EX2
夜の訓練場は、昼間とは違う音がした。
観客の歓声も、試験官の笛も、受験者たちの足音もない。照明用の魔導具が低く唸り、遠くの寮からかすかな話し声が流れてくるだけだ。王都の空は明るく、星は少ない。それでも、昼の熱が抜けた空気は肌に冷たかった。
リュウガ・シノノメは、一人で木剣を構えた。
長剣を右手に、短剣を左手に。基本の形。そこから一歩踏み込み、斬り、引き、持ち替える。長剣を捨てる。腰の短棒を抜く。足元に置いた槍を拾う。槍を払う。柄を詰める。近づく。投げる。
動きは止めない。
止まると、余計なことを考える。
いない相手を紹介は出来ないな。
昼間、クロエ・シュヴァリエへ返した自分の言葉が、耳の奥に残っていた。
強がりだった。
悪くない返答だったとは思う。感情を荒げなかった。相手を責めなかった。兄の死を軽く扱われたわけではない。クロエは知らなかっただけだ。知らない者へ怒りをぶつけるのは、筋が違う。
だが、胸の奥は荒れていた。
兄は優秀だった。
武も、学も、立ち居振る舞いも、人の前に立つために必要なものを、兄は当たり前のように持っていた。努力もしていた。才能だけで立っていた人ではない。だからこそ、リュウガは追いかけた。
追いつけるとは思っていなかった。
それでも、隣に立てる日が来ると思っていた。
兄が生きていれば、東部領の未来はもっと分かりやすかったはずだ。誰も迷わず、誰も余計な不安を抱えず、兄の背中を見ていればよかった。リュウガも、その隣で自分にできる役目を探せばよかった。
けれど、兄はいない。
自分を庇って死んだ。
その事実だけが、何度打ち込んでも折れない杭のように胸に残っている。
リュウガは槍を振った。
風切り音が夜に走る。踏み込みが浅い。すぐに分かる。焦りが足に出ている。もう一度。今度は深く。深すぎる。戻りが遅い。自分の身体を叱るように、リュウガは何度も同じ動きを繰り返した。
兄なら、もっと静かに動いた。
兄なら、もっと正しく選んだ。
兄なら、自分の未熟で誰かを死なせたりしなかった。
その考えが浮かぶたび、リュウガは武器を変えた。剣。槍。棍。短刀。素手。武器を変えれば、思考も変わる。間合いが変われば、悔恨の形も少しだけずれる。
だが、消えはしない。
「まだ、足りない」
声に出すと、夜気がそれを冷たく受け取った。
昼の試験で、白銀桐子はクロエに負けた。だが、彼女は霧化を使わせた。未熟な武具創造を、投槍器と体術で補い、自分より格上の相手へ一手を届かせた。
アイギス・アージェントは集団戦で戦線を支えた。盾の配置で味方の時間を作り、崩れそうな場を崩さなかった。
クロエ・シュヴァリエは強かった。雷撃も身体能力も、あの年齢で使える霧化も、全てが西部領の次代という肩書きにふさわしい。
では、自分は何を示した。
勝った。
武器を奪い、相手を崩し、試験官に止められる形まで持っていった。
それだけだ。
勝っただけでは足りない。
兄の代わりに立つと言うなら、ただ強いだけでは足りない。東部領を背負うと言うなら、勝敗の先まで見なければならない。自分の未熟さが誰かの死に繋がることを、二度と許してはならない。
リュウガは息を吐き、木剣を両手で握った。
今度は、兄の構えを真似た。
ほんの少しだけ肩の位置が変わる。足の置き方も、呼吸も違う。幼い頃、何度も見た背中。訓練場の朝。汗の匂い。木剣が打ち合う音。兄が振り返り、もう一度だと言った声。
記憶の中の兄は、いつも前にいる。
リュウガは踏み込んだ。
斬る。
違う。
もう一度。
斬る。
違う。
何度繰り返しても、兄の動きにはならない。当たり前だ。リュウガは兄ではない。兄になれるはずもない。それなのに、兄の代わりに立たなければならないと思っている。
矛盾している。
分かっていても、やめられない。
木剣を振るう手の皮が擦れ、痛みが走った。リュウガは構わず続けた。痛みがある方がいい。痛みは単純だ。未熟さよりも、罪悪感よりも、ずっと扱いやすい。
「兄上」
呼んでも返事はない。
当然だ。
いない相手を紹介は出来ない。
いない相手に追いつくこともできない。
それでも、背中は残っている。
リュウガは木剣を下ろし、荒くなった呼吸を整えた。夜の訓練場に、自分の息だけが残る。
兄の代わりに立つ。
その言葉は、きっとまだ強がりだ。
けれど、強がりでも口にしなければ立てない夜がある。焦りを稽古に打ち込み、痛みで迷いを押し潰し、それでも明日の朝にはまた背筋を伸ばして歩く。
リュウガは木剣を拾い直した。
もう一度。
兄のためではない、と言える日はまだ遠い。
だから今は、兄のために振る。
いつか、自分自身の名で立てる日まで。




