第17話
クロエ・シュヴァリエは、勝つことに慣れていた。
慣れなければならなかった、と言う方が正しい。
西部領の次代として立つ者が、弱さを見せるわけにはいかない。ましてクロエは、ただの領主家の娘として扱われたことがない。幼い頃から、ローザの名と西部領の未来を背負う者として見られてきた。誰かに守られるだけの子どもでいる時間は、早々に終わらされていた。
その扱いを、クロエは恥じてはいない。
だが、守られる側だった過去を忘れたこともない。
母は強かった。華やかで、軽やかで、誰よりも責任を知っていた。クロエにとってローザは、母であり、領主であり、目指すべき姿だった。
その母は、もういない。
そう教えられてから、クロエの家は少しずつ形を変えた。
父は、もともと信用できる相手ではなかった。吸血鬼ではない父。ローザの隣に立つには、どこか薄く、どこか歪んで見える男。クロエは幼い頃から、父を全面的に信じたことがない。
母がいた頃は、それでも家の形は保たれていた。
母がいなくなってから、父の悪い部分は隠れなくなった。
領主家の空気は冷え、使用人たちの視線は固くなり、クロエへ向けられる期待と同情は同じ顔をするようになった。かわいそうな子。強くあらねばならない子。母の跡を継ぐ子。
そのどれもが、クロエには不快だった。
同情は助けにならない。期待は鎧になるが、重すぎれば呼吸を奪う。父はそれらを都合よく使い分けた。クロエを守るためだと言いながら、屋敷の空気を自分の支配しやすい形へ寄せていく。母がいれば笑って砕いたはずの歪みが、誰にも止められず積もっていった。
だから、弱く見られるわけにはいかなかった。
ならば、強くあるしかない。
クロエは雷撃を放った。
試験終盤の戦闘区画で、対戦相手が防御魔法を展開する。悪くない反応だ。けれど、遅い。クロエの雷は防御の縁を滑り、相手の足元へ落ちた。結界が威力を調整しても、衝撃は十分に相手の体勢を崩す。
踏み込む。
身体強化は、呼吸と同じくらい自然に行う。吸血鬼としての身体能力に、魔力による補正を重ねる。速く、鋭く、美しく。弱さを思い出させる隙など、誰にも見せない。
相手の肩を押さえ、地面へ沈める。
試験官の笛が鳴った。
また勝った。
観客席から歓声が上がる。クロエは姿勢を整え、乱れた髪を指先で払った。呼吸は少し速いが、表には出さない。疲れていると思われることさえ、今のクロエには不要だった。
勝利は証明だ。
自分は弱くない。
西部領の次代として立てる。
ローザの名を汚さない。
そのために、勝ち続ける。
結界の外へ出ると、治療班が一応の確認に来た。クロエは軽く手を振って断る。小さな擦り傷は、すでに塞がり始めていた。再生能力も吸血鬼の性質の一つだ。結界の保護がある試験なら、クロエが本当に治療を必要とする場面は少ない。
控え区画の端では、白銀桐子が座っていた。
治療を受けている。先ほどの雷撃で痺れが残っているのか、時々指を握ったり開いたりしている。隣にはアイギス・アージェントが立ち、何かを真面目な顔で話していた。
桐子は負けた。
クロエが勝った。
当然の結果だ。
それなのに、クロエの中には妙な引っかかりが残っていた。
最初は、未知の候補者というだけだった。サニー・アージェントの後見を受けた出自不明の少女。噂としては面白いが、戦闘相手として警戒するほどではない。魔力運用は未熟で、武具創造らしき槍も歪だった。
だが、彼女は隠し武器を持っていた。
武具創造で作ったものではない、本物の短槍。投げても残る。拾って使える。魔法で補えない部分を、道具と身体で埋めていた。
さらに、あの体術。
槍の使い手だと思わせておいて、近づいた後の方が厄介だった。関節、重心、呼吸。クロエの身体能力で踏み越えられたからよかったものの、普通の相手なら崩されていたかもしれない。
霧化を使わされた。
その事実が、クロエの中で小さく棘のように残っている。
霧化自体は、吸血鬼として珍しい能力ではない。だが、生物としての身体を非生物の霧へ変え、再び形へ戻すには相応の練度が必要だ。クロエの年齢で実戦運用できる者は多くない。
だからこそ、できれば見せずに勝ちたかった。
見せる必要があるところまで、桐子が来た。
「妙な子」
クロエは小さく呟いた。
桐子がこちらに気づいた。目が合う。負けた直後の目にしては、妙に真っ直ぐだった。悔しさはある。痛みもある。だが、自分を卑下する色は薄い。
クロエは少しだけ顎を上げた。
桐子は何か言いかけ、治療班に肩を押さえられて顔をしかめた。
その反応が少しおかしくて、クロエは表情が緩みそうになるのを抑えた。
気を抜いてはいけない。
ここには観客がいる。軍関係者がいる。西部領の者も見ているかもしれない。クロエ・シュヴァリエは、常にクロエ・シュヴァリエとして見られる。
母がいない今、自分の弱さを許してくれる人はいない。
いや。
許してくれたとしても、クロエ自身が許せない。
父のことを思い出す。
屋敷の廊下。冷たい声。母がいた頃には表に出しきれなかった歪み。領地のため、家のため、クロエのため。そういう言葉を使いながら、どこかで自分のためだけに動いているように見える男。
母がいなくなったことで、家は父の影を濃くした。
だからこそ、クロエは強くなければならない。
父に任せておけない。
母の残した西部領を、誰かの歪んだ手に渡すわけにはいかない。
次の試験で、クロエはまた勝った。
雷撃で相手の動きを止め、身体強化で距離を詰め、抵抗を許さず制圧する。観客は歓声を上げる。試験官は端末へ評価を入力する。クロエは礼を取り、結界の外へ出る。
繰り返しだ。
勝つ。
証明する。
弱くないと、何度でも。
夕刻が近づく頃、試験の主要日程が終わった。観客席の熱は少しずつ落ち着き、売店の片づけが始まっている。それでも会場のあちこちで、今年の有望株についての話が続いていた。
アイギス・アージェントの盾。
リュウガ・シノノメの武器術。
クロエ・シュヴァリエの雷撃と霧化。
そして、白銀桐子の奇妙な戦い方。
桐子の名前が混ざっていることに、クロエは少しだけ意外な気持ちになった。
負けた者の名前は、普通なら勝者ほど残らない。だが、彼女は残った。勝敗とは別のところで、目を引いたのだ。
控え区画の出口で、桐子がアトラトルを腰に戻しているのが見えた。アイギスが何か言い、桐子が少しむっとした顔で返す。二人の距離は、もう同室になったばかりの他人という感じではなかった。
クロエはその光景を見て、胸の奥にほんの小さなざらつきを覚えた。
羨ましい、ではない。
たぶん、違う。
けれど、自分にもああいう距離が必要なのかもしれないとは思った。
すぐに、その考えを打ち消す。
必要なのは強さだ。
強ければ、守れる。強ければ、認めさせられる。強ければ、母の名も、西部領も、自分自身も失わずに済む。
その考えが正しいのかどうか、クロエにはまだ分からない。
けれど他の答えを知らなかった。ローザを失った日から、クロエの周囲に残った言葉はいつも同じだった。強くあれ。誇りを持て。領主家の娘として立て。誰も、弱くてもいいとは言わなかった。
それでも、桐子の戦い方は記憶に残った。
歪な槍。
隠した短槍。
負けても折れない目。
クロエは歩き出す。
明日には、クラス分けの資料が出る。例年通りなら、クロエの進路はある程度決まっている。西部領の次代として、通常クラスに紛れる理由は少ない。
特別クラス。
その名が頭をよぎる。
もし、あの出自不明の少女も同じ場所に来るのなら。
クロエは、少しだけ興味があった。




