第12話
サニー・アージェントは、書類仕事が嫌いだった。
正確に言えば、書類そのものが嫌いなのではない。必要なことを必要な形で記録し、後から確認できるようにする作業の価値は理解している。軍に属する以上、口頭で済ませていいことと、記録に残すべきことの区別もつく。
嫌いなのは、書類を書くための書類と、承認のための承認と、責任の所在を曖昧にしないためだけに責任者の署名を増やす仕組みだった。
養成所の入所試験準備は、その嫌いなものの詰め合わせに近い。
サニーは執務机の上に積まれた資料を睨んだ。受験者一覧、警備計画、医療班配置、観客席の導線、賭け札の管理、結界設備の事前点検、各クラスの定員と選抜基準。戦闘試験だけをやればいいという話ではない。毎年恒例の行事であり、王都の娯楽であり、軍の次世代を披露する場であり、ついでに運営費を稼ぐ機会でもある。
ついでの比重が、年々大きくなっている気がする。
「お姉様、本日の資料です!」
扉が開く前から声がした。
サニーは額を押さえた。
「ナタリー、ノック」
「しました! 心の中で!」
「現実でしなさい」
ナタリー・ヴァーミリオンは、書類の束を抱えて部屋へ入ってきた。赤みを帯びた髪が跳ねるように揺れ、表情は朝から無駄に明るい。副隊長としての能力は高い。事務処理も早く、判断も的確で、現場に出せばよく働く。
ただし、サニーが関わるとだいたい面倒になる。
「お姉様、昨日の訓練記録も拝見しました。初日から二名同時に叩きのめすなんて、さすがです。教育的で、合理的で、苛烈で、美しいです」
「褒め方が怖い」
「愛です」
「もっと怖い」
ナタリーは机の上へ資料を並べた。動きは無駄なく、分類も正確だ。口さえ閉じていれば優秀な副官そのものなのに、口を開くとだいたい台無しになる。
「特別クラス候補について、現時点での資料をまとめました。アイギス・アージェント、白銀桐子、クロエ・シュヴァリエ、リュウガ・シノノメ。この四名を中心に見る形でよろしいですね」
「中心に見るだけ。合否に口は出さない」
「承知しています。お姉様は合否ではなく、配属に意見を出す立場です」
「その呼び方もやめなさい」
「お姉様?」
「そこじゃない」
サニーは資料を受け取った。
アイギスの欄には、事前成績と適性評価が整然と並んでいる。防御適性は高く、集団戦での評価も良い。反面、単独での攻撃能力はまだ弱い。予想通りだった。
桐子の欄は薄い。
出自不明。後見人、サニー・アージェント。固有魔法、武具創造系。魔力運用、基礎未修。武術経験あり。備考欄には、観察中という言葉が置かれている。
薄い資料ほど、実物は厄介だ。
サニーは紙面を指で叩いた。
「桐子の情報はこれ以上出さない。会場公開分は、私が後見人であることだけでいい」
「噂になりますよ」
「もうなってる」
「サニー・アージェントが出自不明の少女を後見する。しかも特別クラス候補。賭け札の倍率が荒れそうですね」
「賭ける側の都合まで知らない」
「運営収益には関わります」
「嫌な正論」
サニーは椅子にもたれた。
入所試験は、昔から興行の側面を持っている。軍属の卵がどれだけ育っているかを王都の市民へ示し、領地の名家が次代の顔を売り、一般客は声援と賭け札で盛り上がる。危険ではあるが、危険を管理できることもまた軍の力を示す材料になる。
致命傷や後遺症を防ぐ結界がある。
治療班が控えている。
試験官が強制停止をかけられる。
だから安全だと、運営は言う。
サニーは、その安全という言葉をあまり信用していなかった。死なないことと、傷つかないことは違う。結界の中で受けた痛みは本物で、恐怖も敗北も消えない。
だが、それを知るための試験でもある。
「お姉様」
ナタリーの声が少しだけ低くなった。
「白銀桐子は、そこまで見ますか」
「見る」
「壊れませんか」
「壊れるなら、ここじゃなくても壊れる」
冷たい言い方だと、自分でも思う。
だが、桐子はもう壊れる理由を持っている。親友を刺した。未来から落とされた。自分の力を知らないまま、異界へ放り込まれた。優しい場所へ置いておけば治る種類の傷ではない。
なら、必要なのは囲いではなく、使い方を覚えるための場所だ。
ナタリーは少しだけ目を伏せた。
「お姉様がそう判断するなら」
「あんたは納得してない顔」
「副隊長としては納得しています。個人としては、お姉様がまた面倒なものを背負われたなと」
「背負ってない。押し付けられた」
「背負い直すところまで見えています」
「嫌なこと言う」
サニーは資料を閉じた。
その時、通信端末が鳴った。表示された名前を見て、サニーは一瞬だけ眉を動かす。
ステラ・アージェント。
姉の名前。
ナタリーがわずかに姿勢を正した。彼女はサニーへの態度こそあれだが、ステラに対しては軍人としての礼を崩さない。
「出る」
サニーが端末を操作すると、ステラの声が部屋に流れた。
「忙しいところ悪いわね、姉さん」
「本当に忙しい」
「なら手短にするわ。アイギスの様子は?」
サニーは窓の外を見た。遠くの訓練場で、特別クラス候補の二人が基礎走をしている。桐子は途中で何度も失速し、アイギスは一定の速度を保ちながら、その少し前を走っていた。
振り返りすぎない。
だが、置いていかない。
アイギスらしい走り方だった。
「真面目。硬い。守ることに偏ってる。昨日、少し発想が広がった」
「そう」
ステラの声が柔らかくなる。
母親の声だった。
「無理はさせすぎないで」
「無理をさせるために預かってる」
「壊さない範囲で」
「分かってる」
短いやり取りだった。
それで十分でもあった。ステラはサニーを信じている。サニーはその信頼を面倒に思いながら、雑には扱えない。
「それと、白銀桐子のこと」
ステラが続けた。
「アイギスには、どこまで?」
「私が後見人。それだけ」
「そう。なら、アイギスも踏み込みすぎないでしょう」
「あの子は賢い」
「ええ。だから時々、自分の傷を後回しにする」
サニーは返事をしなかった。
血筋というものは面倒だ。似てほしくないところほど、よく似る。
通信の向こうで、ステラが小さく息を吐いた。
「試験の日は、可能なら顔を出すわ」
「忙しいんじゃないの」
「娘の晴れ舞台よ」
「入所試験を晴れ舞台って言うの、どうなの」
「王都中が見るのだから、似たようなものよ」
確かに、観客は入る。賭け札も動く。軍関係者だけでなく、一般客も来る。受験者にとっては、ただの試験で済まない。
サニーは桐子の薄い資料を見た。
出自不明。
後見人、サニー・アージェント。
その文字だけで、会場の噂好きたちはいくらでも物語を作るだろう。
「姉さん」
ステラの声が、少しだけ改まった。
「お願いね」
「何を」
「アイギスも、桐子さんも」
「……仕事だから」
「ええ。そういうことにしておくわ」
通信が切れる。
サニーは端末を置いた。
ナタリーが、何か言いたそうにこちらを見ている。
「何」
「お姉様、愛されていますね」
「黙りなさい」
「はい!」
返事だけはいい。
サニーは資料の束をもう一度見下ろした。試験までに決めるべきことは多い。結界設備の確認、治療班の増員、特別クラス候補の配置、観客席の警備、公認賭博の不正監視。
どれも面倒だ。
それでも、やるしかない。
窓の外で、桐子が転び、アイギスが少しだけ速度を落とした。手を貸すほどではない。ただ、立ち上がるまでの間合いを守るように、彼女は横を走った。
桐子は自力で立ち上がる。
そして、また走り出した。
サニーはそれを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「ナタリー」
「はい、お姉様」
「試験当日、あの二人を同じ予選組に入れられるか確認して」
「戦力的には不利な組になりますが」
「だからいい」
盾は、守るものがいて初めて意味を持つ。
槍は、届かせるための道があって初めて刺さる。
互いが何を持っているのか、早めに知っておいた方がいい。
ナタリーは笑った。
「承知しました。お姉様の教育方針、嫌いではありません」
「好きとも言わないで」
「大好きです!」
「仕事しなさい」
サニーは次の書類を開いた。
そこには、今年の入所試験の観客席配置図が広がっている。紙面の上では、何もかも整然としていた。現実はきっと、もっと騒がしく、もっと汚く、もっと面倒になる。
子どもたちがそれを知る日まで、あと少しだった。




