第20話
1章後半、開幕です。
夏季休暇という言葉が教室のあちこちで聞こえ始めた頃、クロエ・シュヴァリエは、特別クラスの空気に自分が思っていた以上に馴染んでいることに気づいた。
それは誇るべきことなのか、警戒すべきことなのか、まだ判断がつかない。
養成所での日々は、入所試験の派手さに比べればずっと地味だった。朝は魔力制御の基礎から始まり、昼には座学、午後には軍事教練や個別訓練が入る。魔法制御では、一定の出力で魔力を流し続ける訓練や、指定された形に魔力を整える課題を延々とやらされる。派手な雷撃を撃つより、一定の光を消さずに保つ方が難しい日もあった。
桐子は、その単純な課題でよく苦戦していた。
銀色の光は出る。出るのだが、形が安定しない。槍を作ろうとして、棒状の塊になり、先端だけが妙に膨らみ、途中で曲がる。本人は真剣そのものなのに、生成物だけを見ると失敗した芸術作品のようで、初めて見た時はリュウガまで言葉に困っていた。
「笑っていいんですか、これ」
「笑いたいなら笑いなさい」
「いや、作ってる本人が一番笑えないので」
桐子はそう言って、手の中の歪な金属塊を見下ろしていた。悔しそうではあるが、投げ出す様子はない。壊れた形を観察し、次はどこを意識すればいいかを考える。その泥臭さは、クロエの知る貴族の訓練とは少し違っていた。
座学では、魔法体系、各領の政治構造、魔獣の発生条件、軍属としての基本規則が扱われる。クロエにとっては幼い頃から聞かされてきた内容も多いが、桐子にとっては世界そのものの説明に近いらしい。彼女は時々、教師の話を聞きながら眉間に皺を寄せ、端末のメモ欄にぎこちない手つきで言葉を打ち込んでいた。
「魔獣って、市街地の外に自然発生するんですよね」
ある日の講義後、桐子がクロエに尋ねた。
「そうよ。濃い魔力が淀む場所では、定期的に発生することがあるわ」
「つまり、対策しても完全にはなくならない」
「基本的にはね」
「魔界、生活難易度が高い」
桐子は本気で困っていた。軽い冗談にも聞こえるが、彼女の中では本当に生活の前提が一つずつ崩れているのだろう。クロエは少しだけ笑いそうになり、結局笑わなかった。
笑えば、桐子はたぶん一緒に笑う。だが今は、そういう種類の戸惑いではない。
軍事教練では、四人の癖がよく出た。アイギスは集団行動の中で位置取りが上手い。誰かが遅れれば自然に歩幅を合わせ、桐子が前へ出すぎれば盾で背中を支え、クロエが魔法を撃つために足を止めれば、無言で射線の邪魔にならない場所へ移動する。
リュウガは、集団の中でも目立ちすぎないように振る舞っているのが分かった。本人は隠しているつもりなのだろうが、周囲への目配りが多い。東部領の次期領主候補として育てられた者の癖なのかもしれない。
桐子は、まだ周囲を見るのが得意ではない。目の前の課題へ一直線に向かいすぎる。だが、それを責める気にはなれなかった。彼女は知らない世界に放り込まれて、まだ数か月しか経っていない。それでなお立っているだけでも、十分に異常だ。
そしてクロエ自身も、気づけば彼女たちを見る目が変わっていた。
競争相手。
同級生。
同じ訓練を受ける者。
そこから、ほんの少しだけ別の言葉へ移りつつある。
友人、と呼ぶにはまだ照れがある。だが、そう呼ばれることを拒むほど遠くもない。
「夏季休暇は、皆どうするの?」
休憩時間、桐子がそう尋ねた。
訓練場の端では、サニーが副隊長のナタリーと何か書類を見ている。サニーの顔が明らかに嫌そうなので、きっと訓練ではなく事務処理の話だろう。
「東部領へ戻る」
リュウガが答えた。
「少し早めに戻る必要があるらしい」
「何かあるの?」
クロエが尋ねると、リュウガは一瞬だけ言葉を止めた。
「まだ確定した話ではない」
返答は整っている。だが、表情は硬い。何かを聞かされているのは間違いないのに、ここで口にする気はないのだろう。
桐子もその硬さに気づいたらしく、少しだけ身を乗り出した。
「大丈夫ですか」
「大丈夫だ。東部領のことなら、俺が戻ればいい」
リュウガはそう言い切った。強い言葉だった。強いからこそ、焦りが見えた。
クロエはその強がりを追及しなかった。自分にも、踏み込まれたくない家の事情がある。
「なら、私たちは西部領ね」
クロエが言うと、桐子が目を瞬かせた。
「私たち?」
「あなたとアイギスを招待するわ。表向きは客人として。西部領を見ておいて損はないでしょう」
アイギスは少し考え、すぐに頷いた。
「サニー教官からも、実地研修として話は聞いている」
「聞いてたんですか」
桐子が驚く。
「白銀には後で説明するつもりだったのだろう」
「後でって便利な言葉ですね」
桐子の言い方に、クロエは少しだけ肩の力が抜けた。
実際には、クロエの招待だけではない。サニーの指示もある。第7班が裏で動いていることも、クロエは薄く聞かされていた。西部領の状況を見せる。実地で学ばせる。何かあれば対応できるようにする。名目はいくつもつけられる。
だが、クロエにとっては別の意味もあった。
自分の領地を見せたい。
母が守った場所を、自分が背負おうとしている場所を、ただ肩書きとしてではなく見てほしい。
それを言葉にするのは、少し照れくさかった。
「西部領って、吸血鬼の領地ですよね」
桐子が真面目な顔で言った。
「そうよ」
「作法とか、ありますか。首筋を見せないとか」
「あなた、吸血鬼を何だと思っているの」
「すみません。偏見でした」
桐子は即座に頭を下げた。謝り慣れているというより、間違えたらすぐ認める性格なのだろう。
「でも、楽しみです。クロエさんの故郷なら、見てみたい」
その言葉は、飾りなく出てきた。
クロエは返事に少しだけ遅れた。
「退屈はさせないわ」
ようやくそれだけ言う。
胸の奥で、母の肖像画と、海沿いの城と、崖に吹く風が一度に浮かんだ。懐かしさより先に、薄い緊張が走る。
夏季休暇初日、王都の駅はいつもより賑わっていた。各領都へ向かう者たちが荷物を抱え、見送りの家族や軍関係者が行き交っている。魔道列車は装甲板に覆われ、厚い窓を持ち、普通の旅客列車というより移動する砦に近い。
桐子は車体を見上げて、複雑な顔をした。
「前にも思いましたけど、列車が強そう」
「実際、強いわ」
「列車に強い弱いってあるんですね」
「路線内に魔獣が侵入することもある。強くなければ困る」
アイギスが真面目に補足すると、桐子は少し遠い目をした。
「魔界の交通、やっぱり命がけすぎる」
その反応も、以前よりは落ち着いていた。慣れたのか、諦めたのか、あるいは両方か。変化ではある。
クロエは乗車口の前で一度だけ王都を振り返った。
サニーの姿はない。見送りなどする人ではないし、裏側で動いていることも分かっている。それでも、何かを置いていくような感覚が胸に残った。
西部領へ帰る。
本来なら安堵を伴うはずの言葉が、今日は妙に重い。
「クロエさん?」
桐子に呼ばれ、クロエは顔を上げた。
「何でもないわ。行きましょう」
魔道列車の扉が閉まる。厚い壁の向こうで王都の喧騒が遠ざかり、車体がゆっくりと動き出した。
窓の外で、夏の光が装甲板を白く照らしていた。




