第1話
白銀桐子は、畳の上で息を殺していた。
足裏に汗がにじんでいた。踏み込みの位置は悪くなく、肩も上がっていない。視線もぶれていないから、外から見ればいつも通りに動けているはずだった。
それでも、身体の奥だけが噛み合わない。
腹の底に重い石でも沈んでいるような感覚があり、気を練ろうとすると、その石が流れをせき止める。力を通そうとした瞬間には、内側から別の何かが押し返してきた。
何度も味わった違和感だったが、今日だけは許されなかった。
会場の空気が張り詰めている。他流派も参加する外部大会の決勝戦。観客席には、黒峰流の門下生だけではない。知らない道場の師範、選手、関係者。多くの視線が畳の中央へ向いていた。
黒峰流は、外から見れば古い武術の一派にすぎない。
だが、桐子は知っている。あの道場で叩き込まれるものは、競技のためだけの技ではなかった。踏み込みの角度、呼吸の切り方、相手の視線が動く前に重心を読む癖。どれも勝つためというより、生き残るためのものだった。
だからこそ、外の大会では浮く。他流派の選手は黒峰の動きを嫌がり、審判も必要以上に目を光らせる。桐子はそれを誇らしいと思っていたし、真希と二人で黒峰の異質さを証明しているような気がしていた。
今日までは。
今日の桐子は、自分の身体を信用できていなかった。稽古では何度も同じところで詰まり、気を通そうとすると胸の奥で知らない力が流れを曲げる。理沙は「無理に押し通さないでください」と言い、真希は「焦ると雑になる」と言った。
どちらも正しい。正しいから、余計に腹が立った。
その中心に、桐子と黒峰真希が立っていた。
真希は構えを崩さない。頬に黒髪が張りつき、呼吸は荒いのに、目だけは冷えていた。
桐子も同じだった。腕は重く、脚も痛む。それでも真希の前でだけは膝をつきたくなかったし、幼い頃からずっと、勝って、負けて、追いついて、引き離されて、また追いつくことを繰り返してきた。
桐子にとって真希は、親友であり、壁であり、自分が自分であるための基準だった。
だからこそ、ここで負けるわけにはいかなかった。
「まだ来る?」
真希が言った。
挑発ではなく確認だった。いつもの調子で、同じ場所に立っている相手へかける言葉だった。
桐子は歯を噛んだ。
「当たり前でしょ」
返した声は、思ったより低かった。
審判の声が飛び、試合が再開した瞬間、真希が先に動いた。
速い。
右の踏み込みは拳に見えたが、腰はすでに蹴りに入っている。桐子は半歩引き、蹴りが空を切った戻りを狙って前へ出た。
拳が真希の肩をかすめる。
浅い。
次の瞬間、真希の肘が桐子の脇腹に入り、息が詰まって視界の端が白く跳ねた。
桐子は倒れなかった。倒れる前に膝を差し込み、真希の軸を崩し、そのまま投げへ入る。
そのはずだった。
だが、真希の足が畳を噛んだ。
止められた。
桐子の背中に冷たいものが走る。
まただ。届かない。ほんの少し足りない。
真希は遠くなっている。
その考えが、頭をよぎった。
少し前まで、桐子と真希は同じ場所にいた。勝ったり負けたりしながら、同じ速度で進んでいると思っていたのに、気の修練を始めてからは、桐子だけが足元を取られるようになった。
真希は進む。桐子は詰まる。
今日もまた、目の前でそれを見せつけられていることが嫌だった。負けることより、置いていかれることが嫌だった。
気の流れが詰まる。胸の奥で、何かが軋んだ。ここで通せなければ負ける。そう思った瞬間、桐子は無理やり力を押し込んだ。
内側の流れが割れ、痛みと同時に、腹の奥から銀色の光が噴き出した。
音が消えた。
真希の目が見えた。それは驚きでも怒りでもなく、何かを言おうとしている目だった。
次の瞬間、真希の身体が後ろへ揺れ、銀の光が真希の腹を貫いていた。
桐子は息を忘れた。
光はまだそこにあり、自分の手元から伸びていた。細く、長く、鋭いそれは、見たことのない銀の槍だった。
真希が膝をつき、畳に赤いものが落ちる。
一滴では済まなかった。
誰かが叫び、音が戻った。
悲鳴と怒号、審判の笛、畳を踏む重い足音が一斉に押し寄せ、誰かが桐子の肩を掴んだ。
桐子は動けなかった。
槍が消え、手の中から感触が抜ける。だが真希の腹から血は消えない。
「真希」
声にならなかった。
もう一度、呼ぼうとした。
「真希」
今度はかすれた音だけが出た。
真希は倒れた。道場関係者が駆け寄る。黒峰の者たちが桐子と真希の間に入った。桐子は一歩踏み出そうとした。
伸びてきた手に腕を掴まれた。
「離して」
誰も離さなかった。
「真希が」
返事はなかった。
「真希が、血、出てる」
分かりきったことを口にした。そうしないと、見ているものが現実になる気がした。
人の壁の向こうで、理沙の声がした。低く、静かで、よく通る声だった。
「救急車を。すぐに」
桐子はその声に縋ろうとした。
理沙ならどうにかしてくれる。黒峰理沙なら、真希を助けられる。そう思った。
だが理沙は桐子を見なかった。
真希だけを見ていた。
救急隊が来るまでの時間は、ひどく長かった。誰も桐子に近づけなかった。誰も桐子を真希に近づけなかった。
観客席の視線が刺さる。化け物を見る目、事故を見た目、責める目、怖がる目。その全部が桐子に向いていた。
救急隊員が真希を担架に乗せた。真希の顔は白く、唇の色は薄いのに、黒い髪だけがいつも通りに見えた。
桐子は立ち上がろうとした。
また止められた。
腕を掴む手が増えていた。道場の大人か、警備員か、審判か、誰の手かも分からないまま、全員が桐子を真希から引き離そうとしていた。
違う。
自分は真希のところへ行きたいだけだ。謝らなければならないし、呼ばなければならない。立て、と言わなければならない。いつも真希が桐子にそうしてきたように。
だが、その権利すら今の桐子にはなかった。
「行かせて」
声が荒れた。
「お願い、真希に」
誰かが首を振り、真希が遠ざかる。
担架が畳を離れ、会場の出口へ運ばれていき、扉の向こうへ消える。
桐子は見ていることしかできなかった。
救急車のサイレンが鳴り、赤い光が壁に揺れた。
桐子は両手を見た。
血はついていなかった。
それが、余計に恐ろしかった。
刺した感触もなく、握った覚えもない。けれど、槍は自分の手から出た。
自分がやった。
真希を刺した。
胸の奥から、何かがこみ上げた。吐き気ではなかった。涙でもなかった。もっと重くて、形のないものだった。
真希が死ぬはずがない。
桐子はそう思った。そう思い込んだ。
真希が、あの真希が、こんなことで死ぬはずがない。
そうでなければ、立っていられなかった。
警察が来た。
質問の声が聞こえ、誰かが何かを説明し、理沙が短く答えている。桐子はほとんど聞いていなかった。
言葉はすべて頭の外側を滑っていき、桐子の中に残ったのは、担架が消えた扉の輪郭と、自分の両手が血で汚れていなかったという事実だけだった。
会場の出口を見ていた。
真希が消えた場所を見ていた。
もうそこには何もなかった。




