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いずれ空へと続く道  作者: 白銀スーニャ
第1章:西の不死と死と過去
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第3話

 草むらの奥で、目が動いた。

 桐子は息を止めた。

 暗闇に慣れていくほど、見えない方がよかったものが見えてくる。木々の隙間にあった獣の輪郭は狼に似ていたが、大きさが違った。背は人の胸ほどまであり、肩の筋肉が盛り上がり、口元から黒い唾液が糸を引いていた。

 獣の背中から、短い角のようなものが何本も突き出ている。

 その角の根元に、薄い光が走っていた。

 血管のようにも、ひび割れのようにも見えた。桐子の知っている生き物ではない。動物園にも、図鑑にも、道場の近くの山にも、こんなものはいなかった。

 獣は桐子を見ていた。責めるのでも怯えるのでもなく、ただ食うために獲物として見ている。その単純さが、警察署で浴びたどの視線よりも怖かった。

 桐子は後ずさった。

 足裏に石が食い込み、漏れそうになった声を歯を噛んで堪えた。

 逃げなければならないことは分かっている。

 だが、どこへ。

 桐子は裸で、靴も武器もなく、ここがどこかも分からない。足は震え、腕は自分の身体を隠すために塞がっていた。

 獣が唸り、その低い音が腹に響いた。

 桐子の身体は先に動いた。横へ跳んだ直後、飛びかかった獣の牙が肩のすぐ横を通り、裂けた風に押されるように地面を転がった。背中に枝が刺さり、膝が土を削る。

 痛い。

 だが止まれば死ぬ。桐子は立ち上がり、走った。

 森の中は暗く、枝が顔を打ち、草が足首に絡む。地面は柔らかい場所と硬い場所が混ざっていて、何度も足を取られた。

 後ろから迫る獣の足音は速く、距離が詰まる。

 桐子は振り向かずに走った。呼吸は乱れ、肺は焼け、重い空気を吸えば吸うほど、身体の中に知らないものが入り込んでくるようだった。

 毒か、と思った。

 だが倒れないし、吐き気もない。ただ、身体の外側から見えない水に押されているような圧があった。

 獣が吠え、桐子は反射的に横へ跳んだ。

 爪が背中をかすめた。

 熱い。

 遅れて痛みが来て、皮膚が裂け、血が流れる感覚があった。

「っ」

 声を殺した。

 泣いている暇はない。

 木の根に足を取られ、身体が前へ倒れた。両手をついた瞬間、手のひらが石で裂ける。

 獣の影が覆いかぶさった。

 終わる、と思った。

 その瞬間、銀色の光が走った。

 音はなかった。

 光は、桐子の視界を横切っただけだった。

 獣の身体がずれた。

 上半身と下半身が別々のもののように落ち、黒い血が草に飛び散る。熱い臭いが広がった。

 桐子は動けなかった。

 獣は死んでいて、森も急に静かになった。

 誰かが歩いてくる。

 草を踏んでいるはずなのに、ほとんど音のしない軽い足音だった。

 桐子は顔を上げた。

 銀髪の女が立っていた。

 赤い瞳をした女はだるそうな姿勢で、片手を下げたまま、もう片方の手で肩を揉んでいる。

 桐子は言葉を失った。

 女は倒れた獣を一瞥してから桐子を見た。視線が上から下へ動く。

 桐子は反射的に身体を抱え込んだ。

 女は眉をひそめた。

「あんた、何でこんなとこにいんの?」

 声は低く、面倒そうだった。

 助かった。

 そう思うより先に、見られた、と思った。自分が何も持っていないこと、何も知らないこと、隠す余裕すらないこと。その全部を、目の前の女に見られた。

 羞恥が遅れて来たが、それ以上に身体が震えていた。寒さか、恐怖か、分からない。両方だった。

 桐子は答えようとしたが、喉が動かなかった。

 何で、など、そんなことは桐子が聞きたかった。

「立てる?」

 女が言った。

 桐子は頷こうとした。だが身体が言うことを聞かなかった。膝に力が入らない。寒さと痛みと恐怖が、今になってまとめて押し寄せてくる。

 女はため息をついた。

「無理そうね」

 近づいてくる。

 桐子は身を固くし、逃げようとしたが、腰が抜けている。手のひらで地面を掻くだけだった。

「暴れない。面倒だから」

 女は背中を向けた。

「歩けないなら担ぐけど」

「歩けます」

 声がかすれた。

「そう」

 女は振り返らなかった。

 桐子は立ち上がった。足裏も、膝も、背中も痛い。だが、担がれるのは嫌だった。

 腕で身体を隠したまま歩くしかなかった。

 惨めで、怖かった。けれど、女が振り返らないことだけは分かった。こちらの羞恥を踏みにじるつもりはないらしい。その最低限の距離だけを頼りに、桐子は足を前に出した。

 人の尊厳は、意外なほど小さなことで保たれるのだと、こんな場所で知りたくはなかった。

 それでも今は、それに縋るしかない。

 女の後ろを歩く。

 森の中を進むたび、桐子は自分が本当に知らない場所に来たのだと理解していった。木の形も、虫の声も、空の色も違う。月の位置でさえ、知っているものと少しずれている気がした。

 遠くに、壁のようなものが見えた。

 市街地の外縁だろうか。暗がりの向こうに、低い光が並んでいる。人のいる場所がある。そのことだけで少しだけ安心しかけた。

 だがサニーは、光の方へまっすぐ進まなかった。

 獣の気配を避けるように、何度か進路を変える。桐子には何も分からない。ただ、サニーが足を止めた時だけ、自分も止まった。息を殺した。命令されなくても、そうしなければ死ぬと分かった。

「ここ」

 桐子は息を整えながら聞いた。

「どこですか」

「市街地外縁の危険区域」

 女は当然のように答えた。

「軍属か、軍から委託受けた討伐者しか入っちゃいけない場所」

「市街地、外縁」

「あんたが理解できる言葉で言うと、街の外の死ぬ場所」

 桐子は黙った。

 死ぬ場所。

 さっきの獣を見れば、説明はいらなかった。

 ただの森ではない。

 人が住む場所のすぐ外に死ぬ場所があり、そこへ入れる人間が決められていて、そこから獣が出てくるかもしれない。桐子の知っている街とは、境界の意味が違っていた。

 道路一本、柵一枚、壁一つ。そういうものの向こうで、生き物が簡単に死ぬ世界なのだと理解した。

「毒ですか」

「何が」

「空気」

 女は少しだけ振り返った。

「毒じゃない。魔力が濃いだけ」

「魔力」

「あー」

 女は嫌そうに頭を掻いた。

「そこからか」

 そこから、というその言い方で、桐子は自分が何も知らないのだと分かった。

 足がもつれたが、女が振り向く前に、桐子は踏みとどまった。

 真希が死ぬはずがない。

 また、その言葉を思った。

 ここで倒れている場合ではない。真希のところへ帰らなければならない。

 足裏の痛みも、背中の熱も、裸足で歩く惨めさも、全部後でいい。

 今ここで膝をついたら、真希のいる場所からまた遠ざかる。そう思うと、震える脚にも少しだけ力が戻った。

「名前」

 女が言った。

「え」

「あんたの名前」

 桐子は唇を湿らせた。

「白銀、桐子」

「しろがね」

 女は短く繰り返した。

 その声の温度が、ほんの少し変わった気がした。

「私はサニー・アージェント」

 銀髪の女は、それだけ名乗った。

「とりあえず、生きてるうちに街へ戻るわよ」

 その言葉に従う以外の選択肢を、桐子は持っていなかった。足元の土も、夜の匂いも、背後の森も、早くここから出ろと告げている。

 桐子は頷いた。

 森の奥で、別の獣が鳴いた。

 サニーの指先に、また銀色の光が灯った。

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