EX40
サニーは、会場の熱が一度死ぬ瞬間を知っていた。
歓声でも怒号でもない。息を呑む音が広がり、誰もが次に何が起きるのかを測れなくなる。戦場では、その一瞬に勝敗が傾く。式典でも、政治の場でも、それは同じだった。
黒い龍真が膝をつき、アイギスの盾に押さえ込まれている。
リュウガは血を流していた。肩も脇腹も浅くはない傷を負っている。だが、目は折れていない。兄の姿をしたものを見て、記憶に引きずられ、足を止めかけ、それでも自分の判断で前へ出た。
なら、ここから先を奪うべきではない。
サニーが手を出せば早かった。銀閃で心臓を貫き、不滅の魔石ごと切り離し、伯耀の芝居を力ずくで終わらせることはできたかもしれない。だがそれでは、リュウガは一生、兄の姿をしたものに届かなかった自分を抱えることになる。
強さで片づけてよい傷と、本人が踏み越えなければ残る傷がある。
リュウガのそれは、後者だった。
煤に汚れた琥珀色の石が、龍真の胸から抉り出された。
不滅の魔石。
壊せない石。壊そうとしても壊せなかった石。多くの研究者がそう扱い、教団が崇め、北部が欲しがり、どこからか横流しされてきたもの。出元に心当たりがないわけではない。だが、確定していない疑念をここで口に出す意味はなかった。サニーはその石を見下ろし、指先がわずかに冷えるのを感じた。
理屈はなかった。
ただ、知っている感覚があった。
かつて私は魔女だった。
その名残である固有魔法ならば、届くかもしれない。
声には出さない。出す必要もない。サニー自身、今の自分を魔女だとは思っていない。とうに辞めたものだ。辞めたはずのものの残滓が、なぜ今も銀の光として手の中に残っているのか。そんな問いは、戦場で掘り返すものではなかった。
リュウガが差し出した石を、サニーは受け取った。
「離すな」
アイギスへ言う。
「はい」
短い返事と同時に、盾の圧が増した。黒い龍真の身体は、核を失ってもまだ命令を果たそうとしている。首が傾き、空洞になった胸から黒い煤のようなものが漏れ、指が床を掻く。生きている者の執念ではない。動けと命じられたものが、動く理由だけを失えずにいる。
サニーは周囲を見た。
観客からは、リュウガとアイギスの身体で石は見えない。東部領の関係者数名、サニーの近くにいる者、そして伯耀だけが、何が起きるのかを見届けられる位置にいた。
それで十分だった。
銀の光は、声も音もなく走った。
最大出力ではない。戦場を薙ぐものでもない。ただ一点へ、細く、深く。石の中にある終わらない理屈へ、終わりの形だけを差し込む。
不滅の魔石に、割れ目が入った。
壊せないはずのものが、あっけなく崩れる。黒い光が一度だけ滲み、砂のようになってサニーの手のひらから落ちた。
黒い龍真が動きを止めた。
会場の熱が戻るより先に、伯耀の笑みが消えた。
サニーはその変化を見逃さなかった。驚き。計算外。ほんの一瞬だけ、芝居がかった余裕の下から、何も準備していない顔が覗いた。
「終わりね」
サニーは伯耀へ歩いた。
伯耀の周囲にいた者たちは、誰も彼を庇わなかった。手続きが彼の盾だった。書類が彼の刃だった。だが、龍真の身体は止まり、不滅の魔石は砕けた。手続きで覆っていた異常が、異常のまま床に転がった時点で、彼はただの罪人になる。
「僕は、東部領のために」
「黙れ」
サニーは足を止めずに言った。
伯耀が一歩下がる。遅い。逃げる動作へ移る前に、サニーの手は彼の襟元を掴んでいた。骨を折る必要はない。抵抗する力の向きだけを読み、膝を落とし、床へ伏せさせる。
派手な捕縛ではなかった。
その程度でよかった。
罪人は、罪人として扱えばいい。舞台の中心へ据えてやる必要はない。
「東部領の警備へ渡す。逃がしたら、次は私が行く」
周囲の警備が一斉に動いた。伯耀は何か言おうとしたが、サニーはもう聞かなかった。
振り返ると、リュウガが床に膝をついたまま、黒い龍真の身体を見ていた。アイギスはその横に立ち、盾を消さずにいる。必要がなくなっても、すぐには手放せないのだろう。
サニーはそこへ戻らなかった。
今、かける言葉はない。
兄の身体を止めたのはリュウガだ。盾を置いたのはアイギスだ。サニーがしたのは、残った石を砕いたことだけ。
それでいい。
銀の光の残りが、指先にわずかに疼いていた。
魔女を辞めたはずの身体に、まだ残っているもの。
サニーはそれを握り潰すように拳を閉じた。考えるのは後でいい。今は、死人を戦場へ戻した者を裁く手続きと、生きている者を休ませる手配が先だった。
死者は、もう眠らせる。
生者は、まだ立たせる。
その二つを取り違えないために、サニーは会場の中央で一度だけ息を吐いた。




