第2話
警察署の廊下は、ひどく明るかった。
白い壁、磨かれた床、規則正しく並んだ蛍光灯。どこにも血はなく、畳もなく、真希もいない。
桐子は硬い椅子に座っていた。
膝の上に置いた手の指先が震えていた。握れば止まると思ったが、握ると、あの銀の槍を思い出した。
だから開いたままにしていた。
服は試合の時のままだった。
白い道着には血がついていない。真希の血は畳に落ち、救急隊員の手袋に移り、誰かの靴底にもついていたかもしれないのに、桐子の道着だけは妙に白かった。
それが許せなかった。自分が刺したのに、自分だけが汚れていない。
その事実が、警察署の明るさと同じくらい気持ち悪かった。
何度も同じことを聞かれた。
あれは何か、どうやって出したのか、凶器はどこへ行ったのか、真希を刺すつもりだったのか。
答えられることは一つもなかった。
「分かりません」
それだけを繰り返した。
嘘ではなかった。どうして真希が倒れたのか、どうして自分の手から槍が出たのか、どうして自分だけがここにいるのか、何も分からなかった。
真希の容態は、誰も教えてくれなかった。
黒峰理沙だけが、警察署まで同行してくれた。
理沙は穏やかな顔をしていた。いつもと同じだった。道場で桐子に地獄のような基礎稽古を課す時と、ほとんど変わらない。
それが逆に怖かった。
「白銀さん」
呼ばれて、桐子は顔を上げた。
理沙は少しだけ目を細めていた。
「私は病院へ行きます。真希の様子を見てきます」
「私も」
立とうとした。
理沙の手が、桐子の肩を押さえた。強くはないのに、動けなかった。
「今はだめです」
「なんで」
「あなたを近づけても、誰も得をしません」
柔らかい声だった。
内容だけが刃のようだった。
桐子は何も言えなかった。
「真希は」
喉が詰まる。
「真希は、生きてますよね」
理沙はすぐに答えなかった。
その一拍が、桐子の胸を潰した。
「見てきます」
それだけ言って、理沙は背を向けた。
桐子は追えなかった。
警察署を出た時、空は暗くなっていた。
迎えは来なかった。
家には連絡が行っているはずだったが、誰もいなかった。来なくていいと思ったし、来られても困ると思った。それでも、誰も来ないことが胸の底に沈んだ。
もとから冷え切っていた関係が、今日で決定的に壊れたのだと分かった。
携帯は鞄の中にあった。
画面を見ると通知はあったが、家からではなかった。大会関係者からの連絡、知らない番号、道場の連絡網。そのどれも開けなかった。
家に電話をかけることもできた。
だが、何を言えばいいのか分からなかった。
親友を刺しました。魔法みたいな槍が出ました。迎えに来てください。
どの言葉も、自分のものとは思えなかった。
桐子は歩いた。
まっすぐ家へ向かう気にはなれず、人の多い場所へ行きたくなかった。誰かの視線が自分に向くだけで、会場の観客席を思い出す。
歩道の端を、ただ歩いた。
家までの距離を考える余裕はなかった。
足を動かしていないと、警察署の椅子に戻される気がした。救急車の扉が閉まる音に戻される気がしたし、立ち止まったら、真希の容態を知らないまま朝までそこに置き去りにされるような気がした。
帰っているというより、どこかから追い出されているようだった。
街灯の光が足元に落ち、影が伸びて、縮む。車が横を通り過ぎるたび、冷たい風が道着の袖を揺らした。
真希が死ぬはずがない。
何度もそう思った。真希が死ぬはずがない。
そう思うたびに、救急車の扉が閉まる音が戻ってくる。
桐子は立ち止まった。
前方に、人がいた。女だった。
金色の髪と青い瞳をしたその女は、街灯の下に立っているのに、光の外側にいるように見えた。年齢は分からない。若くも見えるし、古い絵から抜け出してきたようにも見える。
桐子が反射的に身構えると、女は微笑んだ。
「ひどい顔だね」
声は柔らかかったが、桐子は答えなかった。
「親友を刺したんだ。無理もないか」
息が止まった。
「誰」
やっと声が出た。
女は名乗らなかった。
「罪を償う場所がある」
「何言ってるの」
「ここではない場所だよ」
桐子は周囲を見た。
歩道には誰もおらず、少し離れた車道を車が通っているのに、音が遠かった。女の周囲だけ、街の輪郭が薄くなっているように見えた。
逃げるべきだと頭は判断した。
それなのに足は動かない。恐怖だけではなかった。女の青い目に見られると、身体の内側まで測られている気がした。
女の言葉は、妙に平坦だった。慰めでも、脅しでもない。すでに決まったことを読み上げているようだった。
「真希は」
桐子は前へ出た。
「真希はどうなったの」
「知りたい?」
「当たり前でしょ」
声が荒れたが、女は少しだけ首を傾けただけだった。
「なら、戻ってくる理由にすればいい」
「ふざけないで」
桐子は掴みかかろうとした。
足が動かなかった。
伸びていた影は街灯のものではなく、足元から広がる黒い水のようなものだった。音もなく、熱もなく、それは桐子の靴を飲み込んでいる。
「何、これ」
引こうとしても動かない。
女の青い瞳だけが、近くに見えた。
「君は、自分の力を知らなすぎる」
女が言った。
「知らないままでは、また誰かを傷つける」
その言葉が、胸に刺さった。
また誰かを傷つける。
桐子は息を吸えなかった。
「行きなさい。罪を償うなら、まずは生き延びることだ」
視界が反転し、足元が消えた。
空も、道路も、街灯も、女の姿も、全部が遠ざかった。
落ちているのか、浮いているのか分からない。
身体の感覚が剥がれていく。
服の重さが消え、靴の感触が消え、肌を守っていたものが一枚ずつ奪われていく。
桐子は腕を伸ばした。
掴むものはなかった。
真希の名前を呼ぼうとした。声が喉で潰れた。理沙の名前も、家のことも、警察署の白い廊下も、全部が遠くなる。
自分が何者なのかを示していたものが、順番に剥がれていく。
桐子は叫んだ。
声はどこにも届かなかった。
* * *
硬い地面に叩きつけられ、肺から空気が抜けた。痛みで視界が白くなり、膝と肘を擦った感触に遅れて、手のひらへ小石が食い込む。
桐子は咳き込んだ。
最初に思ったのは、冷たい、だった。
次に自分の身体を見て、何も身につけていないことに気づいた。
声が出なかった。
慌てて身体を抱え込み、膝を寄せ、腕で胸を隠す。そんなことをしても、寒さも恐怖も消えない。
周囲は森だった。
知らない木、濃すぎる緑、湿った空気。遠くで何かが鳴いているが、鳥ではなく、犬でもなく、もっと低く腹の底に響く音だった。
空気が重い。
吸うたびに肺の奥がざらつく。毒ではない。だが身体の外側から、何か濃いものに押されている感じがした。
「どこ」
声が震えた。
返事はない。
桐子は立ち上がろうとしたが、足裏に石が刺さり、痛みで膝が折れた。
それでも立たなければならなかった。
ここにいてはいけない。
本能だけがそう告げていた。
草むらが揺れた。
桐子は振り向いた。
暗がりの奥に、二つの目が光っていた。




