EX4
翌朝、クロエ・シュヴァリエは食堂の入口でしばらく立ち止まっていた。
理由は単純だ。
入りづらい。
昨日の自分は、ドラゴンの血を飲み、悪酔いし、店の卓と椅子と壁の装飾を壊し、サニーに首根っこを掴まれて床へ押さえつけられた。
記憶はある。
曖昧ではあるが、ある。ないことにしたかったが、ある。
西部領の次代として、あまりにも不本意な醜態だった。誇り高く振る舞うべき立場の者が、肉があるならもっと血もあるでしょう、などと口走った。思い出すだけで指先が冷たくなる。
クロエは一度深く息を吸い、背筋を伸ばした。
弱みを見せてはいけない。
恥をかいた時ほど、堂々としていなければならない。
食堂へ入ると、特別クラスの三人はすでに席にいた。アイギスは姿勢よく朝食を取っている。リュウガは少し早めに食事を終えたのか、茶を飲んでいた。桐子は皿の上の卵料理を不思議そうに見つめている。
クロエに気づいたのは、アイギスが最初だった。
「おはよう、クロエ」
「おはよう」
普通だった。
あまりに普通だったので、クロエは少し反応が遅れた。
リュウガも頷く。
「体調は問題ないか」
「ええ。問題ないわ」
「ならよかった」
本当に、それだけだった。
桐子が顔を上げる。
「おはようございます。水、飲みます?」
「なぜ水を勧めるの」
「昨日、サニーさんが酔った後は水って言ってたので」
「酔っていないわ」
反射的に言った。
桐子は箸を止めた。こちらの食器にも箸に似たものがあることを、クロエは昨日知ったばかりだ。
「えっと」
「酔っていないわ」
「はい」
「少し、血の質が合わなかっただけ」
「はい」
「何か言いたそうね」
「言ったら怒られそうなので」
「賢明ね」
桐子は口を閉じた。
アイギスがそっと水の入った杯をクロエの前へ置く。
「飲んだ方がいい」
「あなたまで」
「事実として、昨日は水分を取った方がよい状態だった」
「事実で殴らないで」
思わず本音が出た。
一瞬、沈黙が落ちる。
それから桐子が笑いをこらえる顔をした。リュウガは真面目に視線を逸らし、アイギスは表情を変えないまま、自分の皿へ視線を戻した。
笑われている。
だが、嘲笑ではない。
クロエはその違いに、少し戸惑った。
失態を責められるわけでも、腫れ物のように扱われるわけでもない。なかったことにされるわけでもない。彼女たちは、昨日のことを覚えている。そのうえで、朝食の席にクロエの場所を残している。
友人。
その言葉が頭をよぎり、クロエはすぐに打ち消した。
まだ早い。
だが、良き友人になるかもしれない人たち、という言い方なら、今の距離に近いのかもしれない。
「昨日のことは」
クロエは席に着きながら言った。
「必要以上に広めないように」
「分かりました」
桐子が頷く。
「必要な範囲では?」
「広めないように」
「はい」
リュウガが咳払いをした。
「店員への謝罪は、昨日のうちに済ませた。修理費はサニー教官が持つと言っていたが、後で正式な扱いは確認されるだろう」
「そこまで真面目に報告しなくていいわ」
「必要かと思った」
「必要だけど、今はいらない」
リュウガは少し困った顔で頷いた。
クロエは水を飲んだ。悔しいことに、体に染みた。
「そもそも、格上の血を飲むと悪酔いする可能性が上がるなんて、聞いたことはあったのよ」
「じゃあ、なんで飲んだんですか」
桐子が聞いた。
クロエは胸を張る。
「一度飲んでみたかったからよ」
「理由が強い」
「好奇心は貴族にも必要よ」
「昨日のは好奇心っていうか」
「桐子」
「はい」
名前を呼ぶと、桐子はすぐ黙った。
少し扱い方が分かってきた気がする。
食事が進むうち、話題は自然と飲み物の話へ移った。ドラゴンの血はもう二度と飲まない、少なくとも今は飲まないとクロエが宣言し、桐子が人間界の酒の年齢制限について話し、リュウガが東部領の薬酒について説明した。
「西部領なら、赤ワインが有名だ」
クロエは言った。
「母が好きだった銘柄があるわ。処女の生き血」
桐子がむせた。
アイギスの手が即座に水差しへ伸びる。リュウガは一瞬だけ眉を動かしたが、育ちの良さで表情を整えた。
「名前」
桐子が咳き込みながら言う。
「すごい名前ですね」
「西部領ローカルの新酒よ。その年に採れた葡萄で作る赤ワインの一部に、そう名付けられるの。流通量はごくわずかで、西部領外にはまず出ない。年数を経たものは別の名前で売られるから、幻の酒と言っていいわ」
「へえ……」
桐子は感心しているのか、引いているのか分からない顔をした。
「吸血鬼の領地だから、その名前なんですか」
「そういう趣味もあるでしょうね。悪趣味だけれど、覚えやすい」
クロエは少しだけ目を伏せた。
「母はそれをよく飲んでいたわ。華やかで、少し癖があって、若い味がするのだと言っていた」
ローザのことを口にすると、朝の食堂の音が少し遠くなる。
昨日、サニーは謝った。
守れなかったと。
クロエは許したわけではない。けれど、サニーの声が軽くなかったことは分かっている。母を知る大人たちは、皆、少しずつ違う形で母の不在を抱えている。
桐子が、何気ない顔で言った。
「それ、本当に赤ワインだったんですか?」
クロエは顔を上げた。
「どういう意味?」
「いや、吸血鬼の人が好きだったって聞くと、名前が名前だから」
「失礼ね。赤ワインよ」
言い返した。
言い返してから、ほんの少しだけ引っかかった。
赤ワイン。
そう聞いていた。そう説明されていた。母は笑って、これは葡萄で作った酒だと言っていた。クロエが子どもの頃、グラスの中で揺れる濃い赤を見て、本当に血みたいだと思ったことがある。
香りは。
あの香りは、葡萄だけだっただろうか。
クロエはすぐに考えを振り払った。
「赤ワインよ。たぶん」
「たぶんって言いました?」
「言っていないわ」
「今」
「言っていないわ」
桐子は黙った。
アイギスが静かに茶を飲み、リュウガが真面目な顔で話題を変える。
「西部領を訪れる機会があれば、その酒を見てみたいものだ」
「未成年に出すものではないわ」
「見るだけだ」
「なら、機会があれば」
クロエはそう答えた。
いつか、彼らを西部領へ連れていく日が来るかもしれない。
その時、自分はどんな顔で屋敷に戻るのだろう。母のいない家。父のいる家。処女の生き血と名付けられた赤ワインが、今もどこかの蔵に眠っているかもしれない場所。
胸の奥に小さな違和感が残った。
だが、朝食の席には桐子がいて、アイギスがいて、リュウガがいる。
昨日の失態を覚えていて、それでも普通に水を差し出してくる人たちがいる。
クロエは杯を手に取った。
中身はただの水だ。
今日は、それで十分だった。




