第24話
桐子は、最初に灯りの形を見た。
魔法の光ではない。手に持つ筒の先から、白い光が伸びている。人間界で見た懐中電灯に似ていた。形はそれぞれ違う。細いもの、太いもの、角ばったもの。だが、どれもシュヴァリエ城の装飾とはまるで合っていない。
その光の後ろに、人がいる。
鎧は宗教騎士のようだった。白と黒を基調にした外套。胸元には、魔神教団のものだと授業で見た印がある。剣、槍、盾。後ろにはクロスボウを構えた者もいた。
足音が揃っている。
廊下の暗さにも迷いがない。
相手は、暗い場所で戦うことに慣れていた。
「クロエ様」
先頭の男が言った。
声は穏やかだった。その穏やかさが、桐子には気持ち悪かった。
「お戻りをお待ちしておりました」
「あなたたち、誰の許可でこの城にいるの」
クロエの声は冷たい。
だが、足元がわずかに揺れている。魔法無効化の影響なのか、顔色も悪い。いつものような雷の気配はない。
「正しき導きのもとに」
男が一歩進む。
アイギスが前へ出た。
盾は出ない。それでも迷わなかった。近くにあった装飾用の槍を壁から外し、構える。
「下がれ」
静かだが、よく通る声だった。
桐子も短槍を抜いた。
武具創造は使えない。試しに意識を向けるまでもなく、手のひらの奥が空回りする感覚がある。魔力が形になる前に、何かにほどかれている。
なら、使えないものは捨てる。
桐子は息を吐いた。
真希と道場に立っていた頃の感覚を、足裏へ落とす。畳ではない。石床だ。裸足でもない。相手は人間界の武道家ではなく、武装した教団兵。
条件は違う。
でも、人の身体が動く理屈は同じだ。
桐子は自分の呼吸を数えた。
吸う、吐く、足裏へ落とす。石床は畳より硬い。靴底は足指の感覚を鈍らせる。だが、相手が踏み込む前の肩の沈み方、武器を振る前の肘の角度、体重が乗り切る一瞬の遅れは変わらない。
魔法が使えないなら、見えるものを使う。
自分の身体と、相手の身体と、そこにある道具だけでいい。
それでも、完全にいつもの自分ではない。
魔力が乱されているせいか、身体の奥にうっすらとした吐き気がある。気の訓練をやめてから、桐子は自分の内側をできるだけ刺激しないようにしてきた。魔法と気がぶつかれば何が起こるかを、誰よりもよく知っているからだ。
だから今は、何も足さない。
呼吸を整え、踏み込みを正し、積み上げてきた技だけで動く。
「クロエさん、後ろへ」
「命令しないで」
「今は聞いてください」
クロエの目が桐子を射抜く。だが、言い返す前にクロスボウの弦が鳴った。
桐子は横へ跳ぶ。
矢が壁に刺さった。金属音が城内に跳ねる。アイギスが装飾槍で二本目を弾く。盾がなくても、反応は速い。
教団兵が一斉に動いた。
訓練されている。
桐子はすぐに分かった。暗い廊下での距離の詰め方、灯りの向け方、クロスボウの射線。魔法を使えないことを前提にしている。こちらが魔法を封じられて混乱する間に、白兵戦で押し潰すための動きだ。
先頭の剣が振り下ろされる。
桐子は踏み込んだ。
避けるのではなく、剣の根元へ入る。相手の手首を短槍の柄で叩き、肘を押さえ、膝を太腿へ入れる。男の身体が崩れたところで、顎を掌底で打ち上げた。
倒れる。
次。
考えすぎるな。
目の前の敵を止める。動けなくする。次へ行く。
それだけでいい。
槍持ちが突いてくる。桐子は短槍で穂先を逸らし、相手の懐へ入る。柄を掴んで引き、膝を腹へ入れ、奪った槍をそのまま横の敵へ投げつけた。
鎧に当たり、男がよろめく。
その隙にアイギスが燭台を引き抜き、盾代わりに構えた。
「クロエ、こちらへ」
「分かっているわ」
クロエは苦しそうにしながらも、崩れない。自分で歩き、壁際へ下がる。だが雷撃は出ない。霧にもなれない。爪先が一瞬もつれたのを、桐子は見た。
吸血鬼が、弱っている。
それが敵の狙いなのだろう。
桐子は歯を食いしばる。
後方のクロスボウが狙いを変えた。クロエへ。
桐子は腰のアトラトルを抜いた。
鍛冶屋で買った、ただの道具。魔法ではない。だから残る。だから使える。
短槍を番えるには距離が近すぎる。投げない。桐子はアトラトルを短い棒のように握り、飛んできた矢の軌道へ打ち込んだ。完全には弾けない。矢が肩を掠め、熱い痛みが走る。
だがクロエには届かない。
「桐子」
「大丈夫です」
大丈夫ではない。
痛い。
怖い。
試験とは違う。結界がない。誰かが止めてくれる保証もない。倒れた相手が起き上がらないかもしれないし、自分が倒れたら終わるかもしれない。
それでも、足は止まらなかった。
前へ出る。
教団兵が盾を構え、通路を塞ぐ。背後から別の兵が回り込もうとする。
アイギスが近くの小卓を蹴り倒し、即席の障害物にした。さらに壁際の装飾鎧を押し倒す。派手な音が響き、敵の足が止まる。
「白銀、右」
「はい」
桐子は右から来た剣を受けずに潜る。相手の足首を払い、倒れた兵の胸を踏み越えて奥へ出た。
倒れた兵の目が桐子を睨む。
怒りだけではない。そこには、魔法を失った相手を見下すような奇妙な優越感が残っていた。魔法を恐れ、魔法に傷つけられ、その恐怖を裏返して武器にした者の目だと、桐子は直感した。
だが、そこで立ち止まらない。
なぜそうなったのかを考えるのは、今ではない。相手は武器を持ち、クロエへ向かっている。なら、止める。
灯りが目に入る。
白い光が眩しい。
人間界の光だ、と一瞬だけ思った。
こんな場所に、こんなものがある。
その違和感を考える余裕はない。桐子は奪った剣の柄を逆手に持ち、ライトを持つ手を叩き落とした。白い光が床を転がる。廊下の影が動く。
暗闇に慣れているのは、敵だけではない。
桐子は道場の夜稽古を思い出す。真希と向かい合った、薄暗い稽古場。足音、呼吸、体重移動。見えないものを、身体で拾う。
相手の肩が動く。
突きが来る。
半歩ずれて、肘を折る角度で打つ。
叫び声が上がった。
桐子はその声を追わない。
次へ行く。
廊下の奥から、さらに足音が増える。城の外でも何かが起きているのだろう。遠くで鐘のような音が鳴り、窓の向こう、城下の方に赤い光が見えた。
西部領全体が燃えている。
その実感が、喉の奥を冷たくした。
サニーが遅れると言った理由が、ようやく輪郭を持つ。
ここだけではない。城だけでもない。領地全体で何かが起きている。駅前でクロエを歓迎していた人々、葡萄畑の話をしていた男、子どもを抱いて頭を下げた女性。あの人たちのいる場所にも、同じような灯りと刃が向かっているのかもしれない。
桐子は短槍を握り直した。
怖さが消えるわけではない。だが、怖いから止まるという選択肢は消えた。
「クロエさん」
桐子は短く呼んだ。
「城の安全な場所は」
「この状況で安全な場所なんて」
クロエが言いかける。
その時、廊下の奥から別の声がした。
「安全など、どこにもありませんよ」
桐子は振り向く。
闇の向こうで、兵たちが左右に分かれた。
だが、その人物はまだ光の外にいる。
クロエの呼吸が、はっきり止まった。
桐子はその反応だけで、相手がただの敵兵ではないと理解した。
クロエが恐れたのではない。驚いたのでもない。もっと深く、古い傷に触れられた時の反応だった。
足音はゆっくり近づいてくる。
白いライトの群れが道を開け、月明かりの届く場所へ、その男の輪郭が浮かび上がろうとしていた。




