土も、夜の匂いも、背後の森も、早くここから出ろと告げている。
桐子は頷いた。
森の奥で、別の獣が鳴いた。
サニーの指先に、また銀色の光が灯った。




