第28話
桐子の手の中で、短槍が砕けた。
金属片が散る。ルシアンの黒い腕が、その破片ごと桐子を押し潰そうと迫る。
避けられない。
受け止められない。
そう判断するより早く、掌の奥から光が伸びた。
銀ではなかった。
サニーの銀閃とも、自分の歪な武具創造とも違う。色を言葉にしようとすると、白にも金にも見える。だが、そのどれでもない。月明かりを固めたようで、朝日を刃にしたようで、見ているだけで目の奥が痛む。
槍だった。
人が鍛えた武器ではない。魔力で形作った武具でもない。柄を握っているのに、重さが分からない。重いのではない。軽いのでもない。手の中にあるという事実だけが、世界へ直接書き込まれている。
ルシアンの腕が槍に触れた。
黒い皮膚が弾ける。
血ではなく、黒い煙のようなものが散った。
ルシアンが初めて表情を変えた。
「何ですか、それは」
桐子にも分からない。
答えはどこにもない。声も聞こえない。誰かが名前を教えてくれるわけでもない。
ただ、分かることが一つだけあった。
これは借り物だ。
自分の力ではない。
けれど今この瞬間、握ることを許されている。
許されている、という感覚が一番近かった。
選ばれたというほど誇らしいものではない。与えられたというほど優しくもない。誰かが遠くから手を伸ばし、今だけこの槍を置いていった。そんな感触だけが、掌から腕へ、腕から胸へ広がっていく。
怖い。
それでも、手放せない。
手放した瞬間、背後にいるクロエとアイギスへ黒い腕が届く。
掌が焼けるように熱い。
だが痛みではない。身体の内側から湧く熱とも違う。自分の外側にあるものが、手の形に合わせて流れ込んでくるような感覚だった。受け入れすぎれば、自分の輪郭まで持っていかれそうになる。
桐子は奥歯を噛んだ。
借り物なら、借りた分だけでいい。
飲まれるな。
「桐子」
クロエの声がした。
弱い。
それでも、折れていない声だった。
「お願い」
クロエは装飾鎧の陰から、こちらを見ていた。顔色は悪く、立っているだけでも辛そうだ。それでも紫の瞳だけは、まっすぐだった。
「ルシアンを止めて。西部領を救って」
「はい」
桐子は答えた。
その声が自分のものなのか、少し遠く感じた。
ルシアンが後退する。
教団兵たちが動いた。クロスボウが向く。槍が迫る。剣が走る。
桐子は槍を振った。
大きな動きではない。
ただ横へ払っただけ。
それだけで、矢が砕け、槍の穂先が折れ、剣が根元から飛んだ。魔法無効化装置の圧はまだある。照明は消えたままだ。魔力は形にならない。
なのに、この槍だけは消えない。
魔法ではないから。
気でもないから。
もっと外側にある何か。
神威。
その言葉が、どこからともなく胸の奥に落ちた。
桐子はその意味を知らない。
知らないのに、身体だけが理解している。魔力は外から世界へ触れる力。気は内側から身体を通す力。そのどちらでもない。もっと遠く、もっと高く、けれど今は確かに手の中にあるもの。
名前が先に来たのではない。
手の中にある感触へ、後から言葉が追いついた。桐子の知識では届かない場所から、ただ呼び名だけが落ちてきたようだった。
借り物の力。
だからこそ、雑に扱ってはいけない。
槍の穂先がわずかに震えた。
それは桐子の震えではない。槍そのものが、目の前の黒い異物を拒んでいるようだった。魔法無効化装置でも、不滅の魔石でも、教団兵の信仰でも、この光には触れられない。
この場にある理屈の外から、別の理屈が割り込んできている。
桐子は踏み込む。
ルシアンの黒い腕が伸びる。速い。重い。先ほどまでなら押し負けていた。
槍を合わせる。
黒い腕が裂けた。
ルシアンが呻く。
「あり得ない。魔法は封じている。気配も違う。何を」
桐子は答えない。
答えを持っていない。
ただ、身体は動く。
黒峰流の足運びで距離を詰める。槍術と呼べるほど綺麗ではない。道場で積んだ体術に、手の中の槍が勝手に道筋を与えてくる。突く。払う。引く。相手の重心を崩す。刃ではなく、存在そのものがルシアンの黒を削っていく。
不滅の魔石に守られたはずの肉体が、光に触れるたび崩れる。
「やめろ」
ルシアンの声が初めて乱れた。
「その力は、違う。私の見ている完成に、そんなものは」
桐子は一歩進む。
ルシアンが後退る。
「死を拒むことが、そんなに悪いのですか」
問いではない。
縋りつく声だった。
桐子は槍を構えたまま、彼を見る。
長くは見ない。
言葉を探さない。
この人が何を失い、何を求め、どこで歪んだのか。今の桐子には、そこへ割くものがない。
同情をしないのではない。
理解できないものを切り捨てるのでもない。
ただ、順番がある。
目の前でクロエの家が壊され、アイギスが盾を失ってなお守り続け、城の外では誰かが今も戦っている。ルシアンの苦しみを考えるのは、その全部を止めた後でいい。
敵対した。
命をかけて、クロエと西部領を踏みにじった。
なら、止める。
拳を握る以上は、命を奪う覚悟を持て。
黒峰の道場で何度も聞いた言葉が、胸の奥で静かに立ち上がる。
覚悟とは、声に出して誓うものではない。必要な時に、手を止めないことだ。
ルシアンが最後の力で飛びかかった。
黒い腕が広がる。人の形を捨てかけた身体が、桐子を飲み込もうとする。
桐子は前へ出た。
逃げない。
避けない。
槍をまっすぐ突き出す。
光が、黒を貫いた。
抵抗は一瞬だけだった。
次の瞬間、ルシアンの身体が止まる。
目が見開かれる。何か言おうとした口から、声は出なかった。黒い体色がひび割れ、内側から光に焼かれるように崩れていく。
桐子は槍を抜かない。
最後まで、握っていた。
ルシアンの身体が床へ崩れ落ちる。
音は、思っていたより小さかった。
教団兵たちの動きが止まる。
クロエが見ている。
アイギスも見ている。
誰もすぐには声を出さなかった。
遠くの戦闘音だけが、まだ城のどこかで鳴っている。窓の外では、城下の赤い光が揺れていた。勝ったという実感はない。目の前の一人を止めただけで、戦場そのものはまだ続いている。
それでも、この場の中心にあったものは終わった。
桐子の手の中にある槍が、役目を終えたように静かに薄れていく。
桐子は息を吐いた。
手の中の槍が、ゆっくり薄くなる。
光がほどけ、粒子になって消えていく。掌には何も残らない。重さも、熱も、痛みも、急に遠くなった。
代わりに、全身の疲労が落ちてくる。
桐子は膝をつきかけ、踏みとどまった。
倒れるのは、まだ早い。
ルシアンは動かない。
桐子は、それを確認した。
自分が殺した。
その事実だけを、胸の奥へ置く。
今はまだ、言葉にしない。
言葉にした瞬間、足が止まる気がした。
戦いは完全には終わっていない。遠くでまだ金属音がしている。サニーはまだ来ない。クロエは立っているのがやっとで、アイギスも扉の残骸を支えにしている。
だから、桐子は顔を上げた。
次に来るものを見なければならなかった。




