第27話
桐子は、ルシアンの顔を長く見なかった。
見る必要がない。
相手の表情を読むより、足を見る。肩を見る。呼吸を見る。武器を持つ手を見る。言葉に反応している余裕があるなら、一歩でも前へ出る。
教団兵が三人、同時に来た。
左は盾。中央は剣。右は槍。
桐子は中央へ行かない。左の盾持ちへ踏み込む。盾の真正面に入るのではなく、縁へ手をかけて引く。相手の重心が流れた瞬間、足を払う。倒れかけた身体を押し込み、中央の剣の軌道へぶつけた。
剣が止まる。
右の槍が突いてくる。
桐子はアトラトルで穂先を叩いた。完全には逸れない。肩口をかすめる。痛みは後でいい。短槍を逆手に持ち替え、槍持ちの手首へ打ち込む。
骨が嫌な音を立てた。
相手が叫ぶ。
桐子は叫びを聞き流す。
次。
足元に落ちた剣を蹴り上げ、柄を掴む。慣れない武器だが、振るためではない。迫ってきた敵の膝裏へ引っかけ、倒す。倒れた敵の肩を踏み、前へ跳ぶ。
黒峰流は、道場の中だけのものではない。
徒手が基本。だが、武器を持てば使う。奪えるなら奪う。相手が鎧を着ているなら、鎧の隙間ではなく、鎧ごと動けない形にする。殺すか殺さないかを先に考えない。相手が敵対している以上、まず止める。
その教えが、桐子の身体の奥に残っていた。
徹心は、技を綺麗に見せることを嫌った。
型は必要だが、型を見せるために戦うな。武器を持つなとは言わない。持ったなら使え。落ちているなら拾え。相手が卑怯なら、その卑怯ごと潰せ。試合では禁じられていることでも、命のやり取りで相手が選んだなら、それはもう戦場の条件だ。
その言葉を、桐子は何度も聞いていた。
真希は笑いながら受け入れ、桐子は半分呆れながら、それでも身体に叩き込んできた。
道場では、そんな教えを実際に使う場面など来ないと思っていた。
試合には規則がある。審判がいる。負傷すれば止められる。どれほど激しく打ち合っても、そこには終わりを告げる声があった。
今は違う。
誰も止めてくれない。相手が倒れるか、自分が倒れるか、守るべき相手に刃が届くか。そのどれかでしか、戦いは区切られない。
気の運用はしていない。
魔法の訓練を始めてから、桐子は気を扱うことをやめていた。魔力と噛み合わず、真希を刺した原因にも繋がっている。だから今の桐子にあるのは、呼吸と筋肉と、積み上げた型だけだ。
それでも動ける。
魔法が使えない戦場で、魔法に頼らない技術だけが残っている。
ルシアンへ近づく。
教団兵が壁になる。桐子は止まらない。アイギスが背後で何かを倒す音がした。たぶん、また家具を盾にしている。クロエの荒い呼吸も聞こえる。
守るものが後ろにある。
なら、前へ行くしかない。
怖くないわけではない。
腹の底は冷えている。指先も少し痺れている。けれど、怖いから止まるという選択肢は、今の桐子にはなかった。怖いまま動く訓練だけは、嫌というほど積んでいる。
桐子は短槍を投げた。
魔法で作った武器ではない。だから、投げても消えない。飛んだ短槍は、ルシアンの手前にいた兵の肩へ突き刺さる。殺す位置ではない。動きを止める位置。
その兵が崩れた瞬間、桐子は床を蹴った。
ルシアンの間合いに入る。
拳が届く。
だが、届く前にルシアンの腕が動いた。
速い。
桐子は咄嗟に身をひねった。掠めた指先が頬を裂く。熱い血が流れる。
「身体能力だけでここまで来ますか」
ルシアンが言った。
感心しているようで、目は冷たい。
「魔法を封じられてなお、その動き。興味深いですね」
桐子は返事をしない。
踏み込む。
拳を打つ。
ルシアンは腕で受けた。人間種の身体としては硬すぎる感触が返ってくる。骨ではない。何か別のものが内側にあるような感覚。
「ですが、届きません」
ルシアンの胸元が、黒く脈打った。
服の下から、嫌な魔力の気配が広がる。魔法無効化装置に消されない。むしろ、それを無視して膨らんでいる。
不滅の魔石。
言葉だけは聞いている。
だが、目の前の現象は知識よりずっと気持ち悪かった。
ルシアンの皮膚の色が変わっていく。
黒。
ただ暗いのではない。光を吸うような、養成所の授業資料で見た旧王都発生の魔獣を思わせる黒。理性を失って暴れるのではない。ルシアンは微笑んだままだ。だからこそ余計に歪んで見えた。
「死は不完全です」
ルシアンが言った。
「終わることを美しいと語る者は、終わらせられる側の恐怖を知らない。不滅こそが、世界の不足を埋める」
桐子はアトラトルを握り直す。
ルシアンが踏み込んだ。
速さが変わった。
さっきまでとは別物だ。
桐子は受けずに避ける。避けきれない。肩に衝撃が入り、壁へ叩きつけられた。肺から空気が抜ける。視界が白く弾ける。
「白銀」
アイギスの声。
立て。
桐子は床に手をついた。
指が震える。肩が痛い。息が吸えない。
ルシアンが歩いてくる。
黒い肌の下で、何かが脈打っている。人の形をしているのに、人の範囲から少しずつ外れていく。
「あなたは、面白い素材になりそうだ」
その言葉で、桐子の中の何かが冷えた。
怒りではない。
もっと硬いもの。
人を素材と呼ぶ声を、桐子は受け流せなかった。
それはクロエに向けられた言葉でもあり、手を加えられたらしい兵たちに向けられた言葉でもあり、たぶん桐子自身にも向けられている。相手の人生や痛みを、自分の目的の部品として扱う声。
桐子は詳しい事情を知らない。ルシアンが何を信じ、何に魅入られ、どこで道を間違えたのかも分からない。
だが、今ここでその事情を受け止める必要はない。
真希ならどう動くか、という考えが一瞬だけよぎる。
すぐに消した。
今ここに真希はいない。桐子が立つしかない。真希の強さを基準にして足を止める癖は、もう何度も自分を追い詰めてきた。
桐子は桐子の身体で、この場を抜ける。
桐子は立ち上がる。
足元に、さっき投げた短槍が転がっていた。肩に刺さった兵が倒れた拍子に抜けたのだろう。桐子はそれを拾った。
息を整える。
勝てるかどうかではない。
止める。
クロエに頼まれた。この男は、西部領を壊そうとしている。
桐子は短槍を構えた。
ルシアンが再び踏み込む。
速い。
黒い腕が迫る。
桐子は短槍を合わせた。金属が軋み、曲がる。押し負ける。足が滑る。
腕の骨が悲鳴を上げた。
短槍を通して伝わる衝撃は、人の力ではない。壁へ追い込まれた瞬間、逃げる場所が消える。背後にはクロエがいる。横にはアイギスがいる。自分がここで弾かれれば、次に潰されるのは二人だ。
だから、退けない。
退けないのに、身体は押し負けている。
その瞬間、桐子は自分の手の中に、別の感触が生まれるのを感じた。
銀ではない。
魔力でもない。
気でもない。
知らない光が、掌の奥で息をした。
それは助けを求めたから来たものではなかった。
勝ちたいと願ったからでもない。
ただ、止めると決めた瞬間に、どこか遠くの扉が開いたような感覚だけがある。桐子の手の中で、砕けかけた短槍の感触と、まったく別の何かが重なっていく。
ルシアンの黒い腕が、もう目の前にあった。




