第22話
クロエは、自分の城を案内するのが嫌いではなかった。
嫌いではない。そう言い聞かせている時点で、少し嘘が混じっていることも分かっていた。
シュヴァリエ城には、見せるべきものが多い。歴代領主の肖像、吸血鬼の家系に伝わる儀礼用の広間、海を望む回廊、古い書庫、領主が民と謁見した大広間。どれも西部領の歴史であり、クロエがいずれ引き継ぐものだ。
だが、その歴史の中には母の不在が染み込んでいる。
桐子とアイギスは、余計なことを言わずについてきていた。桐子は見るものの多さに圧倒され、黒い石柱を見上げ、天井画に目を奪われ、古い鎧の前で足を止める。アイギスは城の構造や廊下の幅、窓の位置を自然に確認していた。休暇で訪れている客人というより、護衛か軍人の目に近い。
「ここが大広間よ」
クロエは扉を開けさせた。
高い天井。海側へ開いた大きな窓。壁には歴代領主の肖像が並んでいる。最も新しい肖像画の前で、桐子が足を止めた。
金の髪と紫の瞳を持つ、華やかに笑う女。
ローザ・シュヴァリエ。
「お母さん、ですか」
桐子が静かに言った。
「ええ」
クロエは短く答えた。
肖像画の母はいつも笑っている。クロエの記憶にある母も、よく笑っていた。軽やかで、明るく、城の空気を勝手に自分の色へ変えてしまう人だった。領主として人々の前に立つ時も、クロエを抱き上げる時も、母はどこか楽しげだった。
幼い頃のクロエは、その笑顔が西部領そのものなのだと思っていた。
嵐の前でも、母が笑えば使用人たちは落ち着いた。領民が不安を抱えて城へ来ても、母はまず椅子に座らせ、茶を出させ、相手の話を最後まで聞いた。そのうえで必要な命令を出す時だけ、声の温度が少し下がる。優しいだけではない。軽いだけでもない。その切り替えこそが、領主としての母の強さだった。
クロエはずっと、その背中を追ってきた。
「綺麗な人ですね」
「当然よ」
クロエは即答した。
桐子が少し驚いた顔をする。アイギスは何も言わず、肖像画へ目礼した。その沈黙が、クロエにはありがたかった。
「十一年前の事件は、授業で聞いているでしょう」
自分から切り出す。
桐子の表情が引き締まった。
「魔神教団の襲撃、ですよね」
「西部領を狙った大規模な襲撃だったと学んだ」
アイギスが補う。
「そう。母は当時の領主として戦った。領主であり、吸血鬼であり、戦士だった。民を守るために前に出て、最後まで退かなかった」
言葉にすると、胸の奥が少し痛む。
何度も聞かされてきた話だ。何度も自分に言い聞かせてきた話でもある。母は強かった。だから、自分も強くあらねばならない。弱さを見せることは、母の名を汚すことだと、幼い頃のクロエは本気で信じていた。
「私は、その時の記憶が断片的なの」
クロエは肖像画を見上げた。
「小さかったから、全部を覚えているわけではない。音と、匂いと、誰かの腕の中にいたこと。母が私を見て笑ったこと。その後のことは、ほとんど大人たちから聞いた話」
「それでも、話すんですか」
桐子の声は慎重だった。
「話せる範囲でね」
クロエは振り返る。
「あなたたちは客人よ。けれど、それだけではないでしょう。サニー教官が何の意味もなくあなたたちを西部領へ寄越すとは思えない」
桐子が気まずそうに視線をそらした。アイギスは否定しなかった。
「実地研修、という名目は聞いている」
「なら、少しは知っておきなさい。ここは観光地ではないわ」
クロエは歩き出した。
大広間の奥には、海へ続く回廊がある。窓の外では雲が流れていた。光が差したかと思うとすぐに影が落ちる。西部領らしい空だ。
「事件の後、父は変わった」
その言葉を出す時、喉が少し強張った。
父。
そう呼ぶことに、クロエは昔から違和感を覚えている。だが、口にするならその言葉しかない。
「元から、母とは違う人だったわ。静かで、何を考えているか分かりにくくて、私には少し遠い人だった。でも、事件の後はもっと悪くなった。城の空気も、使用人も、少しずつ変わっていった」
「止められなかったんですか」
桐子が言ってから、すぐに唇を結んだ。責めるつもりはなかったのだろう。けれど、問いはまっすぐだった。
クロエは怒らなかった。
「私が幼かったから。後見人という立場は強いのよ。書類と手続きで進められたことは、感情だけでは止められない」
合法であることと、正しいことは違う。
その当然の言葉を、幼い頃のクロエは何度も飲み込まされた。母がいれば、と考えたこともある。だが、言ったところで母は戻らない。
「だから、私は強くならなければならなかった」
回廊の先で立ち止まる。
窓の外、崖下の海が見えた。白い波が岩に砕け、細かな飛沫が風に持ち上げられている。
「弱ければ奪われる。幼ければ利用される。知らなければ、守るべきものが壊されても気づけない。母が守ったものを私が守れないのなら、何のために生き残ったのか分からない」
「クロエさん」
桐子の声が少しだけ揺れた。
クロエは振り向かない。慰めが欲しいわけではない。可哀想だと思われたいわけでもない。ただ、知ってほしかった。
自分が立っている場所が、どれほど足場の悪い場所なのか。
そして同時に、知ってほしくないとも思っていた。
城の内情を語れば、クロエ自身の弱さも見える。父を警戒していること、使用人たちを完全には掌握できていないこと、母の死をいまだに自分の中で処理できていないこと。西部領の次代として立つなら、そんなものは表へ出すべきではない。
それでも、黙っていれば二人は何も知らないまま巻き込まれる。
その方が、もっと嫌だった。
「あなたは、もう十分強い」
アイギスが言った。
その声は静かだった。
「少なくとも私は、試験でそう感じた」
「足りないわ」
クロエは即答した。
「足りないから、今もこうしているの」
「そうか」
アイギスはそれ以上押さなかった。桐子も黙っている。その沈黙が、クロエには少しだけ心地よかった。言葉で埋められない場所を、無理に埋めようとしない。そういう距離の取り方を、この二人は意外と知っている。
回廊の向こうに、使用人が一人立っていた。
見慣れない顔だ。
クロエが視線を向けると、使用人は深く頭を下げた。
「クロエ様。後見人様より、後ほどお時間を頂戴したいとのことです」
丁寧な声だった。
だが、胸の奥が冷える。
「分かったわ」
クロエは平然と答えた。
使用人はもう一度礼をして去っていく。足音が遠ざかるまで、誰も話さなかった。
「後見人様、というのは」
桐子が小さく聞く。
「私の父よ」
クロエは言った。
それ以上の説明はしなかった。今の段階で口にできることと、口にすべきではないことがある。何より、桐子とアイギスを巻き込んでしまっているという事実が、今さらのように重くなった。
招待したのは自分だ。
表向きは客人として、実際にはサニーの指示も含んだ実地研修として。理由はいくつもある。けれど、危険を薄々感じていながら二人を連れてきたことに変わりはない。
クロエは指先を握り込んだ。
守る側でなければならないのに、守られる可能性がある。それを想像しただけで、胸の奥がひどく苛立った。
窓の外で、雲が太陽を隠す。
肖像画の母の笑顔が、急に遠く感じられた。




