第25話
アイギス・アージェントは、自分の手の中で盾が消える感覚を忘れないと思った。
光が形になる。
いつもなら、そこから先は自分の領域だった。盾は手に馴染む。浮かせる位置を決めれば、魔力は意図に従って面を作る。味方の前へ置く。敵の突進を受け止める。隙を塞ぎ、時間を稼ぎ、戦場の形を整える。
だが今は、形になる前に崩れる。
手のひらから伸びた銀色の光は、見えない刃で細かく裂かれるように揺れ、輪郭を保てず消えた。魔術式の構築を阻害されている。発動済みの魔法も維持できない。周囲の照明や通信端末が沈黙していることを考えれば、妨害は局所的なものではなく、城の機能そのものを巻き込んでいる。
魔法無効化装置。
言葉としては知っている。
不滅の魔石の破壊研究から生まれた技術。その来歴を知る大人たちが、忌々しげにアンチ・マジックと呼ぶもの。実物を目にしたことはない。養成所の生徒が、実戦で目にするべきものでもない。
それが今、シュヴァリエ城を覆っている。
据え置き型だけではない。
近づいてくる教団兵の中には、周囲の魔力を奇妙に削る者がいる。照明に紛れた装置とは違う、もっと狭く、もっと人体に貼り付いたような気配。触れるか触れないかの距離で、こちらの魔力だけを乱してくる。
体内埋め込み型。
その可能性に思い至った瞬間、アイギスは奥歯を噛んだ。人の身体を、魔法を消すための器具にしている。そう理解しても、今は怒りに時間を割けない。
「アイギス」
クロエの声が震えた。
アイギスは振り向かない。
振り向けば、守るべき相手から目を離すことになる。
「下がっていろ」
「私に命令を」
「今は聞け」
強く言うと、背後でクロエが息を呑んだ。
普段なら、こんな言い方はしない。だが、今は礼節より生存が先だ。クロエの魔力は乱れている。吸血鬼としての身体能力までは完全に消えていないが、雷撃も霧化も、彼女の強みである魔法的な手札は封じられている。弱体化の影響で、立っているだけでも辛そうだ。
守らなければならない。
盾がなくても。
アイギスは壁際の装飾鎧を掴んだ。
重い。
これは武具創造で生んだ盾ではなく、ただの金属の塊だ。だが、重いということは、遮蔽物になるということでもある。
クロスボウの弦が鳴る。
アイギスは装飾鎧を引き倒した。矢が胸甲へ当たり、硬い音を立てる。その陰にクロエを押し込む。
「そこから出るな」
「言われなくても」
クロエの返事は弱いが、まだ折れてはいない。
それでいい。
折れていない者は守れる。
完全に諦めた相手を守るのは難しい。身体だけを庇っても、心がその場に残っていなければ戦場から連れ出せない。クロエは弱っている。悔しさで震えている。それでも、まだ目は死んでいない。
なら、アイギスの役割ははっきりしている。
桐子は前で動いている。
魔法が封じられた戦場で、彼女だけが妙に馴染んでいた。短槍で手首を叩き、奪った剣を捨て、アトラトルを棒のように使って敵の膝を打つ。動きは荒い。戦場全体を見る余裕もない。だが、目の前の敵を止める速度は速い。
自分は、その背中を崩させない。
アイギスは近くの扉へ目を向けた。
厚い木製。金属補強あり。蝶番は古いが、板はまだ強い。
蹴る。
一度では外れない。二度目で蝶番が悲鳴を上げた。三度目で扉が傾く。
教団兵が迫る。槍の穂先が月光を拾う。
アイギスは外れかけた扉を両手で掴み、前へ押し出した。
盾ではない。
だが、盾として使う。
槍が扉に刺さる。衝撃が腕へ来た。いつもの盾なら魔力で受け流せる衝撃を、今は骨と筋肉で受け止めるしかない。
痛い。
だが、耐えられる。
「白銀、二歩下がれ」
「はい」
桐子が即座に下がる。
アイギスは扉を斜めに倒した。押し込んできた敵が足を取られる。桐子が横から入り、肘、喉元、膝の順に叩く。倒れた敵の武器を奪い、次へ投げる。
連携になっている。
訓練の成果だ。
そう思った瞬間、別の敵が距離を詰めてきた。
触れるか触れないかの近さで、アイギスの身体に奇妙な圧がかかる。魔力が皮膚の下でざらつく。体内埋め込み型の魔法無効化装置。効果範囲は広くない。だが近づかれるほど、こちらの魔法は完全に死ぬ。
盾が出ないだけではない。
身体強化も不安定になる。
教団兵はそれを分かっている。魔法を持たない者のための戦い方。魔法を使う者を引きずり下ろし、相手だけを裸にする戦い方。
アイギスは歯を食いしばった。
訓練で想定したことはある。
盾を出す前に潰される。魔力を乱される。防御役が最初に狙われる。いずれも戦場では起こり得ることだと教えられてきた。だが、それはあくまで一時的な妨害や奇襲としての想定だった。
今は違う。
戦場そのものが、アイギスの盾を拒んでいる。
それでも護る役割は消えない。役割を果たすための道具が一つ奪われただけだと、自分に言い聞かせる。
敵の剣を扉で受ける。扉が割れる。破片が散る。それでも、割れた板はまだ使える。
半分になった板を横へ投げると、別の敵の足元に滑り込み、体勢を崩した。近くの小卓を蹴り上げ、クロスボウ兵の射線を塞ぐ。燭台を掴んで槍の柄を打ち、柱の装飾片を蹴って転がす。
盾はない。
だが、防ぐものはいくらでもある。
守る意思まで消えるわけではない。
アイギスは壊れた扉の破片を踏み越え、次の遮蔽物を探した。
廊下の端には古い長椅子がある。背もたれは厚く、脚も太い。近くには重い花台があり、倒せば通路を一瞬塞げる。装飾用の剣は刃こそ鈍いが、相手の手首を打つには十分だ。
見慣れた盾の代わりに、城そのものを盾にする。
そう考えた瞬間、少しだけ呼吸が整った。
ただし、それは余裕ではない。
扉は一度使えば壊れる。長椅子も、花台も、装飾鎧も、盾のように再生成できない。使えば減る。割れれば終わる。位置を間違えれば、味方の退路を塞ぐだけになる。
アイギスは、頭の中で廊下の形を組み直した。
クロエを置く場所。桐子が動くための幅。敵の射線。体内埋め込み型の近接範囲。月明かりと海光が届く角度。敵のライトがこちらの目を潰す瞬間。
盾を出していた時より、考えることが多い。
それでも、考えられるならまだ戦える。
「あなた」
背後でクロエが言った。
「そこまでして」
「友人を守るのに、理由がいるか」
アイギスは短く返した。
クロエは黙った。
その沈黙の中に、何かがほどける気配があった。今は確認できない。戦場では、確認すべきことの順番を間違えてはならない。
廊下の奥から、靴音がした。
教団兵たちの動きが変わる。道を開けるように左右へ引いた。
アイギスは割れた扉の残骸を構え直す。
月明かりの届く位置へ、一人の男が歩み出た。
整った服装。丁寧な足取り。戦場に現れたというのに、衣服の乱れ一つ気にしていない。
クロエの呼吸が、今度こそ明確に乱れた。
アイギスはその反応を背中で感じた。
敵の増援に対する反応ではない。クロエの身体から力が抜けかけ、すぐに意地で持ち直す気配がある。見知った相手。しかも、ただの知人ではない。
ならば、最優先で守る対象は変わらない。
アイギスは扉の残骸を構え直し、クロエの前へ半歩だけ出た。
「そんな顔をしないでください、クロエ」
男は穏やかに言った。
穏やかなだけの、冷たい声だった。




