第21話
西部領の駅へ降り立った瞬間、桐子はまず空の色が違うと思った。
王都の空は、広く乾いた明るさを持っていた。西部領の空はそれよりも低く、雲の流れが速い。晴れている場所と曇っている場所が同じ視界の中にあり、遠くの海の方では灰色の雲が厚く重なっている。風には塩の匂いが混じり、肌に触れる湿気も少し重かった。
「天気、悪くなるんですか」
「ここではよくあることよ」
クロエは慣れた調子で答えた。
駅舎の外には、シュヴァリエ家の迎えが来ていた。黒塗りの車体に銀の装飾が細く入った車で、王都で見た軍用車両とは違う重みがある。運転手はクロエを見ると深く頭を下げたが、その動きは妙に硬く、礼儀正しさの中に緊張が混じっていた。
それより先に、駅前に集まっていた人々の方が動いた。
「クロエ様」
「お帰りなさいませ」
「養成所はいかがですか」
声がいくつも重なる。
桐子は思わず足を止めた。領民たちはクロエへ向けて笑っていた。作りものではない笑顔だ。緊張はあるが、それ以上に安堵がある。子どもを抱いた女性が頭を下げ、年配の男が帽子を取り、若い兵士らしき青年が背筋を伸ばして敬礼する。
クロエの立ち姿が、養成所にいる時と少し変わった。
背筋は同じように伸びている。だが、そこに乗る重さが違う。特別クラスの同級生としてではなく、西部領の次代として、彼女はそこに立っていた。
「皆、変わりはないかしら」
声はよく通った。気高さを崩さず、それでいて相手を遠ざけすぎない。桐子には真似できない声だった。
「外縁の畑は?」
「今年は悪くありません。中心部の天候は相変わらずですが」
「それは毎年のことでしょう」
短いやり取りに、周囲が少し笑う。
西部領。
クロエが背負う場所。
桐子は、その言葉の意味を駅前の空気だけで少し理解した気がした。クロエはただ強いから偉いのではない。彼女を見て安心する人たちがいる。その視線を受けて立つことが、次代という立場なのだ。
車に乗ると、街並みはすぐに変わっていった。駅周辺には商店や宿が並び、人の出入りも多い。だが中心部へ近づくにつれて、建物の色は濃くなり、石造りの壁が増える。尖った屋根、細長い窓、蔦の絡む古い壁。どこか絵本の中の城下町のようで、同時に夜になればまるで別の顔を見せそうな気配もあった。
「葡萄畑はあまり見えないんですね」
桐子が窓の外を見ながら言うと、クロエは頷いた。
「中心部は天候が安定しないの。畑はもっと外れにあるわ。西部領の酒を期待していたなら残念ね」
「してません。未成年です」
「魔界でも未成年よ」
アイギスが真面目に補足する。
「そこは同じなんですね」
桐子が少し安心したように言うと、クロエは窓に映った彼女の顔を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
車はやがて坂道へ入った。風が強くなり、窓の向こうに海が見える。崖の下で白い波が砕け、飛沫が風に持ち上げられていた。坂の先には城がある。黒い石と白い装飾で組み上げられた、細く高い尖塔を持つ城。晴れ間から差す光を受けているのに、明るいというより冷たい美しさがあった。
「シュヴァリエ城よ」
クロエの声が、少しだけ低くなる。
桐子は城を見上げたまま息を呑んだ。
その城は海を背負っていた。崖上に建ち、風を受け、足元に波音を抱いている。守るための城であり、見送るための城でもあるように見えた。
「吸血鬼が死んだ時、遺灰を海風へ撒く風習がある」
アイギスが静かに言った。
「授業で聞いたことがある」
「ええ。この崖は、そのための場所でもあるわ」
クロエは窓の外を見たまま答えた。
桐子は返事に迷った。死んだ者の灰を海へ返す。それは美しいようで、寂しい。人間界にも似た風習はあるのだろうが、目の前の崖と海に結びつくと、急に現実味を帯びる。
ローザという名前を、桐子はクロエから聞いていた。
西部領の先代領主で、クロエの母。強く、美しく、領民から愛され、今はもうこの世にいないとされている人。
その人の灰も、本来ならこの風に乗るはずだったのだろうか。
そう考えかけて、桐子は口を閉じた。クロエに聞いていい話ではない。少なくとも、城へ着いたばかりの今、観光気分で触れていいものではなかった。
城門では使用人たちが並んでいた。
歓迎の形は整っている。頭を下げる角度も、手の位置も、声を揃える間も正確だった。だが桐子は、駅前で感じた温かさをそこには見つけられなかった。
笑顔はある。
けれど目が笑っていない。
クロエを見る目も、主人を迎えるものというより、何かを確認する目に近い。動きは丁寧なのに、空気だけがひどく冷たい。
駅前の人々は、クロエが戻ったことを喜んでいた。
ここにいる人々は、クロエが戻ったことによって何かが始まるのを待っているように見えた。
同じ「お帰りなさいませ」でも、そこに含まれる温度が違う。桐子はその違いをうまく言葉にできなかったが、身体だけは先に反応していた。首の後ろが落ち着かず、いつでも動けるよう足裏の重心が少し前へ寄っている。
「お帰りなさいませ、クロエ様」
中央に立つ老執事だけが、その列の中で違っていた。
白髪をきちんと撫でつけ、背には年齢が出ている。だが姿勢は崩れておらず、声は穏やかで、動きに無駄がない。彼が一礼すると、クロエの表情がわずかに緩んだ。
「留守を任せたわ」
「お待ちしておりました」
老執事の視線が、桐子とアイギスへ向く。
「お二方も、遠路ようこそお越しくださいました。クロエ様のご友人として、心より歓迎いたします」
「白銀桐子です。お世話になります」
「アイギス・アージェントです。よろしくお願いします」
老執事は深く礼をした。その所作は完璧だった。だからこそ、桐子は彼が周囲の使用人たちを一瞬だけ見たことに気づいた。
警戒している。
その目だけで、桐子の背中に薄い緊張が走った。
案内された客室は広すぎて落ち着かなかった。天井が高く、窓からは海が見える。家具は古く、磨き込まれている。壁の装飾も調度品も、桐子の知る生活感とはずいぶん違う。それでも本来なら、客人を迎えるために整えられた空間なのだろう。
だが、廊下を歩く使用人の足音はぎこちない。扉の前に立つ者の視線も、不自然に長く残る。
荷物を置いた後、老執事が茶を運んできた。クロエは所用があると言って別の使用人に呼ばれ、室内には桐子とアイギス、老執事だけが残る。
老執事は静かにカップを置いた。
「差し出がましいことを申し上げます」
その声は、先ほどよりも低かった。
桐子は背筋を伸ばす。
「はい」
「クロエ様のお父上や、その使用人をあまり信用なさりませぬよう」
空気が止まった。
アイギスの目が細くなる。
「客人に向ける忠告としては、かなり重いですね」
「承知しております」
老執事は表情を変えない。
「ですが、クロエ様はご友人をお連れになった。ならば、お二方にも知っておいていただくべきでしょう」
友人。
その言葉に、桐子はわずかに反応した。クロエ本人からそう紹介されたわけではない。だが、この老執事はそう扱った。西部領の城で、クロエのそばにいる者として、桐子とアイギスを見ている。
嬉しいより先に、責任のようなものが来た。
客人としてもてなされるだけなら、笑っていればいい。だが友人としてここにいるのなら、見ないふりをしてはいけないものがある。
「何が起きているんですか」
桐子が尋ねる。
老執事はすぐには答えなかった。廊下の向こうで足音がして、彼はその方向を一度だけ見た。
「この城は、長く留守を預かるには広すぎる場所でございます」
答えになっていない。
けれど、答えそのものよりも重い言葉だった。
扉がノックされる。老執事はすぐに穏やかな顔へ戻った。
「お茶が冷めぬうちにどうぞ」
使用人が入ってくる。老執事は何事もなかったように礼をし、部屋を出ていった。
桐子はカップに触れた。温かい。
温かいのに、指先だけが冷えていた。




