第30話
クロエは、ルシアンの死体を見ても泣かなかった。
涙が出ないことに、自分で驚きもしなかった。
そこにあるのは喪失ではない。少なくとも、母を失った時のような、胸の奥をごっそり抜かれる感覚ではなかった。ルシアンは父だった。書面上も、周囲の扱いとしても、そう呼ぶべき相手だった。
だが、クロエにとって彼は、ずっと遠い人だった。
母の隣に立っていたはずなのに、母の温度を持たない人。城にいながら、城を家にしなかった人。最後には、自分の領地を教団へ差し出した人。
その死は、悲しみではなく、終わりとして胸に落ちた。
桐子が殺した。
その瞬間を、クロエは見ていた。光の槍がルシアンを貫き、黒く変質した身体が崩れるのを、目を逸らさずに見た。
桐子の手は震えていなかった。少なくとも、その時は。
今は医療班に連れていかれ、肩を固定されている。アイギスも腕の処置を受けている。サニーは城内の残党処理と装置の回収指示を飛ばしている。第7班の隊員たちが、照明に紛れた装置を一つずつ外し、体内埋め込み型の回収対象を別に記録していた。
城の中は、ひどい有様だった。
壁は裂け、床には血が残り、倒れた教団兵たちは布をかけられている。見慣れた廊下が、知らない場所のように見えた。使用人の姿をした者たちもいた。かつて本当にこの城で働いていた者たちは、もうここにはいない。合法的に追い出され、別の顔がその場所を埋めていた。
クロエはそれでも立っていた。
ここは自分の城だ。
倒れるなら、最後でいい。
「クロエ」
サニーが近づいてくる。
「座りなさい」
「まだ」
「命令」
「あなた、私の上官ではないでしょう」
「今だけ医療班の代弁者」
軽い言い方だったが、目は笑っていなかった。
クロエは少しだけ息を吐き、近くの壁にもたれた。座りはしない。だが、これでサニーも妥協したらしい。
その時、外から慌ただしい足音が聞こえた。
第7班の隊員ではない。
使用人でもない。
もっと乱暴で、急いでいて、どこか聞き覚えのある足音。
「いやあ、ごめん。ちょっと遅れ——」
軽い声が、壊れた扉の向こうから入ってきた。
クロエは動けなかった。
金の髪。
紫の瞳。
記憶の中より少し大人びて、けれど肖像画よりずっと生きている顔。
ローザ・シュヴァリエが、そこに立っていた。
彼女は軽い調子で片手を上げかけ、周囲を見た。血。壊れた壁。布をかけられた遺体。負傷者。そして、クロエ。
ローザの笑みが消えた。
「……遅れたわね」
声が低くなる。
クロエは、一度目を疑った。
見間違いだと思った。疲れている。魔法無効化装置の影響も残っている。血を見すぎた。だから、死んだはずの母が見えている。
そう思おうとした。
「クロエ」
母が名前を呼んだ。
その声で、足が動いた。
クロエは駆け寄っていた。
途中でよろける。ローザが受け止める。腕の感触がある。匂いがある。体温がある。
灰ではない。
肖像画でもない。
生きている。
「母、様」
声が掠れた。
「うん」
ローザの手が、背中に回る。
「ただいま、クロエ」
その言葉で、クロエの中の十一年が音を立てた。
怒りも、安堵も、疑問も、言いたいことも、全部が同時に喉へ押し寄せる。生きていたのなら、なぜ戻らなかったのか。どうして一人で背負わせたのか。今までどこにいたのか。母に問うべき言葉はいくらでもあったのに、どれも声にならなかった。
クロエはただ、ローザの服を掴んだ。
ローザは何も言わず、しばらく受け止めていた。
母の腕は、記憶より少し細い気がした。
それでも、抱きしめる力は確かだった。幼い頃、嵐の夜に窓が鳴って眠れなかった時、同じように背中を撫でられたことがある。クロエはその記憶を思い出してしまい、余計に息が苦しくなった。
十一年分の怒りをぶつけるには、今の自分は疲れすぎている。
十一年分の安堵を受け止めるにも、今の自分は弱りすぎている。
だから、ただ服を掴むことしかできなかった。
やがてサニーが近づく。
「ローザ」
「サニー」
ローザはクロエを抱いたまま、サニーを見た。
「詳しい話は後で。今、子どもたちに聞かせていいところだけ話す」
「そうしなさい」
サニーの声には、怒りと安堵が混じっていた。
少し後、桐子とアイギスも同じ部屋へ呼ばれた。
桐子は肩を固定され、顔色も悪い。アイギスも腕に包帯を巻いている。それでも二人は、ローザを見て驚きを隠せていなかった。
「死んだはず、なんですよね」
桐子が慎重に言った。
「そういうことにしていたの」
ローザは答えた。
その口調は明るくしようとしていたが、目の奥は真面目だった。
「十一年前、私は死を偽装して人間界へ逃れた。この城に残ってくれた協力者とは、ずっと連絡を取っていたわ」
クロエは顔を上げた。
城に残ってくれた協力者。
誰のことか、すぐに分かった。だがローザはそれ以上を言わなかった。
「人間界では、現地の特殊部隊と協力して、集団失踪事件を追っていたの。今回、城で戦っていた教団兵の一部は、その失踪者たちよ」
部屋の空気が重くなる。
桐子の目が変わった。
「人間界の人たち、なんですか」
「全員ではない。でも一部はそう。魔法を使えない人間界の住人を拉致し、魔法の脅威を叩き込んだうえで、体内にアンチ・マジックを埋め込んでいる。あれで万能になったと思わせ、教団の兵として使った」
アイギスが拳を握る。
「救出は」
ローザは首を横に振った。
「救える段階ではなかった。洗脳に近いことはされている。でも、改造を受け入れたのも、その後に何をしたかも、最後は本人の意思だった。少なくとも、現場ではそう判断するしかない」
その言葉は冷たく聞こえる。
だが、ローザの表情は冷たくなかった。言いたくないことを、言わなければならない顔だった。
「彼らは魔界側の戸籍には存在しない。今は匿名の集団として扱う。遺体と記録は、私から人間界側へ繋ぐ。身元は向こうとの照合で判明させるわ」
「装置は」
サニーが言う。
「第7班で回収する。解析は第3班へ回す」
「リリーね」
ローザが頷いた。
「あの子なら、嫌な顔をしながら喜ぶでしょうね」
「喜ぶなと言っておく」
「無理でしょ」
ほんの少しだけ、空気が緩んだ。
クロエはローザの横顔を見ていた。
母は生きている。
けれど、十一年の空白がなくなるわけではない。ルシアンの裏切りも、城の傷も、今日死んだ者たちも、なかったことにはならない。
それでも。
母の手が、まだ自分の肩にある。
その重さだけで、クロエは立っていられた。
母の生存は救いだった。
同時に、新しい問いの始まりでもあった。なぜ死を偽ったのか。なぜクロエにだけでも知らせなかったのか。城に残った協力者とは誰なのか。人間界で何を見て、何を片付け、何を背負って戻ってきたのか。
聞きたいことは山ほどある。
だが、今は一つだけでいい。
「母様」
「何?」
「話してもらうことが、たくさんあります」
ローザは一瞬だけ笑い、それから真面目に頷いた。
「ええ。逃げないわ」
その言葉を、クロエは信じたいと思った。




