第15話
白銀桐子、対、クロエ・シュヴァリエ。
表示板に並んだ二つの名前を見た瞬間、観客席のざわめきが一段大きくなった。西部領の次期領主と目される令嬢と、出自不明のサニー・アージェント後見人。賭け札を握った観客たちにとっては、いかにも話題にしやすい組み合わせなのだろう。
桐子にとっては、それどころではなかった。
結界の内側へ足を踏み入れる。さっきの集団戦と同じ淡い光が足元を走り、身体の表面を薄い膜で撫でていった。ここで負った傷は、外へ出れば軽くなる。致命傷や後遺症は防がれる。
そう説明されても、怖いものは怖い。
痛みは本物だ。
負けることも、本物だ。
向かい側から、クロエが歩いてきた。
金の髪が、会場の光を受けて柔らかく輝いている。紫の瞳は涼しげで、立ち姿には一切の迷いがなかった。華奢な少女に見える。けれど先ほど見た戦いでは、彼女は雷そのもののような速さと鋭さで相手を制圧していた。
桐子は腰のアトラトルを確認した。背には短槍。手の中には、まだ何も作らない。武具創造で作った槍は、形が歪で、長く保てず、見切られやすい。なら、最初から頼り切るべきではない。
作れる。
だが、それだけでは勝てない。
「あなたが、白銀桐子ね」
クロエの声は、澄んでいた。丁寧だが、少し高い場所から降りてくるような響きがある。
「はい。よろしくお願いします」
「妙な噂を聞いているわ。サニー・アージェントの後見を受けた、出自不明の候補者」
「噂って便利ですね。私より私に詳しそう」
言ってから、少し軽すぎたかもしれないと思った。
だがクロエは、怒りはしなかった。紫の目がわずかに細くなる。
「口は回るのね」
「手も足も、それなりには」
「そう。なら見せて」
試験官の笛が鳴った。
瞬間、クロエの周囲に雷光が走った。
桐子は横へ跳んだ。さっきまで立っていた場所を、青白い雷撃が貫く。地面に触れた光が結界へ吸われ、焼けた匂いだけが薄く残った。避けたはずなのに、肌がびりびりと痺れる。
速い。
詠唱も、予備動作も、桐子にはほとんど読めなかった。
クロエは動かない。遠距離から撃てる。しかも精度が高い。桐子が走る方向を、先に置くように雷撃が飛んでくる。
このまま距離を取られれば、何もできずに終わる。
桐子はアトラトルに短槍を掛けた。息を吸い、足を踏み込み、放つ。
短槍が空気を裂いた。
クロエは半歩だけ動いた。たったそれだけで、槍は彼女の脇を通り過ぎる。避けた動きは優雅で、無駄がない。
「悪くないけれど」
雷光。
桐子は身を沈めた。頭上を雷が掠め、髪が少し焦げる。焦げた匂いに息が詰まる。
「真っ直ぐすぎるわ」
クロエの声が近く聞こえた。
桐子は咄嗟に歪な槍を手の中に作る。銀の光が棒状に伸びるより早く、クロエが踏み込んでいた。吸血鬼の身体能力。華奢な体からは想像できない圧が、真横から来る。
受ければ折れる。
桐子は槍を盾にせず、相手の腕の外側へ滑らせた。黒峰流の体捌き。相手の力を正面から止めるのではなく、ずらして懐へ入る。
肘を狙う。
クロエの手が、桐子の肩を掴んだ。
掴まれた瞬間、骨ごと固定されたような感覚が走る。力が強い。桐子は歯を食いしばり、膝を入れようとした。
雷が、至近距離で弾けた。
痛みが全身を走る。筋肉が勝手に硬直し、視界が白くなった。結界が威力を鈍らせているはずなのに、息ができない。
桐子の身体が地面を転がる。
観客席が沸いた。
遠い。
音が遠い。
桐子は腕に力を入れた。起き上がる。膝が笑う。口の中に鉄の味がした。結界の内側での損傷は外へ出れば軽くなる。だが今、舌を噛んだ痛みは確かにそこにある。
「立つの」
クロエが言った。
感心ではない。確認に近かった。
「まだ、止められてません」
桐子は短く答えた。
クロエの目が少しだけ変わる。
次の雷撃が来た。桐子は避けるふりをして、前へ出る。雷の軌道が読めるわけではない。けれどクロエは、桐子が逃げる場所を潰すように撃つ。なら、逃げない選択肢を混ぜる。
アトラトル。
投げる。
クロエは避ける。
その避けた先へ、桐子は走っていた。
手元には、歪な槍。まともな穂先ではない。それを突くのではなく、棒として振る。クロエの腕が上がる。受ける。桐子はその接触を待っていた。
槍を手放す。
体を沈め、足を刈る。
黒峰流の技は、武器を持つ相手にも、持たない相手にも通じるように作られている。相手が吸血鬼でも、関節の向きや重心はある。桐子はクロエの軸を崩した。
崩した、はずだった。
クロエの身体が異様な滑らかさで回る。爪先が地面を噛み、崩れた体勢を筋力だけで戻した。吸血鬼の身体能力。技の理屈を、力と反射で踏み越えてくる。
それでも一瞬、止まった。
桐子は背から短槍を抜く。
隠していた一本。
武具創造の槍ではない。本物の金属。だから消えない。手放しても残る。拾える。使い直せる。
短槍がクロエの肩を狙う。
クロエの表情から、笑みが消えた。
次の瞬間、クロエの身体が霧になった。
桐子の短槍は、金の髪も白い肌も貫かず、薄い霧を裂いて空を切る。目の前にいたはずの少女が、形を失い、桐子の背後へ流れた。
会場がどよめく。
吸血鬼の霧化。珍しくない能力だと、後で聞けばそう言われるのかもしれない。だが、桐子にとっては初見だった。生物が霧になる。非生物のように形をほどき、また少女の形へ戻る。
理解が追いつかない。
背後から腕が回った。
クロエの手が桐子の首元を押さえ、膝が背中へ入る。地面へ叩きつけられ、視界が揺れた。さらに雷の気配が首筋に触れる。
動けば、焼かれる。
「試合停止」
試験官の声が響いた。
雷は放たれなかった。
桐子の身体から力が抜ける。負けたのだと理解するより先に、息が戻った。クロエの手が離れ、結界内の圧が少し薄くなる。
観客席が大きく沸いた。勝者を讃える歓声。賭けに勝った者の叫び。意外に粘った出自不明の少女へのざわめき。
桐子は地面に手をつき、どうにか身を起こした。
痛い。
悔しい。
でも、何もできなかったわけではない。
クロエは桐子を見下ろしていた。勝者の余裕はある。だが、最初に会った時のような涼しさだけではなかった。紫の瞳に、わずかな熱がある。
「あなた」
クロエは言った。
「本当に妙な戦い方をするのね」
「褒め言葉ですか」
「評価よ」
クロエはそう言って、踵を返した。
桐子は結界の外へ出る。身体の痛みが一段軽くなり、雷で焼けたような痺れも薄らいだ。治療班が駆け寄ってくる。軽傷へ変わったとはいえ、手当ては必要らしい。
控え区画の入口で、アイギスが待っていた。
「無事か」
「負けました」
「見ていた」
「かなり」
「見ていた」
アイギスは同じ言葉を繰り返し、それから少しだけ表情を和らげた。
「だが、届きかけた」
その言葉で、桐子の胸の奥に残っていた悔しさが、少しだけ別の形に変わった。
届かなかった。
だが、届きかけた。
その差を埋めるために、ここにいる。
桐子は治療班に腕を差し出しながら、遠くのクロエを見た。金髪の少女は、観客席の歓声を当然のように受けている。強い。今の自分より、はっきり格上だ。
だからこそ、次はもう少し近づきたいと思った。




