第68話
クロエは、城の古い資料室で自分の指先が震えていることに気づいた。
棚には吸血鬼に関する記録が並んでいる。血統、眷属、変質、儀礼、禁忌。西部領の長い歴史の中で積み重ねられた、誇りと危険の両方を含んだ資料だ。本来なら、領主として正規の手続きを踏んで閲覧するべきものだった。
だが今、クロエは手続きの途中を飛ばしている。
鍵は開けられた。閲覧権限も、まったく無いわけではない。書面上、クロエは領主だ。けれど、ローザに告げず、執事にも頼まず、一人でここへ来た時点で、自分が褒められたことをしていないのは分かっていた。
資料の一頁に、吸血による変質の記述がある。
条件、手順、成功例、失敗例。
文字が目に入るたび、桐子の倒れていた姿が重なった。
訓練場の床に残った血。歪んだまま崩れていた槍。浅い呼吸。魔法治療がほどけていく異常。あの時、クロエは何もできなかった。手を握ることさえ、徹心に許可を求める必要があった。
桐子は回復し、今は歩けるし、訓練もしている。笑うこともある。
それでも、失うかもしれないという感覚だけが、クロエの中から離れなかった。
「何をしているの」
背後から声がした。
クロエは資料を閉じた。遅い。閉じたところで、何を読んでいたかは見られている。
ローザが入口に立っていた。
怒っている顔ではなかった。だから余計に、クロエは息が詰まった。
「母様」
「その棚を一人で見るには、少し早いわね」
ローザはゆっくり近づき、クロエの手元から資料を取った。乱暴ではない。けれど、拒ませない動きだった。
クロエは唇を噛む。
「私は領主よ」
「そうね」
「閲覧権限もあるわ」
「あるわね」
「なら」
「でも、今のあなたは領主として読んでいない」
ローザの声は静かだった。
「桐子ちゃんを失うのが怖くて、どうにか自分の側へ留める方法を探している娘として読んでいる」
胸の奥を突かれた。
クロエは反論しようとして、言葉を失った。違うと言えば嘘になる。西部領のため。将来の補佐役のため。桐子自身を守るため。いくらでも理由は並べられる。
けれど、根にあるのは恐怖だった。
桐子がいなくなる。
自分の手の届かない場所へ行く。
人間界から来た少女は、いつかまた自分の知らない理由で、知らない場所へ消えてしまうかもしれない。その恐怖が、クロエをこの資料室へ連れてきた。
「吸血鬼にすれば、そう簡単には失わないと思った?」
ローザの問いは柔らかい。
柔らかいから、逃げ場がない。
クロエは視線を逸らした。
「考えただけよ」
「考えた時点で、止めに来たの」
「母様には分からないわ」
言ってから、クロエは自分の声が幼く聞こえたことに気づいた。
ローザは少しだけ目を細める。
「分かるわよ。私も、そういう選択をしたことがあるから」
クロエは顔を上げた。
その言葉の意味を、すぐには掴めなかった。ローザは資料を棚へ戻し、鍵を閉める。金具の音が、やけに大きく響いた。
「この話は、桐子ちゃんが王都へ向かった後にしましょう」
「なぜ今では駄目なの」
「今のあなたは、桐子ちゃんを引き止める理由として使ってしまうから」
クロエは黙った。
否定できない。
ローザはクロエの肩に手を置いた。
「あなたが知るべきことはある。でも、それは桐子ちゃんの選択を縛るための道具じゃない」
その時、廊下の向こうから足音が近づいた。
使用人が資料室の入口で足を止め、深く頭を下げる。
「クロエ様。養成所経由で、白銀様宛ての書類が届いております」
「私に?」
「西部領の公的連絡先へ送られております。至急確認を、とのことです」
クロエはローザと視線を交わした。
資料室を出て執務室へ向かうと、封筒が机に置かれていた。宛名は白銀桐子。送付経路は養成所経由、西部領公的窓口。差出人は王都の武器屋だった。
封を切る。
中に入っていたのは注文受付書だった。
品名は槍。
詳細な仕様は、一般的な武器屋の書面にしては妙に曖昧で、それでいて桐子に合わせたような項目が並んでいる。受け取り場所は王都の店。受取人は白銀桐子。
「注文した覚えがない?」
ローザが聞く。
「少なくとも私は知らないわ」
クロエは書類を握った。
桐子を呼ぶと、彼女は本当に心当たりのない顔をした。
「私、頼んでないよ」
「でしょうね」
クロエは努めて平静に言った。
「武器屋があなたの連絡先を知らないから、養成所を経由して西部領へ送ったのでしょう。手続きとしては妙だけれど、届いてしまった以上、確認は必要ね」
桐子は受付書を覗き込み、首を傾げる。
「槍、か」
「必要なら費用は西部領で持つわ。装備品なら経費扱いにできるでしょうし」
「いや、さすがに注文した覚えのないものを経費で買わせるのは」
「あなたを雇い入れる予定があるなら、先行投資と言えなくもないわ」
「雇い入れる予定」
桐子がじっと見る。
クロエは一瞬だけ視線を逸らした。
「……その話は、手続きが整ってから正式にするわ」
「外堀が聞こえる」
「聞こえる程度なら、まだ埋めていないわ」
軽口の形にはなった。
けれど、クロエの胸の奥は軽くならなかった。
桐子は王都へ向かうことになった。徹心も同行する。訓練に一応の区切りがつき、彼自身も正規の経路で人間界へ戻る必要があるため、王都まで付き添うらしい。理屈としては自然だった。注文受付書の確認も必要だ。
クロエは、その自然さが嫌だった。
無理やり引き離されるなら怒れる。誰かに奪われるなら責められる。けれど今回は違う。桐子が行く必要があり、徹心が付き添う理由があり、王都の武器屋に確認すべき書類がある。誰も悪くない。だからこそ、胸の奥に残る不満の置き場がなかった。
それでも、桐子が西部領を離れる。
その事実だけが、クロエの手から何かを抜き取っていく。
出発の日、城門前で徹心は荷物を最小限にまとめていた。桐子はまだ完全ではないが、歩き方はしっかりしている。訓練前より、どこか内側が静かになったようにも見えた。
「すぐ戻るよ」
桐子が言った。
クロエは笑おうとした。
「当然でしょう。勝手にいなくなられたら困るわ」
「うん。困らせないようにする」
その返事が、妙に桐子らしくて、クロエは少しだけ息を吐けた。
徹心が歩き出す。
桐子も続く。
クロエは門の前で見送った。ローザは隣にいる。母の手が、そっとクロエの背に触れた。
桐子の背中が遠ざかる。
たった数日、あるいはもう少しの別れかもしれない。それでも、クロエには自分の手元から離れていくように見えた。
だからこそ、次に知る話から逃げてはいけないのだと分かった。
桐子を縛るためではなく、自分が自分の恐怖を見誤らないために。
クロエは母の手の温度を背に感じながら、資料室で閉じられた棚を思い出した。
あの棚の中に、答えがあるとは限らない。むしろ、読めば読むほど逃げ道を増やすだけかもしれない。それでも、知らなければならないことがある。
桐子が戻るまでに、自分は何を聞くのか。
クロエは遠ざかる背中が見えなくなるまで、門の前を離れなかった。
見えなくなってからも、しばらくそこに立ち尽くしていた。




