第23話
桐子は、シュヴァリエ城の廊下がまっすぐすぎると思った。
王都の養成所にも長い廊下はある。だが、この城の廊下はただ長いだけではない。壁が厚く、窓が高く、曲がり角の先が見えにくい。装飾は美しいのに、歩いているとどこか緊張する。
城なのだから当たり前だ。そう思おうとしても、足元の感覚が落ち着かなかった。
桐子は建築に詳しくない。
それでも、ここが生活のためだけに作られた場所ではないことは分かる。長い廊下は兵を通すためのものにも見え、壁の厚さは外からの攻撃を受け止めるためのものにも見える。窓の高さや階段の曲がり方も、敵が簡単に進めないよう計算されている気がした。
美しい城である前に、ここは防衛施設なのだ。
そう思った途端、観光のような気分は薄くなった。
クロエは城内の案内を続けていた。大広間、回廊、書庫の入口、儀礼用の小ホール。どこも古く、磨き込まれている。人の手が入っている場所は整いすぎるほど整っていて、逆に普段使われていない区画は扉の前から空気が違った。
「こっちは?」
桐子が立ち止まったのは、廊下の奥にある大きな扉の前だった。
他の部屋と比べて、装飾が少ない。扉には古い金具がついており、左右には燭台型の照明が並んでいる。淡い魔法の光が灯っていたが、廊下全体の明るさに比べると少し弱い。
「古い調度品の保管区よ」
クロエが答える。
「壊れた家具や、今は使わない儀礼道具を置いているだけ。客人に見せるものではないわ」
「普段は誰も入らないんですか」
「管理の時くらいね」
その時、アイギスが足を止めた。
桐子も一歩遅れて止まる。
「どうしたの」
クロエが振り返った。
アイギスは扉の方ではなく、廊下全体を見ていた。目で何かを探しているというより、空気の中にある見えない流れを確かめているようだった。
「魔力の流れが妙だ」
「魔力?」
桐子は周囲を見回した。
何も見えない。壁は壁で、照明は照明だ。海からの風が遠くで窓を鳴らしている。使用人の気配もない。
「私はそこまで分からないけれど」
クロエの声に、わずかな緊張が混じる。
「どの辺り?」
「照明の周囲。それと、奥の扉の向こう。普段使われていない区画にしては、魔力が新しい」
アイギスは少し眉を寄せた。
「人の出入りもある」
「足跡で分かるんですか」
桐子は床を見る。磨かれた石床には、はっきりした足跡など残っていない。だが、よく見ると扉の下に薄い擦れ跡があった。古い扉を最近開け閉めした時につくような、わずかな傷だ。
桐子はしゃがみ込んだ。
「埃が、扉の下だけ切れてます」
クロエの表情が変わる。
「誰が」
言いかけて、彼女は口を閉じた。
答えはまだ出せない。だが、心当たりがないわけではない。そういう顔だった。
「戻ろう」
アイギスが言った。
「ここで立ち止まり続けるのは良くない。調べるなら、準備してからだ」
その判断は正しい。
桐子にも分かった。分かったが、背中を向けた瞬間に扉の向こうから何かが出てきそうで、首の後ろがざわついた。
歩き出すと、照明の光がわずかに揺れた。
風ではない。
桐子は足を止めかけたが、アイギスが小さく首を振った。今は反応するな、という意味だと受け取る。
廊下を抜け、城門へ続く広い通路に出る。
そこにも違和感があった。
城門はただの門ではない。重い扉、上部の狭間、左右の防壁。外敵の侵入を防ぐための機構が、建物そのものに組み込まれている。桐子は城の構造に詳しくないが、人が戦うための場所だということは分かる。
その金具の一部が、不自然に新しかった。
「あれ、最近交換したんですか」
桐子が指さすと、クロエは目を細めた。
「聞いていないわ」
その一言で、空気がさらに冷える。
アイギスは周囲を見渡した。
「城門の制御機構か。細工されている可能性がある」
「そんなこと、城の中の人間じゃなければ」
クロエはそこで言葉を切った。
城の中の人間。
桐子は、駅前の領民たちの笑顔と、城門で並んだ使用人たちの目を思い出した。同じ西部領の人間なのに、空気が違いすぎる。
その時、桐子の端末が震えた。
魔界に来てから使うようになった通信端末だ。慣れない操作にも、最近ようやく戸惑わなくなってきた。
表示された名前を見て、桐子はすぐに応答した。
「サニーさん?」
「白銀」
通信越しの声は短く、いつもより硬かった。
「どうしたんですか」
「気をつけなさい。あの教団はまだ死んでいない」
桐子の呼吸が止まった。
クロエの顔から血の気が引く。アイギスが即座に周囲を確認した。
「教団って、魔神教団ですか」
「そう。城の中だけを見るな。西部領全域で動きがある。こっちも散る」
「散るって、サニーさんは」
「遅れる」
その一言が、ひどく重かった。
サニーが遅れる。それはつまり、今ここで何かが起きても、すぐには助けに来ないということだ。
「生き延びなさい。クロエを守れ。アイギス、聞こえてる?」
「聞こえています」
アイギスが桐子の端末へ近づく。
「盾が出せると思い込むな」
アイギスの目がわずかに揺れた。
「了解」
桐子はその一言の意味を、少し遅れて理解した。
盾が出せると思い込むな。
それは、アイギスの武具創造が使えなくなる可能性をサニーが見ているということだ。桐子自身の槍も、クロエの雷も、同じように奪われるかもしれない。
魔法がある世界に来て、魔法を学び始め、ようやく少しだけ自分の力と向き合えると思ったところで、その前提を丸ごと剥がされる。
喉の奥が冷えた。
「クロエ」
クロエは唇を結んでいたが、すぐに答えた。
「聞いているわ」
「あんたの家よ。折れるな」
「当然よ」
クロエの声は強かった。
その直後、通信が切れた。
雑音すらない。音そのものを断ち切られたように、端末は沈黙した。
次の瞬間、廊下の奥の照明が一つ消えた。
小さな音がした。
また一つ。
また一つ。
魔法の光が、順番に落ちていく。燭台型の照明が暗くなり、壁の装飾が黒い影へ沈む。非常用の照明もつかない。城の奥から闇が連鎖して迫ってくるようだった。
「何ですか、これ」
桐子は端末を握りしめる。
アイギスが手を前へ出した。
銀色の盾が生まれかける。
しかし光は形になる前に歪み、薄くほどけた。
アイギスの表情が硬くなる。
「魔法が、崩されている」
クロエが息を呑んだ。
最後の照明が消える。
完全な暗闇ではなかった。高い窓から月明かりが差し込み、海に反射した光が青白く揺れている。けれど、それは人が安全に歩くための明かりではない。
廊下の奥で、金属が擦れる音がした。
桐子は反射的に腰へ手を伸ばす。
予備の短槍が、そこにある。
魔法ではない、ただの武器。握った瞬間、冷たい安心が手の中に落ちた。
鍛冶屋で買った短槍だ。
試験の時は、武具創造の未熟さを補う隠し武器として使った。今は意味が違う。魔法ではないから残る。魔法ではないから、この異常の中でも自分の手にある。
桐子はアトラトルの感触も確かめた。投槍器として使える距離ではないかもしれない。それでも、棒としても使える。道具は使い方で変わる。黒峰の道場で、何度もそう教わった。
「来ます」
桐子が言った。
闇の向こうから、白い光がいくつも揺れた。統一されていない、奇妙に現代的な灯り。その下で、鎧を着た人影がこちらへ歩いて来た。




