第31話
桐子は、夜明け前の海を見ていた。
シュヴァリエ城の一角にある小さな露台だった。医療班には寝ていろと言われたが、眠れる気がしなかった。肩は固定され、身体のあちこちが痛む。少し動くだけで、ルシアンに壁へ叩きつけられた衝撃が戻ってくる。
それでも、部屋で横になっているよりはましだった。
空はまだ暗い。
海だけが、月の残り光を拾って青白く揺れている。崖下で波が砕ける音が、遠くからずっと聞こえていた。
西部領は、死者の灰を海風へ撒く土地だと聞いた。
不死の吸血鬼が治める領地で、死は海へ返される。
その場所で、死んだはずのローザは生きて戻ってきた。
父であるはずのルシアンは、桐子の手で死んだ。
十一年前の過去は終わっていなかった。城の壁の中に、使用人の顔の下に、照明の奥に、ずっと残っていた。
不死と、死と、過去。
その三つが、昨夜の城で一度にぶつかった。
桐子は自分の右手を見下ろす。
もう槍はない。
神の槍。
そう呼ぶしかないものだった。魔力ではない。気でもない。手の中にあったのに、自分のものではなかった。握ることを許され、振るうことを許され、役目が終わると消えた。
あれは何だったのか。
考えても分からない。
ただ、あの槍でルシアンを殺したことは分かる。
桐子は息を吐いた。
吐く息が震えるかと思ったが、震えなかった。
怖くないわけではない。
何も感じていないわけでもない。
けれど、昨夜のあの瞬間に戻っても、自分は同じことをするだろうと思った。クロエは助けを求めた。西部領は壊されようとしていた。ルシアンは止まらなかった。
なら、止めるしかなかった。
命を奪う覚悟。
黒峰流で何度も聞いた言葉は、もっと重く、もっと遠いものだと思っていた。だが実際には、派手な決意ではなかった。手を止めないこと。逃げないこと。相手が命をかけて敵対した時、その結果から目を逸らさないこと。
桐子は、真希を思い出した。
あの試合の日。
銀の槍が暴発し、真希の腹を貫いた瞬間。
あれは違う。
今なら、そう思える。
真希を傷つけたことが軽くなるわけではない。許されるわけでもない。罪が消えるわけでもない。
ただ、恥じるべきものの形が、少しだけ変わった。
拳を握ったことではない。
力を持っていたことでもない。
制御できなかったこと。
向ける先を、自分で選べなかったこと。
それが、桐子の罪の中心にある。
真希を刺した時、桐子は何も選んでいなかった。
焦り、恐怖、劣等感、積み上がった不調。その全部が内側で絡まり、銀の槍になって外へ飛び出した。止める意思も、向ける先を選ぶ意思も、そこにはなかった。
昨夜は違う。
分からない力を握った。借り物だと感じた。怖いとも思った。それでも、クロエの声を聞き、ルシアンを止めると決めた。
その違いだけは、誤魔化してはいけない。
「ここにいたのか」
背後から声がした。
振り返ると、アイギスが立っていた。腕には包帯が巻かれている。顔色は良くないが、背筋はいつも通り伸びていた。
「寝てろって言われませんでした?」
「言われた。白銀もだろう」
「はい」
二人は少しだけ黙った。
その沈黙が、以前より気まずくなかった。
アイギスは桐子の隣に立ち、海を見た。
「クロエは、ローザ殿と話している」
「大丈夫そうですか」
「大丈夫ではないだろう。だが、話せる相手が戻ってきた」
「それは、良かったです」
本当にそう思った。
クロエがローザへ駆け寄った時の顔を、桐子は忘れられない。強がりでも、領主の顔でもない。置いていかれた子どもの顔だった。
「ルシアンのこと」
アイギスが言った。
桐子は手すりを握る。
「はい」
「私は、白銀がしたことを責めるつもりはない」
「ありがとうございます」
「礼を言うことではない。あの場で必要だった」
アイギスの声は落ち着いていた。
「ただ、必要だったことと、何も残らないことは違う」
桐子は海を見る。
波が砕ける。白い泡が、すぐに闇へ溶ける。
「まだ、よく分からないです」
「今すぐ分かる必要はない」
アイギスはそう言った。
「だが、一人で抱える必要もない」
桐子は少しだけ笑った。
「アイギスさん、そういうこと言うの上手いですね」
「そうか?」
「はい。盾みたいです」
アイギスが瞬きをした。それから、少しだけ口元を緩める。
「昨日は、その盾が消えた」
「でも、守ってくれました」
「扉や家具でな」
「かっこよかったです」
「あまり褒められる戦い方ではない」
「そうですか? 私は好きです」
桐子が言うと、アイギスは困ったように視線を外した。
夜明け前の風が、二人の間を抜ける。
遠くで鳥の声がした。少しずつ、空の端が明るくなっていく。
「白銀」
「はい」
「昨日の槍は、何だった」
「分かりません」
桐子は正直に答えた。
「でも、自分だけの力じゃないことは分かります。借りた、というか、渡されたというか」
「怖いか」
桐子は考えた。
怖い。
あんなものが、また自分の手に現れるかもしれない。自分が理解していない力で、誰かを殺せるかもしれない。それは怖い。
でも、真希を刺した時の恐怖とは違う。
あの時は、何が起きたのか分からないまま、力だけが暴れた。
昨夜は、分からない力を握りながら、それでも自分で前へ出た。
「怖いです」
桐子は言った。
「でも、知らないままにしたくない」
アイギスは頷いた。
「なら、戻ったら調べよう」
「サニーさんがリリーさんって人に投げるって言ってました」
「リリー殿か」
アイギスの表情が少しだけ複雑になる。
「何か問題が?」
「問題というか、研究者として優秀すぎる方だ。覚悟しておいた方がいい」
「何をですか」
「観察される」
桐子は嫌な予感を覚えた。
サニーが変人と言っていた理由が、少し分かった気がする。
それでも、道はある。
神威。
魔力。
気。
自分の中にあるものと、外から借りたもの。
まだ何も分かっていない。
けれど、分からないから終わりではない。分からないなら、向き合うしかない。
逃げれば、また暴れる。
目を逸らせば、また誰かを傷つける。
ならば、知らなければならない。魔法を。気を。昨夜、自分の手に現れた神威という言葉を。自分が何を握り、何を選び、どこへ向けるのかを。
真希に会った時、胸を張れる自分でいたい。
許してほしいからではない。許されるかどうかを決めるのは真希だ。それでも、再び向き合うなら、何も分からないまま泣いているだけの自分ではいたくなかった。
いつか再戦を望むなら、その前に自分の力を自分で知る必要がある。
海の向こうから、朝日が昇り始めた。
光が、崖と城壁を照らす。
西部領の事件は、まだ完全には終わっていない。けれど、少なくとも一つの夜は明けた。
桐子は手すりから手を離した。
「戻りましょう」
「ああ」
アイギスと並んで歩き出す。
身体は痛い。心も軽くはない。
けれど、痛みがあるなら、自分はまだここにいる。
失敗も、選んだことも、抱えたまま歩ける。
だから桐子は、前へ進む足を止めなかった。




