第26話
【お詫び】20話〜25話にて記載予定の文章に漏れがありました。(2026/6/28 6:47 修正完了)
現在は修正を完了しております。ご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした。
クロエは、ルシアン・シュヴァリエの声を聞いた瞬間、城の床が少し遠くなったように感じた。
書面上の父。
公的には、自分の後見人。
母を失った後、この城で最も強い権限を持つようになった男。
ルシアンは、月明かりの下に立っていた。戦場のただ中にいるというのに、表情は乱れていない。周囲に倒れている教団兵にも、傷ついた壁にも、クロエの顔色にも、さほど関心がないように見える。
「お久しぶり、というほどでもありませんね。クロエ」
呼び捨て。
父親らしい親しみではない。所有物の名前を確認するような、冷たい響きだった。
「あなたが」
クロエは声を絞り出した。
「あなたが、これを」
「ええ」
ルシアンはあっさり頷いた。
「城内の設備を少々整えました。あなたが帰ってくる時期に合わせるのは、なかなか手間でしたが」
「教団と手を組んだの」
「手を組んだ、という言い方は少し違いますね。私は元より、正しい信仰の側にいた」
正しい信仰。
その言葉が、クロエの耳に汚物のように触れた。
母を奪ったはずの教団。西部領を傷つけた教団。その残党が今この城にいる。使用人の顔をして、兵士の顔をして、父の背後に並んでいる。
胸の奥で何かが軋んだ。
怒りはある。憎しみもある。だが、それ以上に身体が動かない。
魔法が使えない。雷を呼べない。霧にもなれない。血液を武器に変えることもできない。吸血鬼としての身体は残っているはずなのに、内側から重りを詰め込まれたように鈍い。
クロエは、自分が守られていることを理解していた。
アイギスが壊れた扉を構え、桐子が短槍を持って前に立つ。二人とも傷を負っている。自分の城で、自分の敵を相手に、自分ではなく二人が前に出ている。
屈辱だった。
そして、それを屈辱と思う自分が、さらに悔しかった。
「クロエさん、下がってください」
桐子が言った。
声は焦っているが、背中は逃げていない。
「あの人が、首謀者ですか」
「ええ」
クロエは答えた。
「ルシアン・シュヴァリエ。私の父よ」
その名前を口にした瞬間、隠していた腐敗が月明かりの下に引きずり出されたような気がした。
ルシアンは微笑んだ。
「紹介していただけるとは光栄です。ですが、クロエ。父と呼ぶには、少々刺々しい響きですね」
「そう呼ばれる資格があると思っているの」
「資格など、書類が証明しています」
淡々とした返答だった。
クロエは奥歯を噛んだ。
書類。手続き。権限。母がいなくなった後、この男はいつもそれを使った。使用人を入れ替える時も、城の権限を握る時も、クロエが幼いことを盾にする時も。
合法であることと、正しいことは違う。
その言葉を、幼い頃の自分は何度も飲み込まされた。
「母を殺した教団と、よく同じ場所に立てるわね」
「ローザは優れた領主でした」
ルシアンの声に、感情はなかった。
「ですが、彼女は限界を知らなかった。命には終わりがある。肉体には衰えがある。力には上限がある。その事実を、美しい言葉で覆い隠していただけです」
「黙りなさい」
「不滅の魔石は違う」
ルシアンの目が、初めて熱を帯びた。
「あれは終わりを超える。死を、損耗を、時間を、我々の側から踏み越えるための鍵です。魔神の残滓に魅入られた愚かな者たちとは違う。私は、その先にある完成を見ている」
クロエは吐き気を覚えた。
母の話をしていたはずなのに、この男の目はもう母を見ていない。西部領も見ていない。クロエのことも見ていない。ただ、不滅の魔石という言葉だけに酔っている。
昔から、ルシアンは何かを見ているようで何も見ていなかった。
幼いクロエが熱を出しても、彼は医師を呼ぶ手配だけをして、枕元には来なかった。領民の陳情が届いても、書類上の処理を優先し、相手の顔を覚えようとはしなかった。母が笑って人の輪の中心に立つほど、彼は輪の外側で冷たい目をしていた。
その距離が、事件後にはさらに広がった。
今目の前にいる男は、もはや父という役割すらまとっていない。
「そのために、領民を巻き込んだの」
「必要な過程です」
「使用人たちを」
「配置を改めただけです」
「あの兵たちに、何をしたの」
「素材は、適した場所で用いるべきでしょう」
桐子の気配が変わった。
クロエにも分かった。彼女の怒りは、声ではなく足元に出る。重心がわずかに前へ沈み、肩の力が抜ける。
「素材って言いましたか」
桐子の声は低かった。
ルシアンは桐子へ視線を向けた。
「あなたが、白銀桐子ですね。サニー・アージェントの保護下にある、出自不明の子」
「質問に答えてください」
「素材と言いました」
ルシアンは微笑んだまま答えた。
桐子が一歩踏み出す。アイギスが扉の残骸を持ち直した。
クロエは自分の指先を握り込む。爪が掌に食い込んだ。痛みはある。まだ感覚はある。だが、戦うには足りない。
自分の敵なのに。
自分の城なのに。
雷を呼ぼうとすると、胸の奥で魔力がざらりと崩れる。霧になろうとすれば、身体の輪郭が重く縫い止められる。吸血鬼として残っている力はある。だが、ルシアンの前に立って押し返せるほどではない。
守るべき場所で、守られている。
その事実が、喉を焼くようだった。
桐子もアイギスも、ここに来てからまだ西部領の全てを知ったわけではない。領民の顔も、城の歴史も、母のことも、父のことも、クロエが抱えてきたものも、ほんの一部しか知らない。
それでも二人は前に立っている。
知らないから逃げるのではなく、知っている範囲で守ろうとしている。
その背中を見ていることが、クロエには苦しかった。
頼もしいと感じる自分と、頼もしいと思ってしまう自分を許せない自分が、同じ胸の中でぶつかっている。
「クロエ」
ルシアンが呼ぶ。
「あなたには利用価値があります。西部領の名、吸血鬼としての性質、ローザの残した象徴。今ここで壊すつもりはありません」
「ふざけないで」
「ふざけてはいません。あなたは生きていればいい。立場があればいい。意思など、後から整えられる」
クロエの喉が震えた。
怒りで声が出ない。
桐子が振り返らずに言った。
「クロエさん」
「何」
「止めます」
あまりに単純な言葉だった。
何をどうするのか、勝てるのか、殺すのか、生かすのか。何も説明しない。それでも、クロエはその背中を見た。
試験で、自分に負けても折れなかった背中。
血を流しながら、前へ出続ける背中。
今この城で、自分の代わりに立っている背中。
「お願い」
クロエは言った。
声に出すと、胸の奥の何かが崩れそうになった。
「ルシアンを止めて。西部領を、救って」
桐子は短く頷いた。
「はい」
その返事には、余計な飾りがなかった。
ルシアンが片手を上げる。教団兵たちが動いた。
そして戦場は、再び音を取り戻した。
クロエはその音の中で、自分の指先を開いた。
雷は出ない。
霧にもなれない。
だが、見ていることだけはできる。桐子が何を選び、アイギスがどう守り、ルシアンがどこまで堕ちているのか。目を逸らせば、今度こそこの城の次代を名乗る資格を失う。
クロエは壁に背を預けたまま、震える足に力を入れた。




