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いずれ空へと続く道  作者: 白銀スーニャ
第1章:西の不死と死と過去
23/44

EX4

 翌朝、クロエ・シュヴァリエは食堂の入口でしばらく立ち止まっていた。

 理由は単純だ。

 入りづらい。

 昨日の自分は、ドラゴンの血を飲み、悪酔いし、店の卓と椅子と壁の装飾を壊し、サニーに首根っこを掴まれて床へ押さえつけられた。

 記憶はある。

 曖昧ではあるが、ある。ないことにしたかったが、ある。

 西部領の次代として、あまりにも不本意な醜態だった。誇り高く振る舞うべき立場の者が、肉があるならもっと血もあるでしょう、などと口走った。思い出すだけで指先が冷たくなる。

 クロエは一度深く息を吸い、背筋を伸ばした。

 弱みを見せてはいけない。

 恥をかいた時ほど、堂々としていなければならない。

 食堂へ入ると、特別クラスの三人はすでに席にいた。アイギスは姿勢よく朝食を取っている。リュウガは少し早めに食事を終えたのか、茶を飲んでいた。桐子は皿の上の卵料理を不思議そうに見つめている。

 クロエに気づいたのは、アイギスが最初だった。

「おはよう、クロエ」

「おはよう」

 普通だった。

 あまりに普通だったので、クロエは少し反応が遅れた。

 リュウガも頷く。

「体調は問題ないか」

「ええ。問題ないわ」

「ならよかった」

 本当に、それだけだった。

 桐子が顔を上げる。

「おはようございます。水、飲みます?」

「なぜ水を勧めるの」

「昨日、サニーさんが酔った後は水って言ってたので」

「酔っていないわ」

 反射的に言った。

 桐子は箸を止めた。こちらの食器にも箸に似たものがあることを、クロエは昨日知ったばかりだ。

「えっと」

「酔っていないわ」

「はい」

「少し、血の質が合わなかっただけ」

「はい」

「何か言いたそうね」

「言ったら怒られそうなので」

「賢明ね」

 桐子は口を閉じた。

 アイギスがそっと水の入った杯をクロエの前へ置く。

「飲んだ方がいい」

「あなたまで」

「事実として、昨日は水分を取った方がよい状態だった」

「事実で殴らないで」

 思わず本音が出た。

 一瞬、沈黙が落ちる。

 それから桐子が笑いをこらえる顔をした。リュウガは真面目に視線を逸らし、アイギスは表情を変えないまま、自分の皿へ視線を戻した。

 笑われている。

 だが、嘲笑ではない。

 クロエはその違いに、少し戸惑った。

 失態を責められるわけでも、腫れ物のように扱われるわけでもない。なかったことにされるわけでもない。彼女たちは、昨日のことを覚えている。そのうえで、朝食の席にクロエの場所を残している。

 友人。

 その言葉が頭をよぎり、クロエはすぐに打ち消した。

 まだ早い。

 だが、良き友人になるかもしれない人たち、という言い方なら、今の距離に近いのかもしれない。

「昨日のことは」

 クロエは席に着きながら言った。

「必要以上に広めないように」

「分かりました」

 桐子が頷く。

「必要な範囲では?」

「広めないように」

「はい」

 リュウガが咳払いをした。

「店員への謝罪は、昨日のうちに済ませた。修理費はサニー教官が持つと言っていたが、後で正式な扱いは確認されるだろう」

「そこまで真面目に報告しなくていいわ」

「必要かと思った」

「必要だけど、今はいらない」

 リュウガは少し困った顔で頷いた。

 クロエは水を飲んだ。悔しいことに、体に染みた。

「そもそも、格上の血を飲むと悪酔いする可能性が上がるなんて、聞いたことはあったのよ」

「じゃあ、なんで飲んだんですか」

 桐子が聞いた。

 クロエは胸を張る。

「一度飲んでみたかったからよ」

「理由が強い」

「好奇心は貴族にも必要よ」

「昨日のは好奇心っていうか」

「桐子」

「はい」

 名前を呼ぶと、桐子はすぐ黙った。

 少し扱い方が分かってきた気がする。

 食事が進むうち、話題は自然と飲み物の話へ移った。ドラゴンの血はもう二度と飲まない、少なくとも今は飲まないとクロエが宣言し、桐子が人間界の酒の年齢制限について話し、リュウガが東部領の薬酒について説明した。

「西部領なら、赤ワインが有名だ」

 クロエは言った。

「母が好きだった銘柄があるわ。処女の生き血」

 桐子がむせた。

 アイギスの手が即座に水差しへ伸びる。リュウガは一瞬だけ眉を動かしたが、育ちの良さで表情を整えた。

「名前」

 桐子が咳き込みながら言う。

「すごい名前ですね」

「西部領ローカルの新酒よ。その年に採れた葡萄で作る赤ワインの一部に、そう名付けられるの。流通量はごくわずかで、西部領外にはまず出ない。年数を経たものは別の名前で売られるから、幻の酒と言っていいわ」

「へえ……」

 桐子は感心しているのか、引いているのか分からない顔をした。

「吸血鬼の領地だから、その名前なんですか」

「そういう趣味もあるでしょうね。悪趣味だけれど、覚えやすい」

 クロエは少しだけ目を伏せた。

「母はそれをよく飲んでいたわ。華やかで、少し癖があって、若い味がするのだと言っていた」

 ローザのことを口にすると、朝の食堂の音が少し遠くなる。

 昨日、サニーは謝った。

 守れなかったと。

 クロエは許したわけではない。けれど、サニーの声が軽くなかったことは分かっている。母を知る大人たちは、皆、少しずつ違う形で母の不在を抱えている。

 桐子が、何気ない顔で言った。

「それ、本当に赤ワインだったんですか?」

 クロエは顔を上げた。

「どういう意味?」

「いや、吸血鬼の人が好きだったって聞くと、名前が名前だから」

「失礼ね。赤ワインよ」

 言い返した。

 言い返してから、ほんの少しだけ引っかかった。

 赤ワイン。

 そう聞いていた。そう説明されていた。母は笑って、これは葡萄で作った酒だと言っていた。クロエが子どもの頃、グラスの中で揺れる濃い赤を見て、本当に血みたいだと思ったことがある。

 香りは。

 あの香りは、葡萄だけだっただろうか。

 クロエはすぐに考えを振り払った。

「赤ワインよ。たぶん」

「たぶんって言いました?」

「言っていないわ」

「今」

「言っていないわ」

 桐子は黙った。

 アイギスが静かに茶を飲み、リュウガが真面目な顔で話題を変える。

「西部領を訪れる機会があれば、その酒を見てみたいものだ」

「未成年に出すものではないわ」

「見るだけだ」

「なら、機会があれば」

 クロエはそう答えた。

 いつか、彼らを西部領へ連れていく日が来るかもしれない。

 その時、自分はどんな顔で屋敷に戻るのだろう。母のいない家。父のいる家。処女の生き血と名付けられた赤ワインが、今もどこかの蔵に眠っているかもしれない場所。

 胸の奥に小さな違和感が残った。

 だが、朝食の席には桐子がいて、アイギスがいて、リュウガがいる。

 昨日の失態を覚えていて、それでも普通に水を差し出してくる人たちがいる。

 クロエは杯を手に取った。

 中身はただの水だ。

 今日は、それで十分だった。

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